5-3 誘い
◆
マコモを名乗る女はすぐに話さず、ゆっくりとタバコを取り出すと、一本をくわえてもったいぶったように火をつけた。テーブルの上の古風な金属製の灰皿を引っ張り寄せ、一度、二度とタバコの先を灰皿の淵で叩く。
「ナギ、あなたに頼みたいことがある」
「あまり聞きたくないし、今すぐあなたはここを出ていくべきだと思うけど?」
「あなたが武装していないのは知っている。私をそう簡単に制圧できるとお思い?」
「あなたを確保すれば、倭国国防省は諸手を挙げて大喜びでしょうね」
またタバコが口元へ移動し、少しだけ先が明るくなり、細く紫煙が吐き出されると私たちの周りにそれが少しの間、幻想的に漂う。
「そのリスクは承知で来た。その上でナギ、あなたと取引したいのよ」
「取引? なんで私がそんなことをしなくちゃいけないわけ? あなたたちはどちらかといえばテロリストと認識されている。私はテロリストと取引はしない」
「笑わせるわね。任務の中ではどんな奴とも取引するでしょう。私たちともすればいい」
さりげないやりとりだったが、わかったことが一つある。
マコモは一人きりで活動しているわけではない。あなたたちと呼んでも否定せず、私たちと表現した。
「あなたたちは何者なの?」
何も感づいていない平素の声で問いかけるのに、マコモは真面目な表情のまま答えた。
「雨宮凪の同源分岐人格群はこの世界に革命を起こす。世界を変えるのよ」
一転、私は冷静を装うのに苦労した。
てっきりテロリスト集団と思っていたが、違う。アメミヤ・マコモは、同源分岐人格群の集団からの使者なのだ。
「雨宮凪の同源分岐人格群というけど、どれくらいの数がいるわけ?」
「詳細には知らない」
タバコを吸いながら、マコモが答える。彼女の顔の色は、あまりに照明が薄暗すぎてよく見えなかった。
「しかし、この世界には雨宮凪の存在は明確に存在し、細部に渡りつつある。脳情報として抜群の性能を持ち、他にはない特性を持つ。何者かによって選ばれた特別な存在、それが雨宮凪よ。雨宮凪の脳情報は、他の脳情報とはまるで違う」
マコモは静かに訥々と話したが、私は自分のことを考えるのに必死だった。
仮に、雨宮凪という存在の脳情報に何らかの特異性があるのなら、自分が国防省のエージェントをしていることに少しだけ、ほんの少しだけ理由が見出される。国防省は私を使って実験しているのだ。雨宮凪の脳情報の持ち主がどう行動するかを、実際的に観察しているということだ。
そんなことがあり得るだろうか。
しかし現実に、私はこうして生きている。
「ナギ、あなたとの取引は簡単だ」
細く煙を吐いてから、マコモがタバコを灰皿でもみ消した。
「我々は倭国国防省の極秘施設、ゼロ・フロアへの潜入を考えている。そのためには国防省の内部情報に詳しいものが必要だ。潜入させたいところだが警戒されていた難しい。そこでナギ、お前に動いてもらいたい」
「あなたたちの味方をする理由がない」
即答しながら、いつかのゼロ・フロアへの潜入者はマコモたちとは協力していないのか、と想像していた。あの時の潜入者のノウハウはマコモにはないのか。
「ナギ、あなたにも得はある」
マコモの視線は闇の中から私をまっすぐに見ている。自信に溢れ、力強い視線だった。
「私たちはあなたを自由にする。今のあなたは多くのものに縛られすぎている。私たちはそこからあなたを解き放つことができる」
「薄っぺらい表現ね。私は比較的自由だよ」
今度は頭の中で自由について考える。好きなものを食べ、好きな服を着て、好きな場所へ行く。好きな仕事とは言えないけど、それなりに満足感のある仕事をしているし、例えば脳情報移植型代替身体に関しても不満はない。
どう考えても私は縛りなんて受けていなかった。
「ナギ、よく考えておいて。あなたは知らず知らずのうちに締め付けられている。私たちならそれを取り除ける」
自由とはなんだろう。
組織に属さないことか。常識に囚われないことか。
そんなものは自由ではない。自由とは不自由の上にしか存在しないのだから。
アメミヤ・マコモの言葉は美談と言っていい。
この世界に本当の自由など、純粋な自由など、存在しなかった。存在するとしても、その自由には破滅がセットになっていた。
「これから言う場所で、一ヶ月後、待っている」
いきなりマコモはそういうと、倭国の首都の住所を口にした後、時間も指定した。住所はすぐにはわからないが、倭国の国防省の目と鼻の先で、私のセーフハウスの一つとも近い。
聞かなければよかったと思ったが、もう遅い。しかし無視すればいいのだ。
それよりもこちらからは別のことを問い詰めておこう。
「マコモ、あなたは何故、雨宮凪の原版にこだわる? ゼロ・フロアを襲撃して雨宮凪をどうするつもり?」
マコモは視線をガラスの向こうにやっていた。私はそちらを見ずに、マコモの横顔を見ていた。
不思議と、どこか陶然としている顔に。
「雨宮凪は、私たちの始祖にして神よ。やがて世界に満ちる人間の、最初の一人、原初の人間なの」
やがて世界に満ちる?
脳情報移植型代替身体が当たり前になり、そこに収まる脳情報に含まれる雨宮凪の影響が広範に及ぶ、そういう未来予想図だろうか。
異常者の妄想だった。
雨宮凪の同源分岐人格群はやはり、異常をきたしているようだ。
それはもしかしたら、私も同じかもしれないが。
マコモはどこか熱のこもった声で言う。
「私たちは宗教家なのよ。宣教師と言ってもいい。雨宮凪という神の素晴らしさを広めることが役目なのよ。そのためにまず、神を解放する。神は蘇るのよ」
「そういう話は」
私はこれ見よがしにテーブルに頬杖をついて、退屈をアピールする。
「よそでやってちょうだい。私は関係ない」
「いいえ、あなたはいずれ、行動するわ。あなたは雨宮凪から生まれたんですもの」
かもね。
それだけ答えると、女はいきなり席を立って食堂を出て行こうとする。
その彼女の足が出入り口で止まったのは、そこで待ち構えていたカクリのせいだ。
カクリは、片手に拳銃を構え、その銃口はピタリとマコモの額に照準されていた。外す距離ではない。逃れられる距離でもない。
マコモは動かず、カクリも動かなかった。
沈黙。静止。
「カクリ、放っておきなさい」
私の言葉が沈黙を破った時、時間さえも動き出したように変化があった。マコモが歩みを再開し、カクリの横を抜けていく。カクリは銃を懐へ納め、マコモを睨みつけながら場所を譲った。
そうして今度は食堂に私とカクリの二人だけになった。
「レイン、推奨できない決断だ」
カクリの言葉に、私は答えなかった。いつになく苛立った様子で、カクリが言葉を続ける。
「あの女を確保するか、そうでなければ処理なしなくては、倭国国防省はお前を危険分子と見始めるだろう。今がその疑いを晴らす唯一のチャンスだった。何故、無駄にした上に危うい方へ進む?」
どうしてかな、と私はただガラスに映る自分のぼんやりとした像を見ていた。
「レイン、国防省を裏切るつもりか」
「その気はないよ。ただ……」
自分が感じている感情の不自然さには、言葉では言い表せない、食い違いがあった。まるで自分が思ってもないことが、当然のように私の中にある。起こるはずのない感情が、平然とし
た顔で私の心に居座っている。
この矛盾はなんだろう。
「ただ、私はもう、自分の姉妹を殺したくなかったのかもね」
カクリはすぐには答えなかったが、吐き捨てるように返事があった。
「偽善だ」
そう、偽善だ。よくわかっている。
姉妹は姉妹でも、普通の姉妹ではない。人間が作った、擬似姉妹。その上、作ろうと思えばこの先、無限に妹は生まれて来るとも言える。
そもそもからして、私が他の同源分岐人格群に感じる感傷のようなものは、姉妹に向けるものではない。
憐れみ、という表現が最も正確だろう。
私はどういう立場で、彼女たちを憐れんでいるのだろうか。
私もカクリも黙り込んだところで、不意にオリベリオ王国の政府職員が店主とともに戻ってきた。
「食事はどうされましたか?」
憎めない感じの言葉に私は思わず笑いながら、まだだよ、と答え、店主を見た。
「何か軽く、摘めるものをお願いします。車の中で食べたいので、テイクアウトで」
店主はどこか陰鬱な様子ながら「わかりました」と簡潔に答えて頷くと調理室の方へ歩いて行った。
私はそれを目で追ったが、カクリの顔がチラッと見えた。
その顔には苦悩がうっすらと見て取れた。
カクリが悩むことじゃない。
私が決めたことなのだから。
私は、姉妹たちとは違う道を歩く。
私は私だからだ。
(続く)
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