3-4 脱走
◆
おい、と後ろにいる兵士が大声を出した。
今だ、と思った理由は理屈じゃない。
今だと思った次には、今しかないと思い、体が動いていた。
後ろ手に縛られた腕を左右から掴んでいる二人の兵士の手を振りほどき、片方の兵士の足元に両足から滑ってやる。両足が紐で縛られていなければ足払いもできたが、実際には不自然なスライディングに過ぎない。
同時に、両腕に限界まで力を込めた。
もし、私が普通の人間だったらできなかっただろうことが、この時はできた。
片方の肩から異常な音がした次に腕の感覚が消えたが、それでも肘が限界を超えて伸びたのが感じ取れた。さらに手首が音を立て、親指の付け根のあたりが歪む。
その一連の異常がほとんど同時に起こり、私の両手首を縛っていた紐がすっぽ抜けた。
片腕は使えなくなったが、片腕は自由になった。
そんな感想を抱いている間も私は動き続けている。私の両足で足元を狙われた兵士が転倒しているのにのしかかっていく。もう一人は私が自身の腕を破壊して拘束を外したのに驚いたのか、判断が遅れた。
倒れこんでいる兵士の首に無事な腕を巻き付け、締める余裕もないので渾身の力でへし折りにいく。首の骨はあっけないほど簡単に折れ、兵士が脱力する。
この時点でもう一人は完全に状況を理解し、こちらに自動小銃を向けていた。
その引き金を引くタイミングを遅らせた要素があるとすれば、仲間を誤射することを避けた、という以外にはなかった。実際、その兵士はほんの少し、ためらった。
そのためらいが私に勝機をもたらした。
地面に放り出されていた自動小銃に飛びつき、片手でグリップを掴むと同時にさらに横に跳ねながら引き金を引いた。
幸運だったのは自動小銃のセレクターが単発でも三点射でもなく、フルオートになっていたことだ。
目の前で激しく銃火が瞬き、耳をつんざく銃声が連続し、私の片手の中でデタラメに自動小銃が暴れ。
そして兵士は脚、腰、胸、首と銃弾をほとんど一瞬の間に受け、仰向けに転倒した。それきり動かない。そんな当たり前のことを念入りに観察し、やっと自分の銃を握る手首が異常な痛みを訴えていることに気づいた。捻挫か、悪くすれば骨折だ。
次の瞬間、いきなり耳に飛び込んできた銃声に、私は心底から驚いた。
自分の生死をかけた一瞬に向けていた極端な集中が解けたのだ。至近距離を銃弾がかすめ去っていく中で、私は手が痛むのも無視して足を拘束している紐を銃弾を二発ほど浪費して切った。
これで落ち着いたが、カクリはどうしただろう。
そう思って周囲を見ると、彼は樹木の幹を遮蔽物にして、正規軍の他の兵士を相手に銃撃戦の最中だった。私もやっと木の陰に飛び込む。
強く握りしめている自動小銃のグリップは手に張り付いているようだ。苦労して指の力を緩める。痛みで涙が出そうなのに、涙は出ないし、痛みも他人事のようだ。
片腕の状態を確認。肩は骨折の上に脱臼しているようで少しも持ち上がらない。ついでに肘と手首も脱臼か、腱がおかしくなっている。はっきりしているのは親指がおかしな方向を向いており、曲げることができない。
つまるところ、私は片腕しか使えないのに、生きている方の腕も手首がいかれている、という最悪な状況だった。
それなのに休んでいる暇はない。カクリの側面へ回り込もうとした数人を、片手で無理矢理に保持した自動小銃で牽制してやる。フルオートなどという贅沢な手段は使えない。単発で動こうとする相手の頭を引っ込めさせる。
確認できないが、自動小銃にはもう大して弾が残っていない。弾切れは目前だ。
足元には死体が一つ、転がっている。その首が捻じ曲がった死体が着ているベストには、自動小銃の予備マガジンが三つほど確認できる。
四の五の言っている暇はない。一秒後に頭をブチ抜かれるより、十秒後にブチ抜かれる方がマシだ。大差ないが、差はある。
木の陰からの銃撃でマガジンを空にして、私は死体へ飛びついた。
先に確認していたので、死体のナイフをまず奪い、ベストを切り裂く。もし私が着ていたような戦闘服なら不可能だっただろうが、前時代的な防弾ベストはナイフで簡単に切れた。
しかしベストを奪う前にしなくてはいけないこともある。
拳銃が腰にあるのも観察済みだったので、引き抜いて、背後へ銃撃を加える。想定通り、いきなり飛び出した私を狙っていた正規軍の兵士が、それでまた木の陰へ戻る。少し遅れていれば私は背中から撃たれていただろう。
拳銃の弾も節約することにして、下着に突っ込み、空いた手でベストを掴んでカクリの方へ走る。
滑り込むようにカクリの背後に飛び込み、やっと少しだけ安堵らしい安堵ができた。
「動けるか」
こんな時でも我が相棒は冷静だ。どうやって奪ったのか、彼は半裸の状態の上に私が奪ったようなベストをすでに着込んでいて、ついでに予備の自動小銃も足元に転がっていた。
もう一つある。私が身につけていたリボルバー式の拳銃だ。
「動けるか、レイン」
「少しはね」
銃撃の合間の声に答えつつ、私は奪った方の拳銃の弾をこちらへ銃撃を加える連中に全部撃ち込み、その拳銃は捨てた。代わりに自分の拳銃を手に取り、下着に突っ込む。ひどい格好だが、これでもう一歩、冷静になれた。
「両足は無事でも腕はダメ」答えながら夜の闇の中でカクリの様子を確認する。「そちらは?」
「問題ない。銃は使えるか?」
「片腕はまったく動かないし、片手も手首がおかしい。銃を扱うのは難しいかな」
カクリは頷いたようだ。
「とにかくこの場を離れるぞ。自動小銃を持てるなら持ってくれ」
「何もできないけど、それくらいはできる。合図をくれたらどこへでも走れるよ」
よし、と短い声があり、カクリは二発、三発と自動小銃の引き金を引き、いきなり合図を出した。
「行くぞ」
もっと別の言葉もあろうに、実に簡潔で、明瞭な合図だった。
私は跳ね起きて駆け出すが、それにしても、どこへ走ればいいのか。
とにかく銃撃の雨から逃れるのが先決だ。ここら一帯は危険地帯、キルゾーンそのものだった。
下草をかき分け、がむしゃらに走る。衣食住などという表現を甘く見ていたのを思い知らされた。衣、つまり服装など適当でいいようで、鬱蒼と茂る草や木をかき分けて行くと、インナーだけでは全身があっという間に傷だらけになる。
服について考えたのも、ある種の現実逃避だっただろう。
すぐそばを目には見えないが弾丸が突き抜けていく。一発でも体の受ければ終わりだという意識が、体を限界を超えて駆動させた。木の根につまずいても転ばなかったし、石か何かを踏んで足の裏が裂けても動きは停滞しなかった。全身の無数の傷が存在することを忘れられ、片腕の深刻ささえも意識から消えた。
ひたすら走り、やがて銃声が遠ざかり、そのうちにあの背筋が冷える銃弾が空気を焦がし引き裂く甲高い音も消えた。
ただ息づかいと細やかな足音、草が押しのけられ、踏み倒される音が続いた。
どれくらいを進んだのか、気づくと私は倒れこんでおり、カクリがその私の腕を掴んで引っ張り上げていた。
「あと少し移動するぞ。辛抱しろ」
カクリは私の無事な方の腕を掴んでいたが、それだけで意識が飛びそうに肩が痛む。その痛みがなければそれはそれで気を失っていたかもしれない。
自力で立ち上がり、歩き出そうとした。
足が一歩も前に出なかった。倒れそうになる私をカクリが支えたかと思うと、不意に体が宙に浮いたような気がした。
カクリが私を強引に背負っていた。それも私を横にして、ものでも担ぐようにして肩の上に乗せている。
「そのベストと銃を落とすなよ」
そっけない声とともにカクリが安定した足取りで歩き出す。私は慌てて片手でに握りしめていた自動小銃と、灼熱を発散している手首に引っ掛けたままの切り裂いて奪ったベストの位置を調整した。
私の重さなどないように、カクリが先へ進む。
周囲は漆黒だった。人の気配は少しもないし、獣の気配さえなかった。
まるで私とカクリは冥界に紛れ込んだようだった。
ただただカクリは先へ進む。
夜はまだ長く続く予感がした。
体が熱い。強烈な倦怠感が、意識を奪おうとする。それを定間隔で揺れ続けるカクリの肩と首筋からの振動が引き止める。ぼんやりとした意識と刹那だけ蘇る少しだけ明確な思考の繰り返し。
沈んでは浮かび、また沈んでは浮かぶ。
少しずつ意識はより深いところへ落ちていき、浮かぶことができなくなった。
誰かが私の名前を呼んだが、その声はあまりにも遠すぎた。
やがて何も聞こえなくなり、揺れも消えた。
冥界の門がついに音もなく開かれたらしかった。そしてそれをくぐった私は、本来の世界と決別しようとしている。
誰かが呼んだ声は、私の名前だっただろうか。
この世の声ではない声を判別することは、誰にもできない。
(続く)
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