3-8 疑惑

      ◆


 取り調べというものは知り尽くしている。

 それは実際の現場を見たということもあるし、経験したこともあるが、エージェントとして行動する以上、敵対勢力に拘束されて取り調べというより尋問、拷問を受けることを想定した訓練を繰り返し受けたからだ。

 だから何をされても情報を漏らさないことはできる。

 できるとしても、その苦痛に耐えられるかはまた別問題だ。

 幸いにも状況がひどくならないうちに救いの手は差しのべられた。歯が二、三本折れたか欠けるかして、爪が二枚ほどなくなっていたが、文句を言える筋合いではない。

「なんでこうなるのか、理解に苦しむよ」

 聞き取り、取り調べ、尋問、拷問、様々な表現がそれぞれの立場で活用できるが、少なくとも私がいた場所は会議室でも、取調室でもなかった。国防省本部ビルに付属の、名称のない部屋である。

 この部屋の利用方法も把握していたが、まさか自分が入ることになろうとは。

 その部屋にやってきた鷹咲中佐が呆れているのには同情しかない。自分が念には念を入れて釘を刺して送り出した部下が、三十分も経たないうちに国防省本部の敷地内で揉め事を起こし、そのまま名前のない部屋に放り込まれたのだから、呆れるしかないだろう。

 ついでにその部下と接触するのも楽ではなかったはずだ。何らかの切り札を切る必要があったはずで、私にはそれがどの程度の威力のあるカードかは判然としない。

 ともかく、私を喜んで痛めつけていた屈強な二人組の男は渋々ながら部屋を出て行った。鷹咲中佐は自分の携帯端末を彼らに示しただけだったが、まるで魔法だった。

「あれだけ話したのに、あっという間に忘れたようだな、レイン」

 返事をしたいが、口の中が切れているし、何発食らったかわからないほどに打ちのめされたので、返事はできなかった。

 今は床にへたり込んでいるが、二人の男がいる時は立っていられた。というのも、壁に設けられている金属製の輪に手錠で繋がれていたからだ。手錠はすでに外され、持ち去られている。一度、手錠の力がなくなるとどうやら介添えなしでは立てそうもなかった。

 それに気づいているはずだが、鷹咲中佐は実に心優しい人物らしく、短く説教をし始めた。

「事実確認は出来ていないが、きみが言うには先に銃撃を受けたというし、所属不明の乗用車が向こうからぶつかってきたというが、もっと上手くやれなかったのか? これでは我々を潰したい奴らは今頃、祝杯をあげているだろうよ」

 すみません、と答えたつもりだが、口元で血の泡が弾けるばかりで声にならなかった。

 嘆かわしげに首を振った中佐はやっと本当の優しさを発揮する気になったらしく、身振りで連れてきた部下を部屋に招き入れた。担架が用意されているあたり、私の状況は予測していたんだろうが、さっさと医務室へ運ばないあたりにありがたくて涙が出そうだ。実際、出たかもしれない。

 担架で医務室に運ばれたが、意外に近かった。私が一回も利用したことのない医務室で、医者も知らない顔だ。私が接待された部屋に付属の医務室らしかった。そう考えると、医者の顔もどこか鬱々としていて、それだけで気が滅入りそうだった。

 処置は早く終わったが、どこか雑に思えた。治療のほどは後々分かるだろうが、さっきの今で私は立ち上がれるわけもなく、車椅子が用意されて早々に医務室を出た。それまでの間、鷹咲中佐はずっと医務室の壁に背中を預けて待っていた。話がある、ということだ。

 廊下へ出ると第二分室の同僚が三人、待機していた。そしてまるで私を護送するように、前に一人、後ろに二人が立って移動を始める。鷹咲中佐が私の車椅子を押しながら、低い囁くような声で話し始めた。

「駐車場の一件は調査が進んでいる。防犯カメラの映像をかろうじて押さえることができた。映像から弾道を計算して狙撃手は捜索中だし、自動車を無人で動かした何者かについても追及が進んでいる。きみの証言は幸いにも偽証のような形で国防省内で共有されていたから、しかるべき証拠を示せば、偽証ではないと証明することができる。国防大臣の油断に助けられたな」

 ええ、とも、はい、とも言えずに、ただ頷いておく。

「きみはこれからしばらく、拘束される。きみには反逆の疑いがかけられているんだ。パラダ王国の一件とも絡んでいる。きみ自身が脳情報移植型代替身体を使っていることも、その点では不利に働いている」

 私はとっさに首をひねって、背後にいる中佐を見た。中佐はいつになく真剣な表情をしている。

「どういうことかは、きみには分からないだろう。きみは極めて特殊な存在なんだ。脳情報を精査され、脳情報移植型身体に意識を転写された上で、そのことを認識しながら、正常な自我を保ち続けている。これは稀なことだ」

 話の方向が途端にわからなくなった。

 鷹咲中佐が言っていることは、基礎の基礎だった。そもそも脳情報移植型代替身体に適応できる脳情報とそうではない脳情報があると聞かされている。その素質は未だ、明確な定義がされず、先進国では適性のあるものを探しているような形だった。

 私は自分の脳情報の原版を知っている。

 雨宮凪。そういう名前の女性だ。

 しかし私はアメミヤ・ナギであって、雨宮凪ではない。

 私は私で、独立した個体だ。それを疑ったことはないし、疑わないからこそ、今の私がいる。

 そんな私の解釈を知ってか知らずか、鷹咲中佐は話を始める。

「同源分岐人格群と呼称される存在が、一部で話題になっている。同じ原版から生み出された脳情報から成り立つ、意識の基礎を同じくする、まったく別々の個体の一群のことだ。出どころこそ不明だがレイン、きみにもその疑いがかけられている」

 私と同じ原版を持つ存在?

 記憶の奥で、蘇った光景がある。

 あれは、ゼロ・フロアでのことだっただろうか。

 正体不明の侵入者と私は対面した。あの時、侵入者が口にしたはずだ。

 姉妹。

 そう表現していた存在が、私と原版を同じくする存在、同源分岐人格群ということか。

「調査段階だが、きみも疑われている。第二分室としても、確証が得られるまでは公にきみを使うわけにはいかない。疑いを晴らす妙案はまだ出ていない。こうなってはきみを休暇として密かに監視しながら放しておくことはできなくなった。しばらく独房で生活してくれ。なに、生活環境はそれなりにいいし、怖いお兄さんたちも来ない。ゆっくりしてくれ」

 いつの間にかエレベータの前にたどり着いていた。鷹咲中佐は乗り込むことなく、私たち四人を見送った。

 鷹咲中佐の言葉の通り、私は独房に案内され、そこで一人きりになった。通路に面した部分に壁はなく全部が鉄格子という古風な造りだが、衝立で隠された水洗トイレもあるし、ベッドもまともだった。もし体の状態が少しでもマシならいくらか楽をできただろうが、今はただ横になりたかった。

 同僚が私をベッドに寝かせてから軽口を残して去って行って、静寂が全てを支配した。

 私はしばらく目を閉じていた。

 劇的な一日だったが、はっきり言って最悪だった。この程度で済んで、死ななかったのが不思議なくらいだ。どこかでわずかでも間違えれば、それで終わりだっただろう。

 いや、本当にそうか。

 私の脳が無事なら、脳情報が精査され、また新しい肉体を与えられるのではないか。

 記憶だって継承させることができる。

 意識が同じで、記憶が同じで、作り物の体も同じなら、それは私、ということだろうか。

 私はつまり、死ねないということか。

 例えばこの手に拳銃があれば、頭を撃ち抜くことで脳を破壊し、死ぬことはできる。

 だが、少し前に精査されて情報化された脳情報があれば、その時点の私が再生産される可能性はある。その存在は今の私とは別人だが、過去の私とは同一人物、ということだろうか。

 私とはいったい、何者なのか。

 体ではなく、記憶でもなく、意識でもなく、この瞬間を生きている私が私自身だとすれば、私とはこの一瞬に明滅する信号に過ぎないのか。

 わからなかった。

 私は私のはずだった。体も意識も記憶も関係なく、私は私だ。

 それでいいはずだ。

 そうでなければならない。

 細く息を吐くと、胸の奥が軋むように痛む。殴るか蹴るかされたせいだ。この痛みがある限り、私は私だと自覚できそうだった。この痛みを感じている私こそは、唯一無二の私なのだから。

 どれくらいが過ぎたか、何かが擦れる音の後、かすかな、しかし静寂の中では明確すぎるほど明確な足音が近づいてきた。

 私はそれが誰なのか確認しなかった。ただ食事が運ばれてきただけかもしれないし、秘密裏に暗殺されそうになっているのかもしれないが、どちらでもよかった。どういうわけか、私は自暴自棄になっていたようだ。

 やってきた人物は、それを悟っていたように、諌めてきた。

「意外に元気そうでもないね、アメミヤ・ナギ」

 瞼を上げ、私は声の方を見た。

 見知らぬ女性が立っている。着ている服は事務員のようだが、国防省の事務員の制服ではない。外部からの訪問者かもしれないと感じさせるのは、首から通行証が下げられているからだ。

 しかし、外部の人間が私をアメミヤ・ナギと呼ぶことなどありえない。

 誰? と私はやっと発音した。

 女性はわずかに口元を緩め、目を細めた。

「私はあなただよ。アメミヤ・ナギだ」

 独房の空気の温度が、急に下がったような気がした。

 私の息が震えたのも、そのせいにしたかった。

 だが、違うことは明白だった。

 震えとは、恐怖だった。



(続く)

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