2-9 ゼロ・フロア
◆
ゼロ・フロアの存在は国防省の外部のものでも、聞いたことがあるものはそれなりにいるだろう。
ただしそれは都市伝説として、陰謀論として、ということになる。
曰く、倭国が収集した情報がここで保管されている。
曰く、宇宙人がもたらした技術の解析が行われ、それを流用した兵器開発が行われている。
曰く、名のある科学者や政治家などの遺伝子情報がここで管理されている。
ともかく、ゼロ・フロアはそういう形で話題にはなるが、実際に踏み込んだものは一人もいないような、そんな場所だった。一人も入ったことがない、というのは表現としては正確ではないだろう。そこを建設したものは踏み込んだし、メンテナンスするものも踏み込んだはずだ。
はず、としか言えないのは、国防省の内部にいる私でも、誰がメンテナンスを請け負っているかは知らないからである。だがその性質上、メンテナンスが必要なのは事実と思われる。
私は世間の人間より多くを知る立場にあるが、ゼロ・フロアに入ったことはなかった。国防省本部の地下にあるというが、立ち入り禁止だ。それを不思議に思ったこともないのは、そこにあるものがこの国の最重要施設であると知っているからで、変な表現だが、触らぬ神に祟りなし、というわけだ。
現代的な電子機器は有線、あるいは無線で接続され、莫大、膨大な情報が巨大なネットワークを形成している。もしこれを全て解析し、記録することができるとすれば、それは神というしかない。
そして倭国国防省は、秘密裏にその神を作り上げた。
名を「アスカ」という。
軍事知能群とも呼ばれるこの装置は、圧倒的な情報処理速度と、無制限の記録装置を持つ。倭国のすべての通信を把握し、監視すると言われるほどだ。もちろん、自己学習機能が搭載され、進歩し続ける。
人が作りし神が住まう場所。
それがゼロ・フロアなのだ。
もっとも、私はその話を部分的には疑っている。
どれだけ高性能な人工知能でも、器材のメンテナンスは人間がするしかない。機械にやらせることもできるが、結局はその機械を人間が用意したり整備するのだから、同じことだ。それでは「アスカ」は完全に独立しているわけではない。
さらに言えば、「アスカ」は国防省が作り上げた設備、少し過剰に表現すれば兵器だが、設備だろうと兵器だろうと、使い勝手が悪かったり、暴発したりするようなものは不良品だ。そうなると「アスカ」はなまじ強力な性能と権限を与えられている以上、自己学習による変化を常にモニタリングされることになる。そうしなければいつ暴走するかわからない。そんな管理された変化は、私からすれば不自然極まりない。
この国で最強の人工知能のはずの「アスカ」は、人が作りし神でありながら、人の軛を抜け出せない、不完全な神と言える。
そんなことを時折、考えていた私なので、鷹咲中佐がゼロ・フロアに侵入者がいたらしい、と聞いた時も、困惑したのだ。
実際に見たことがないとはいえ、「アスカ」は一人や二人では持ち出せないどころか、建物を解体しないと持ち出せないだろう。情報なら複製して持ち出せるが、それは「アスカ」の性能が邪魔するのに間違いない。
侵入者の選択肢としてありそうなのは、「アスカ」の破壊だが、鷹咲中佐の様子ではそんな大事件にはなっていない。
「侵入者はゼロ・フロアに立てこもっているのですか?」
「ゼロ・フロアへの物理的アクセスが可能なものは限られる。佐官以上が原則だ。非常事態とはいえ、この不文律を曲げるかどうか、議論している最中だそうだよ」
「そんな呑気なことを言っていいのですか? 「アスカ」が破壊されるのでは?」
「大丈夫だろう。ゼロ・フロアは出入り可能な道筋が限定されているし、実はゼロ・フロアは丸ごとひとつの巨大な箱なんだ。強力な爆弾で国防省のビルが根こそぎに吹き飛んでも、あの箱だけは残ると聞いている。しかし、破壊する必要が生じたときのために自爆装置も組み込まれているがね」
実にのほほんとしている鷹咲中佐に、私はどう反応すればいいか、わからなかった。
ゼロ・フロアへの侵入者を放っておいているわけではない、ということか。今も捜査は続き、しかも勝ち目がある、ということらしい。
「中佐、国防省内部のスパイの話をしていたはずです」
「ああ、そうだったね。きみの任務について情報が漏れていたようだ。例のヴァルヴァの一件だ。最後の最後に、脱出経路が不自然に限定された。事前工作員がスパイかとも疑われたが、その可能性はゼロ・フロアへの侵入事件で整理できるだろう。どう考えてもスパイは一人とは思えないけれど、可能性を潰していくしかない」
「もしかしてカクリがいないのも、その一環ですか?」
そう訊ねながら、私の頭の中には別の問いかけがあった。
私がスパイという可能性はないのですか?
私自身は、自分がスパイ行為をしていないのははっきりとわかっている。しかし、鷹咲中佐は可能性を潰す、と言った。私がスパイだという可能性は無くなったのだろうか。
おかしなことを考える私に鷹咲中佐は気づいた様子はなかった。当たり前だ。私の頭の中の思考が他人に漏れるわけがない。
「ああ、カクリは本当に別件だよ。体のメンテナンスと、健康診断」
倭国に戻ってからカクリとほとんど話をしていないのにやっと気づく私だった。私自身の傷はヴァルベルグ皇国のど田舎でウェーバーが回復するまでの間に治癒していた。カクリの機械式義体のように体を乗り換えたり、部品を交換したりすることは脳情報移植型代替身体では不可能ではないが難しい。
なんとなく胸の辺りが痛む気がして、どうやら無意識に胸に金属板が突き刺さった時のことを思い出しているようだった。
「さて、話はもう終わりだ、レイン。聴問会は日を改めるはずだ。その時はまた頼むよ。今日はもう帰っていい。任務の後だから、規定通りに休暇を取りなさい。いいね?」
了解しました、と私は形だけ直立し、ラフな敬礼をして中佐のスペースを出た。
エージェント、それも非公式作戦を行うエージェントに休暇に関する規定があるのも可笑しいが、彼らは大真面目だ。他にも規定はいくつもある。エージェントはならず者ではない、と定義する程度の意味はあるかもしれない。
同僚に挨拶してから通路に出て、エレベータまでまっすぐに進む。既に先ほどまでの緊張はないが、普段とは違う空気は感じる。不安や動揺のようでもあり、怒りや苛立ちのようでもある。
エレベータに一人きりで乗り込むと、一階のボタンを指定する。無音、ほとんど振動もなく動き出す。
それにしても、と今は閉まっている扉を睨みながら、私は考えていた。
ゼロ・フロアに侵入した理由も気になるが、どうやって侵入したのだろう。一介のエージェントに過ぎない自分にはゼロ・フロアへの経路を知る権限がない。侵入者はそれを知っていた。鷹咲中佐の言葉が本当なら、侵入者自身が佐官以上か、そうでなければ佐官以上の何者かが情報を漏らしたのだろう。というのも、「アスカ」が噂通りの無制限と言ってもいい性能を持つなら、情報のネットワークを利用するコミュニケーションはすぐに露呈するからだ。ゼロ・フロアに関する機密がネットのどこかで漏れたら、まず最初に「アスカ」が気づく。
人間が直に会い、アナログな方法で情報をやり取りし、一切、デジタル化しなかった。
ありえなくはないが、手が込んでいる。
不思議な事態だった。
そんなことをひたすら考えていたが、不意にベルの音が鳴り、私は我に返った。
扉が開いていく。
このまま休暇だ、と思った瞬間だった。
目の前に開けているのは、国防省一階のエレベータホールではない。
本来ならそこに見えるはずのよくわからない筋肉質の男の裸体の巨大な彫像は、影も形もなかった。
薄暗い通路が、目の前を伸びている。
反射的にエレベータの内部にあるパネル、そこの階数表示を見た。
ゼロの表示が点滅していた。エレベータにゼロはない。一階か地下一階があるだけで、ゼロ階はありえない。
ありえない……?
ゼロの明滅を、私は見た。
ゼロ。
ゼロ・フロア? まさか。
先へ進むか、エレベータの中に留まるか、選ぶことはできた。
私は、選んでしまった。
進むことを。
通路に出た途端、空気がひんやりしているのに気付いた。電子機器に合わせた環境設定なのだと思えたが、確信はない。
背後でエレベータのドアが閉まる。壁にボタンが一つだけある。上も下もない。
秘密の空間か。
私は腰の後ろに手をやり、任務の間はそこにあるリボルバー式拳銃がないことに思い至った。ナイフの一本も持っていないのだと理解し、不安を感じたが、もはや引き返せなかった。
引き返そうと思えば、引き返せただろう。エレベータの前に戻り、ボタンを押せばいいのだ。それできっとエレベータは戻ってきて、扉は開く。
私は、引き返す気が無かった。
ゆっくりゆっくりと、私は先へ進んだ。
戦場には不釣り合いな革靴に舌打ちしたはずだが、舌打ちは別の理由だったかもしれない。
今、私の相棒はいない。
一人きりが心細くなるなんて、自分らしくない。そう思っても、事実、今は誰も頼りにならなかった。
頼れる相手は、いない。
(続く)
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