3-9 自分と自分
◆
女性はゆっくりと鉄格子に近づくと、嬉しそうに私を見遣った。
「初めて会うけれど、あまり感動しないな」
ほとんど感情を覗かせない淡々とした言葉に反応できないのは、体の具合もあるが、気圧されているからだ。
私はあなただ。
そう名乗った。聞いたばかりの情報。同源分岐人格群。同じ雨宮凪から生み出された存在。
信じられないが、目の前にいる女性から私が感じるこの感情は、なんと表現できるだろう。
初めて会ったにもかかわらず、どこかであったような気がする。記憶を探っても何も引っかからないのに、私は彼女を知っている。
顔を知っているわけでもない。彼女の顔と私の顔はまるで違うのだ。違う脳情報移植型代替身体に入っているのか、後で外科的に整形手術を施したのか。おそらく違う体を使っているとは思うが、確信はなかった。
そもそも、脳情報と脳情報移植型代替身体は、セットにしておく方が不具合が出ないと聞いている。脳情報の原版となった人物のクローンに入るべきだ、ということだ。
しかし私は異国で、まったく自分とは縁もゆかりもない脳情報移植型代替身体に脳情報を移し、生活していた。脳情報と脳情報移植型代替身体は必ずしも同一の起源である必要はない。
そこまで考えて、では、なぜ目の前にいる女性に引っかかるものを感じるのか。
それは、些細な身振り、動作が、普段の自分の鏡写しだからだ。
意識の基礎の基礎にある、無意識の動きがまったく同じなのだ。
激しい違和感。まるで自分の精密なモノマネをされているような。
どちらが自分かわからなくなるような。
「あなた、ここから逃げ出すつもりはある?」
逃げ出す?
私は反応できなかった。そのはずなのに、私の心中はあっさりと看破された。
「驚くほどのことじゃないわ。倭国の国防省にいてもあなたの立場は不安定で、それどころか命が危険に晒されるだけよ。私が逃がしてあげる。どこへでも行けるわ。争いのないところ、他人がいないところ、どこへでもね」
この女は何を言っている?
考えながら、視線は壁に向かっている。壁には非常事態に押すべきボタンが埋め込まれている。鉄格子のすぐそばだ。ベッドからではあまりに遠すぎる。
しかしあのボタンが今すぐ必要だった。
そんな私の思考も筒抜けなようで、女性は口元を手で隠しながら笑っている。
「思ったよりも頑固ね。そこまでして国防省に仕えようとするあたり、私たちの原版に通じるものがあるわ。戦場から決して離れられない。あの血と硝煙、汗と泥、生と死が混ざり合う、最悪な場所から離れないなんて、異常だわ」
何を言っているのか、理解できない。
私が陥っている深刻な混乱は判断力をどこかへ投げ出していたが、一つだけはっきりしていることは、この場で二人きりでいるのは危険ということだ。独房を管理している獄吏がいるはずで、おそらくは無力化もされていまい。時間が経ち過ぎれば、不審に思ってここへやってくると想像できる。
それでももはや遅すぎる。
女性が何を考えているにせよ、私はこのままでは裏切り者にされかねない。
裏切り者ではないと証明するには、目の前の女性がどこかへ行く前に非常時を知らせるボタンを押すしかない。
渾身の力を込めて起き上がる。歯を食いしばったが、それだけでもぐらつく幾本かの歯が不快だ。
構わずに起き上がり、ベッドから足を下ろし、立ち上がろうとして失敗した。
「あらあら、手助けしてあげた方がいいかしら」
嬉しそうな声は無視して、這うようにして鉄格子へ進み、やっとの事で鉄格子に手が届くところまで這い進むまでの間、女性は嬉しそうにこちらを見ていた。私にはそんな余裕もなく、脂汗を流しながら言うことを聞かない体を叱咤することに集中している。
鉄格子につかまって立ち上がると、女性の顔がすぐそこに見えた。
やはりまったく私とは似ていない。しかしどこかに共通点がある。ちょっと体を斜めにして立っているところなど、私そのものだ。
間違いなく同じ脳情報から生まれた存在。
吐き気がしたが、残念ながら今は胃袋の中は空だった。例の拷問部屋の床に全部を置いてきたからだ。
「どうする? 逃げる? 逃げない? ま、答えはわかりきっているんだけど」
「私の……」
聞き取りづらいのは承知で、言葉にする。
「私の、何がわかる?」
「あなたの何がって、あなたは私なんだから、全部がわかるわよ。もちろん、私の頭の中にはない経験や記憶、発想があなたの中にはあるけれど、おおよそは同じでしょうね。あなたは今、こう考えている。そこにある非常用ボタンを押して人を呼ばないと、自分が不利な立場になる。そうでしょう?」
「なるほど」
鉄格子を渾身の力で掴み、全身を走る電流でも流されたような痛みに苦労しながら、私はボタンに手を叩きつけた。
サイレンが鳴り、天井に備え付けられている赤いランプが明滅し始めた。
女性はまったく動じなかった。ただ肩をすくめただけだ。
「交渉決裂ね、アメミヤ・ナギ。元気でね」
そんな言葉を残して、いっそ悠然と、ひらひらと手を振りまでして鉄格子の向こうの通路を遠ざかっていく。早く、早く、誰か来てくれ。あの女を確保すれば何かがわかるのだ。
しかし、駆けつけてきた職員はあまりにも遅すぎた。不自然なほどに遅い。私はその瞬間まで鉄格子に寄りかかっていたが、姿を見せた国防省の職員の間抜けヅラを見て全てを悟った。
逃げられた、というより、あの女は無事に逃げる算段をつけてここへ来たのだ。追跡することも至難だろう。
私と原版を同じくする同源分岐人格群とは名乗っても、名前を名乗らないのも念が入ったことだ。もっとも、その点は国防省の追及では重要ではないはずだ。何せ、あの女の原版は国防省が管理しているのだから。脳情報の出入りの記録があるかもしれないし、記録に残されていなくても、国防省に所属するものでもアクセスできるものが限定される。
そこまで考えたところで、いつだったかのゼロ・フロアへの侵入者の件を思い出した。
あれは不自然な上に不自然だったが、巧妙に雨宮凪の情報を掠めとる作戦だったのだろうか。私が知る限り、あの場面だけが雨宮凪の脳情報が完全な形で外部へ流出する場面になる。
疑問は残るし、かつ、多くある。雨宮凪の脳情報から生み出されたものたちは、何を企図しているのか。何を求め、何をしたいのか。それがまったく見えてこない。復讐だろうか。それとも、革命? どんな性質の?
私はそんなことを考えながら、慌てて鉄格子を開けて入ってきた職員に声をかけられたのに答えることもできず、やがてやってきた人数不明の男性たちの手で再度、医務室に運ばれた。
意識が比較的、鮮明になった時には半日は過ぎていただろう。今度ばかりは独房のベッドではなく、医務室のベッドを占領し続けることが許された。
鷹咲中佐がやってきた時に、私は真っ先に例の女のことを話した。誰にも聞かれなようにしてもらってからだ。
表情を強張らせた中佐は、また話を聞くことになるだろう、とだけ言い残して、早々に部屋を出て行った。国防省の本部ビルの人の出入りでも確認に行ったのだろう。少なくともあの女が通行証を下げていたのは間違いないが、偽装でない場合はどこかに記録が残っているかもしれない。建物内の各所の監視カメラにも写っている可能性はあった。
私は医務室のベッドでウトウトし、夢の中で誰かにかけられた声で目を覚ました。
医務室は明かりが最低限になり、医者も席を外しているようだ。時間を知りたいが、わからない。体の状態はだいぶ改善している。どうやら薬と治療が本当の効果を示し始めたらしい。
しばらくじっとしていると、不意に医務室のドアが開いた。
医者が戻ってきたのかと思ったが、違う。
見慣れた長身に、短く刈り込んだ金髪。造りものとは思えない青い瞳。
「思っていたよりも元気そうだな、レイン」
カクリの言葉は、あの女の言葉と極めて近かったが、そこに含まれる感情はまるで違う。
機械式義体の男がベッドのすぐ脇に立つと、私を見て首を傾げる。
「なんでも揉め事の連続だったらしいが、厄病神でも取り憑いているのか?」
かもね、と言うつもりで、言葉にはせずに横になったまま肩をすくめて見せてやった。それが通じたようで、カクリはただ頷き、ここへ来た本題を話し始めた。前振りなどいらないだろうが、前振りをしたがる気持ちもわからなくはない。
「お前のいる独房に足を踏み入れたものの記録はなかった。当然、通行証に関しても何も引っかかっていない。それにより国防省の一部ではお前の自作自演、妄想ではないかという指摘もあった。お前の状況を考えればありそうなことだ。駐車場の一件もあるし、激しい暴行を受けたことによる錯乱、ということも言える。だが、鷹咲中佐が工作の痕跡を見つけた」
私の目は、目一杯に見開かれていただろう。その驚きをなんでもないように受け流して、カクリの言葉は続く。
「防犯カメラの映像に不審人物は映っていない。しかし映像に細工された痕跡があるんだ。それはそれで重大な問題だが、少なくとも細工はあった」
「それって」
やっと私は言葉にした。
確認せずにはいられなかったからだ。
私の訴えが認められることとか、正体不明の女の実在よりも、重要なことがカクリの言葉に含まれていた。
「それって「アスカ」の目が誤魔化された、ってこと?」
少しの沈黙の後、そうなるな、とカクリは応じた。
私には言葉もなかった。倭国の最強の兵器の一つでもある、軍事知能群が欺かれることなど、ありえるだろうか。どういう働きかけをすれば実現可能か、想像もつかない。
小さくため息を吐き、カクリが補足した。
「そちらは国防省の別の部局が調査中だ。「アスカ」の欠陥は重大な問題に直結する。侵入者の追及よりもよほどに優先度は高い。私たちが手を出す必要はないし、手を出せる問題でもない」
そうだね、と答える私の声の弱々しさといったら。
その頼りなさに感化されたわけでもないだろうが、カクリは少し口調を改めた。
「お前は侵入者について通報し、正確だろう報告をしたことで様々な嫌疑から解放された。正式に決定ではないが、これからの拘束は一時的なもので、待遇も良くなるだろう。また任務を与えられることになるはずだ」
任務、か。
あの名前も知らない女が言ったことが思い出された。
私は結局、戦いの場でしか生きられないのか。
平穏な日々に置かれることはありえないのか。
意識が自然と自分の原始的な記憶へ及んだ。二十歳になる前から倭国を飛び出し、様々な戦場で銃を手に取り、戦った。あの時の自分は戦場に居場所を見出し、充実というより、充足を感じていた。
それが今はどうだろう。
いや、違う、そもそもあの時の私は、私ではないのではないか。
私は雨宮凪ではなく、アメミヤ・ナギとして経験を積み、思考し、生き延びてきた。
過去の私は、私の一部でありながら、一部に過ぎない。
人間は変わるはずだ。
変われるはずだ。
「どうした、レイン」
カクリの声。
レイン。私の名前。私を定義する名前。
「なんでもない」
そう答える私の声に何を感じたのか、カクリはただ、無言で頷いただけだった。
(続く)
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