4-8 危険な不具合

       ◆


 私は冷えたコーヒーの入ったマグカップ片手に、キッチンで料理の最中のカクリをただ見ていた。

 別荘のような施設に軟禁されて一週間が過ぎていたが、なんの連絡もない。携帯端末は没収されてしまっていて、外部との連絡手段は前時代的な有線の電話しかない。

 まさか通信が全部、遮断されているのではないかと受話器を手に取ったが、かける相手がいない。結果、時報を放送している番号を入力して、耳元で時報の音声が流れるのが聞こえてきたことで、最低でも時報は聞けるとわかった。

 もし何かあれば、電話がかかってくるだろう。最初こそ電話を気にしたが三日も過ぎた頃からは気にならなくなった。

 気になることは、私自身についてだった。

 娼婦のような代替身体に入っているのも負担だった。こんな人間が、国防省のエージェント? ありえない。拳銃も扱えなければ、運動にさえも向いていない。

 それなのに鷹咲中佐や、姿の見えない面々は私をエージェントとして扱っている。ここに軟禁されているのもそのためだ。

 一時期、人は外見ではない、などという表現がいくつかの場面で使われたが、今の私はまったく別の意味で中身と外見が食い違っていた。

 私は私のはずなのに、この不相応な代替身体が私という存在を激しく揺るがせている。

「何を考えている」

 包丁でニンジンを薄くスライスしていたカクリが、こちらも見ずに声をかけてくる。視線は手元から動かさない。機械的な動作だが、まぁ、機械みたいなものか。

「何を考えているって、色々」

「どうせ自分の存在について考えているのだろう」

「なんでもお見通しね。でもそういうの、たぶんモテないよ。察しの良さをひけらかしているようで」

「お前が露骨すぎるんだ」

 トン、トン、と包丁がまな板に触れて小さな音を立てる。

「レイン、お前は色々と考えすぎだ」

「私の立場になれば誰だって考えすぎるんじゃない?」

「今のお前の思考は、危険な不具合と思われかねない」

「不具合?」

「度重なる脳情報の精査と転写や、脳機能パッチを当てたことによる不具合だ。お前の脳情報は極めて危険だ」

 何を言い出すかと思えば。

「ただ思春期の少女のように悩んでいるだけ、一過性だと思っているけど。で、その危険な状態の脳情報を立て直す妙案が、あなたにはある?」

「私は医者ではない。技術者でもない。だから言えることは、考えるな、しかないな」

 私はコーヒーを一口飲み、不自然な苦味に顔をしかめながらカクリに応じた。

「私たちの仕事で、考えないのは難しい。この世界では正義も悪もない。そんな単純な二元論さえ許されない場所で、どうやったら考えないでいられる。私は人間で、道具ではない。引き金を引かれたら弾を吐き出す、というだけの装置でいるわけにはいかない」

「それは論点がずれているな。任務に必要な思考ではなく、お前は自分の存在について思考している。それは任務達成とは無関係な思考だ」

 同じようなものじゃないか。そう思いながら、無言でマグカップを揺らす私だった。

「レイン、自分が何者でも、組織によって作られ、組織によって使われている自分を忘れるな」

「私はこれでも人間のつもりだよ。そりゃ、ちょっとはインチキをしているけど、生身の肉体と生身の頭脳を持って、個性もあるし、自発的な発想能力もある。感情だってある」

 死を恐れる気持ちもある、とは口の中だけにしておいた。

 カクリが切り終わった人参をザルに移動させ、次にジャガイモの皮を剥き始めた。

「では、俺は人間だと思うか? 機械の肉体に入っていて、生身は一部だけだ。俺自身は自分は人間だと思っているが、一部の人間は忌避するだろう。だが、誰がなんと言おうと、俺は俺だし、人間だ。お前もそうやって割り切ってみろ」

「そんな他人の価値観を自由に輸入できるほど器用じゃない」

「それなら突き詰めていくか? 人間とは何だ? 生まれたままの肉体で、外科的な処置を何も受けていない人間か? 薬物を一切、摂取していない人間か? 人間は誰だってどこかしらで何らかの手法の補正を受けるものだ。お前の肉体も、脳機能パッチもそれと同じだろう。つまりお前は人間だ」

 ぐっとカップの中身を飲み干し、私はそっとそばの台にマグカップを置いた。

「私が人間であるための線引きを聞きたいわね」

「脳情報がお前である、としか言えない。原版から始まっているとしても、これまでの経験、体験がお前の脳情報を成長させている。脳機能パッチの残滓さえも、お前という個性の証明となる。それでいいだろう。お前という存在は、お前という思考なんだ」

「あっけなく消えそうね。まったく、頼りない」

「人間などあっけないさ。戦場で繰り返し見ただろう」

 ため息しか漏れない。

「ところでカクリ、あなたも自分を脳情報だけの存在と自覚しているわけ?」

「私には脳そのものがある。ただ、脳情報も存在する。脳の状態をリアルタイムで更新して情報化する仕組みがある。この辺りだ」

 ジャガイモを剥いていた手を止めて、タオルで丁寧にぬぐった手で彼は首筋をトントンと叩いた。

「頑丈な仕組みではないから、破損するかもしれない。結局、その程度のものだ。命が容易に消えるように、脳情報も容易に消える。命と脳情報が等価であるとするのも、不自然な発想ではない」

 達観していること。

 それだけ言って、私はおかわりのコーヒーを用意して、リビングへ戻った。椅子に腰掛けながら、窓の外を見る。昼前なので、外は眩しいほど明るい。

 窓ガラスにうっすらと私の影が映っていた。

 まるで亡霊のよう。

 雨宮凪の亡霊。

 鷹咲中佐はもちろん、国防省も私を何故、生かしているのか。

 私がもし不具合を抱えているのなら、消去すればいい。どうせ雨宮凪の原版がある限り、私という存在は複製可能だし、それができない倫理的ハードルはすでにクリアされている。

 もしかして、今の私は誰かにとって都合のいい存在なのだろうか。こんなに揺れ動き、苦悩し続ける私にどんな利用価値がある? 自分では気づいていないだけで、特別な要素があるのだろうか。

 この破滅寸前のような私に、どんな?

 アメミヤ・ヒバナのことが思い浮かぶ。

 あの女は、少なくともあの武装勢力の人間には必要とされた。最後までその期待に応え続けた。唯一無二の、代わりのいない立場だった。私とは違う。私はただその場のことに必死に当たっただけで、それも使命のように錯覚していただけの、ただの仕事をこなすだけの存在だった。

 窓に映る判然としない自分の影を見ていると、自分など実際にはいないような気持ちになってくる。

 私はただの雨宮凪の劣化した複製に過ぎず、人間に限りなく近い肉体を与えられただけの、影に過ぎないのか。

 窓で何かが明滅しているのに気づいたのは、だから必然だった。私の影に重なるようにして、点滅する何か。

 窓に映っている、室内のモニターだ。

 素早く振り返ると、消灯しているはずの真っ黒なモニターに、小さな字で細い列が浮かび上がっている。それが灯ったり、消えたりしている。

 何て書いてある? 短い文だ。

 行動せよ。

 そう読めた。ただそれだけだ。ただそれだけの言葉が、急かすように明滅する。

 次にはもうその文字は消えていて、真っ黒なモニターがそこにあった。

 まるで幻を見たようだった。

 錯覚だろうか。それとも勘違いか。

 幻ではなく、錯覚でもなく、勘違いでもないのは、わかっている。

 でも、現実とは思いたくなかった。

 行動せよ。

 私に何を促しているのか。誰が何を促しているのか。

 しばらくモニターを見ていたが、変化はなかった。

 この日の夕方、来客があった。やってきたのは鷹咲中佐の秘書だった。

「聴問会が開かれます。これはそれに関する資料です。それと、こちらが重要です」

 ドサドサと書類の束が渡されたが、それよりも最後に差し出された紙の束が重要らしい。

「これは何ですか?」

「第二分室で用意して、聴聞会であなたが回答するべき内容です。可能な限りのシチュエーションを想定しています。あなたはそれに最適な回答をこの中から選び出し、口にすればいいのです。しかし書類を読むわけにはいきません。内容を暗記してください」

 紙をめくってみるが、信じられないほどびっしりと字が書かれている。

「失敗は許されない、ということですね」

 何気なく秘書にそう冗談を向けてみたが、真剣そのものの顔で「当たり前です」と返事があった。

「鷹咲中佐とその後ろ盾になっている方々は、あなたの一挙一動によって未来が決まります」

 それはまた……、責任重大だな。

「もしかして、怒ってます?」

 さりげなく、しかし直線的に秘書に質問を向けたが、返答はなかった。返答はなかったが、強烈な視線が私の眼球に突き刺さったので、返答は必要なくなった。失明しそうな眼光だ。

 秘書が帰って行き、私はリビングのテーブルで大量の書類を確認し始めた。自分の何が疑われていて、どんな理由で追及されるかはわかってきた。

 国防省の一部は、雨宮凪の脳情報の暴走を危惧している。同源分岐人格群が一群として不具合を生じさせると、雨宮凪の同源分岐人格群を生み出してしまった倭国の責任は重い。そもそもからして同源分岐人格群が生じている状況も、国際条約に抵触する。

 しかもアルマスタン共和国で、雨宮凪の同源分岐人格群の一つらしい存在と先進兵器分析局第二分室は接触を企図しており、接触したがほとんど何の情報も得られないままに対象は死亡していた。これはまったく逆な理屈ながら、第二分室が雨宮凪の同源分岐人格を密かに処理したのではないか、という疑いもかけられている。

 こうなってくると第二分室を咎めようとするものが多すぎ、片方の矛先を回避すると、別の誰かの矛先に自ら飛び込むことになる。曲芸じみた答弁が必要そうだった。

 書類にひたすら目を通しているうちに、少しずつ心は落ち着いてきた。

 やるべきことがあるうちは、私は自分の存在を肯定できる。

 明日には何もかもを失うとしても、今この瞬間の私は、間違いなく私の生を生きている。

 キッチンの方からカレーの匂いが漂っているのが、うっすらと鼻腔を刺激する。

 耳には書類がめくられる音。

 目は文章を追っている。

 そこに時折、残像がちらついた。

 行動せよ。

 行動せよ。

 知ったことか。

 私は私に過ぎない。倭国国防省の生み出した、人間のようで人間ではない存在。

 どんな存在でも、生きている限りは生きなくてはいけない。

 不具合があろうと、狂っていようと、生きているのだから。

 誰のために?

 自分のためにだ。この自分の衝動、発作的な欲望のために。

 私はただ、まだ死にたくはなかった。

 この書類の中身を頭に叩き込んで生き延びられるなら、そうするだろう。

 ヒバナがそう生きたように。

 どん詰まりで、破滅が待ち構えている道を走っているとしても。



(続く)

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