2-6 脱出

       ◆


 老人が燃やしておいた火のおかげで、とりあえずの状況は見て取れた。

 もっとも状況は非常にシンプルだ。河川敷に警官が数十名、半包囲する形で私と老人を囲んでいるのがよく見える。そこへ伸びている影が私と老人の影で、不規則に揺れながらほとんど重なって長く伸びていた。

 警官が武器を捨てるように呼びかける声が連続するが、その呼びかけが私に向けられているのか、老人に向けられているのか、判然としない。私の手元の自動小銃と老人の古びたショットガンでは、間違いなく私の武装の方が脅威だろう。ついでについさっき十分な前科が成立している。

 よっぽど自動小銃を手放そうかと思ったが、不意に老人が私の耳元で怒鳴ったので、機会を逸してしまった。

「お前たちこそ武器を捨てろ! 下がれ!」

 ……とても正気とは思えなかった。

 あろうことか、老人が警官隊を威嚇し始めたのだ。

 その様子は武装した老人が若い女にショットガンを突きつけているという場面なら、いかにも自然だった。だったが、現実はそれとは程遠い。

 女の方も武装している上に、警察車両を対戦車ロケットで吹き飛ばしたばかりだった。

 警官隊も面食らったようで、拡声器も一時的に沈黙した。

「その女から離れるんだ!」

 気を取り直した拡声器からの声は、なるほど、正論というより、完全無欠の正確な理屈だった。

 そのはずだが老人にはわずかも響かなかった。

「俺は下がれと言っている! この女が死んでもいいのか」

 これにはさすがに私が冷や汗をかくことになった。死んでもいいも何も、警官が私を射殺する行為はどこかの何かの活動家が指摘するかもしれないとしても、凶悪犯への対処としては選択肢の一つに十分になりうる。下手に警官を刺激して欲しくはない私だった。

 老人が何を考えているかは判然としないが、警官隊は私に銃弾が当たるのをためらっているのではなく、無関係の老人に弾が当たるのを気にしているのだ。その老人に威嚇された警官隊の困惑は同情に値した。

 警官が何人か、隣の同僚に何か声をかけていて、ついで小型の無線機に何かをしきりに訴えている様子は、最悪の結末を予感させた。彼らの口は「撃っていいか」というように動いているのではないか。上位の指揮官の命令を待たずに現場で処理しようというのだ。

 どうやら私が今、即座には数えられない銃口を向けられて生きていられるのは、警官たちの自制心によるものらしかった。

「武器を捨てろと言っている! 二人ともだ! 武器を地面に置いて膝をつくんだ!」

 いよいよ警官隊からの呼びかけが具体的になった。老人はどうするだろう、と思ったが、私は愕然とすることになるし、警官隊も似た心境だったと思われる。

「お前たちこそ下がれ! 下がらなければ武器は捨てん! この女を殺すぞ!」

 耳元で怒鳴られているのでやや強烈な耳鳴りがしたが、聞き間違えるのは不可能だった。

 時間稼ぎだとわかっていても、こうなっては生きた心地がしない。老人のショットガンの銃口は私の背中に密着しているし、警官隊も命令さえあれば銃弾の雨を私に集中させることになる。どうして誰も引き金を引かないのか、不思議でしょうがない。

 と思っていると、不意に背中の感触が消えた。

 そして、すぐ背後で轟音が響き渡った。

 自分が撃たれたかと錯覚したが、無事だった。では、誰を撃ったのか?

「下がれって言ってんだろう! 下がれ! 今度は当てるぞ!」

 銃声が近すぎたせいで聞こえづらいが、老人の言葉から推測するに、警官の一部が夜闇に紛れて接近しようとしたらしい。それを老人が散弾銃で追い払ったのだ。

 これでいよいよ状況は切迫してきた。警官隊に下がる選択肢はないだろうし、老人もこれでは無傷では済まなくなってきた。公務執行妨害のような理由で咎められる以上の立場になったわけだ。

 老人が私を助けようとしているのか、それとも私と一緒に蜂の巣になりたいのか、よくわからない。

 警官隊の気配も変わりつつある。老人の犠牲を許容はしないようだが、老人の負傷程度は許せる、というような空気が充満し始めた。それとそろそろ狙撃手が到着してもおかしくなかった。

 残り時間はもうないようだ。私が自動小銃を構え直そうとすれば、その時には警官隊が発砲するだろうから身動きは取れない。老人の謎の態度で警官隊が距離をとることもなさそうだし、カクリとウェーバーも私と老人を支援するのは至難のはず。

 あとは救世主の到来を待つしかない。

 その時になって何か、低い音がしているのに気付いた。警官隊の一部が頭上を振り仰いだので、私も首をできる限りひねってそちらを確認した。

 最初はすぐには理解できなかった。

 夜明け前と言ってもまだ空は漆黒に近い。近いが、それよりもなお暗いものがそこに浮いていた。しかもそれがどんどん大きくなる。

 世の中には「急降下」という表現があるが、目の前の光景は「墜落」に限りなく近かった。

 しかし結果からすれば、それは墜落ではなく、急降下と呼べるものだった。

 最新鋭の戦闘ヘリの、性能の限界に挑戦する運動は、強烈な突風と爆音を伴っていた。どうしてここまで接近するのに誰も気づかなかったのかは、最先端の技術である静音機能による。その機能ももはや役目を果たし、戦闘ヘリのエンジンの爆音はあたり一帯を覆い尽くし、こうなっては老人の怒鳴り声も、警官隊からの呼びかけも、何も聞こえない。

 その上、戦闘ヘリに据え付けられている機銃が警官隊を掃射し始め、凶悪犯を何故か人質をとった気違いじみた老人への説得など、継続は不可能だった。

「行くぞ!」

 老人が私の手を引いて戦闘ヘリの方へ走り始めた。こうなって河川敷の広さが輸送ヘリでは狭く、戦闘ヘリの着陸にはちょうどいいとわかってきた。助けに来る航空機とはこの戦闘ヘリのことか。

 機銃が警察車両を狙ったらしく、銃弾が空気を引き裂く甲高い音と、警察車両がズタズタにされる金属が引き裂かれる音が響き渡った次には、爆発が起こり、辺り一帯が一時的に明るくなった。その明かりに浮かび上がった戦闘ヘリは、どこから調達したのか、国籍も数字のペイントもなく、真っ黒な塗装で覆われていた。

 ついに戦闘ヘリが地上へ降りた。スペースはないが、人間が四人は乗り込める。私、カクリ、ウェーバー、そして老人だ。こうなっては老人は置いていけない。ヘリに乗る以外に脱出、というより生還は不可能だと子どもでもわかる。

 機銃の射線に入りそうで覚悟が必要だったが、銃を扱っている正体不明の男はそんなヘマはしなかった。カクリが飛び乗り、ウェーバーを引っ張り上げる。私は一足先に乗り込んでいった老人に続く。

 機銃の銃手が何かを怒鳴り、ふわりと戦闘ヘリが浮かび上がった。ハッチも何もないので、転げ落ちないように掴まれるものにしがみつく。他の四人の乗客もそうしていた。銃手の男だけが、しつこく警官隊に攻撃を続けていた。

 そのうちに河川敷も遠くなり、遠くの稜線が眩しくなっていくのが見えた時、どうやら生き延びたらしいとわかってきた。

 もっと知的で、静かな仕事だと思っていたが、最後の最後で違法も違法、大犯罪に加担することになるとは思わなかった。

「レイン! こっちへ来てくれ!」

 エンジンが高速で回転させているローターが空気を叩く音に負けない声で、カクリが声をかけてくる。来てくれも何も、下手なことをすると落ちそうだった。戦闘ヘリの乗り心地はあまり良くない上に、遊園地のアトラクションを連想させた。それもとびきり過激な奴だ。

「行けない! 何があったの!」

「ウェーバーが気を失いかけている! 頭を打ったせいだと思う!」

 それはまずい、極めてまずい。

 私は自分のすぐ横でタバコを吸い始めた老人に怒鳴ってみた。

「負傷者がいる! 医療施設に行きたい!」

 老人はこちらを見るとムッとした顔になり、焦らすように煙をゆっくりと吸い込んでからたっぷりと吐き出し、やっと答えた。

「揺れで酔っただけだろう! 地上へ降りれば治る!」

 ここに至ってもデタラメな老人だった。私に銃口を突きつけたのも、警官隊にわめいたのも、演技ではなく本性だったのかもしれない。しかし今はこの老人をやり込める以外に方法がなかった。

「彼は頭を打っている! 医者に見せたい!」

 老人は露骨に不快そうな顔をしたが、今は一仕事を終えてガムを噛んでいる銃手の男に何か伝えた。その男が口元のマイクに何か伝え始め、戦闘ヘリの操縦士に通じたようだ。爆音の雑音のせいで何も聞こえないが、私から直接、操縦士に状況を伝えたいところだ。だが、操縦士とのやりとりはヘッドセットがないと無理だ。

 銃手の男はいやに長く話していた。その間にもカクリがウェーバーに何か呼びかけているものの、ウェーバーはほとんどカクリに支えらているだけで、危険な感じに体が揺れていた。

 やっと銃手の男が何か老人に声をかけ、まったく心踊らない不愉快な伝言ゲームで私へ老人が話を伝えてきた。

「十五分で医療施設へ降りられるそうだ! これでいいか!」

「オーケー! それでいい!」

「追加料金だぞ!」

 老人はそう怒鳴ってから片手に保持し続けていたタバコを口元へ移動させた。

 しかし、追加料金だって? まさか外部の逃がし屋だったのか。いったい、どこの誰がこの老人に渡りをつけ、今回の脱出の支援させたのか、疑問しかない。

 いつの間にか空は明るいくなり、漆黒は去り、青が一面に広がっていた。眼下にはもう都市部は見えず、紐が伸びているような道路と一面の農作地の不思議な緑の濃淡が広がっていた。

 本当の意味で安堵はできないが、助かったらしかった。

 それにしても最悪な展開だった。

 とてもこの絶景では釣り合いがとれないほど、最悪だった。



(続く)

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