2-3 人間とは

       ◆


 タクシーでアパートの部屋に戻り、ざっと化粧を落としてシャワーを浴び、ラフな服装に着替えてから、私は表の通りが見える窓際で椅子に座って考えていた。

 劣化脳情報と脳情報パッチ、か。

 脳情報精査が世界で初めて実行された時、神の冒涜、などとメディアはかき立てた。脳情報移植型代替身体の時は、悪魔の技術と叫ばれた。

 私自身はその両方で成立している存在だから、神の冒涜と悪魔の技術が生み出した存在ということだ。

 脳情報が劣化する、ということは私にとっては恐怖を伴う事態ではあるが、その恐怖は一般的なものとは違うだろう。

 劣化脳情報を焼き付けられた代替身体は、そもそも人間らしい振る舞いに支障を生じることが多い。それも決定的な支障だ。言語に関する不完全さや、運動機能の障害が主な症状で、脳情報移植型代替身体で明らかに挙措がおかしいものは、そのままイコール劣化脳情報の持ち主とわかる。

 人間の不完全な意識の持ち主、という点で一般の人々は違和感や恐怖を感じるが、では、私の恐怖とは何か。

 それは脳情報の劣化がもし見えなかったどうなるか、ということだ。

 私という意識は、倭国国防相が所有する、最先端の設備が脳情報精査を行って用意した原版に基づいている。それは私が私ではなく、別人の誰かである、というわけではない。別人からスタートしたとしても私が私として活動を始めてからの経験値が、私を私たらしめている。

 しかし、どこまでいっても私は情報化された意識から生じているわけで、その情報が無謬かは確信は持てない。

 本来的な人間は赤ん坊から成長していく中で様々なことを経験し、覚え、その意識を発展させていく。中には社会的に異質とされる気質のものもいるが、それでさえも、やはり時間の中での経験というものを経ている以上、俗な言い方をすれば根っこがある。

 なら、私はどうなのか。

 私の思考や思想、発想は、すべて原版となった人物の経験から成り立っている。それを信じることは、私自身を信じることとは少し違う。

 私の原版となった人間の詳細は、私には情報開示されていない。だが相応に優秀で、適任な人物だったのだろう。

 その誰かしらが、私の判断基準、意識の根底であるわけで、しかし私自身に由来するかと考えば、それは違う。

 さらに言えば、私の意識が、脳情報精査の時点で原版となった人物とズレてしまっている可能性がある。脳情報にわずかでもノイズが走れば、私という情報の上での意識は、原版とは別なのだ。

 不完全というべきだろうか。もしそのズレが致命的なら、不具合と呼ばれるかもしれない。

 脳情報の劣化というものは、私にとっては背筋が冷える事態だった。そこはもう、倭国の技術を信頼するしかない。

 ただ、私のような存在を先進兵器管理局がエージェントとして使う理由を考えれば、私の恐怖もまた、用意された恐怖なのかもしれなかった。先進兵器管理局は、脳情報移植型代替身体の運用に関する試験を行っている、という可能性だ。私に現場で様々なストレスをかけ、私が、あるいは脳情報移植型代替身体とその中の脳情報がどう反応するか、どう行動するかを見ているということがあるかもしれない。

 自分が実験動物というのは気に入らないが、目を瞑るしかない。不愉快なことに、私の生殺与奪の権は倭国の国防省が握っているのだ。

 思考に沈んでいると、シャワーを浴びて着替えたカクリが戻ってきた。彼は向かいの席に腰掛け、そっとグラスをテーブルに置いた。機械式義体の持ち主でも、シャワーの後には水が欲しくなるらしい。

「何を考えていた?」

 カクリが訊ねてくるのに、いろいろ、と答えながら、視線を窓の向こうに戻す。夜の通りに人気はなく、たまに自動車がゆっくりと走っていく。ヘッドライトが近づいてきて、眩しく目を焼き、次には離れていく。その繰り返しだ。

「脳機能パッチの件だが」

 カクリが淡々と話し始めても、私は窓の外を見ていた。

「仮に劣化脳情報の不完全さを、どのような場合にもフォローできるとして、どういう使い道があるかは怪しいものだ」

「それはそうでしょう。逆なんだから。脳情報を精確にスキャンする装置を開発するのが先なのよ。脳情報を雑にしか精査できない装置を放っておいて、劣化脳情報が発生しました、でも脳機能パッチを使えば問題ありません、というのは間違っている」

「レイン、怒っているのか?」

「不愉快ではあるかもね。ウェーバーという研究者の開発した技術は、劣化脳情報で不遇な立場にある脳情報移植型代替身体や、廃棄されるしかないそれを救済することはできる。それでも、本来なら生まれるはずのなかった存在を救済するのは、どこかおかしいわ」

 話しながら反吐が出そうになるのは、脳情報移植型代替身体、としか表現できないことだ。

 人間とそっくり同じ存在でありながら、脳に細工を施されたその「物体」は、「人間」とは呼ばれない。

 ではなんと呼ばれるか。

 名前がない。

 世界でも一部の人間は脳情報移植型代替身体が存在することを知っている。知っているけれど、名前を与えず、特別な権利も何も与えていない。あるものは人間に混ざり、あるものは排除されるというのが現状だ。

 倭国国防省の先進兵器分析局のエージェントとして、脳情報移植型代替身体を兵器として使っているものと何度か遭遇した。その時、脳情報移植型代替身体は、人間ではなく、兵器だった。

 人間の兵士は、人間として扱われるはずだ。

 しかし脳情報移植型代替身体は、人間そのものの形をしているのに、人間としては扱われない。

 この悪魔の技術は、人間が踏み越えてはいけない一線を超えているのは間違いない。

 人間は人間を作ることに成功したが、人間は人間に似せた別の何かを作ってしまったのだ。

 ウェーバーの脳機能パッチは、極端な言い方をすれば、誤魔化しだった。重大な罪を隠そうという姿勢にも見える。

 劣化脳情報の悲劇は、そんなことで隠せるわけもない。

「水でも飲んで落ち着け」

 どうしても思考の奥へ沈んでしまう私を引っ張りあげると、カクリが一度、席を立った。椅子がかすかに軋んだ時、彼は自分のことをどう理解しているのか、気になった。

 カクリについての情報も私にはアクセスする権限がない。知っていることは彼の体が生身のそれに見えるけれど、全く別物、ということだ。以前の任務で彼は人間ならバラバラの挽肉になっていてもおかしくないほどの攻撃に耐えて見せたことがある。間違いなく、機械の体だった。

 脳と重要な神経系は生身とも聞いているが、自分の体が、体というよりは人間の形をした器であることを、どう解釈しているのか。考えたりはしないのだろうか。冷蔵庫から水の入ったボトルを取り出し、グラスを用意するその様子を見ても、特に悩みはなさそうだ。

 割り切っている、ということか。

 それを言ったら、私だって普段は割り切っている。ウェーバーの発表の直後だから、余計なことを考えているだけだ。何日かすれば、何もかもを無視できるはずだ。

 カクリからグラスを受け取り、冷たい水を一口飲む。喉からスゥッと冷たい気配が胸の奥を流れていくのを感じる。私の体は機械ではなく人間のそれだと思わせる感覚。しかし自分の内臓を自分で見たわけではない。

「今回の任務はおおよそ終わりだな」カクリは椅子に腰掛け、ちらっと窓の外を見たようだった。「ヴァルヴァ脳技術研究所の研究は、片手落ちということだろう」

「最悪な使い方をされなければね」

「ああ、紛争地域などでの劣化脳情報の氾濫は、起こりうるな」

 間違いなく、最悪な展開だった。

 ウェーバーの脳機能パッチが普及するようなことになれば、脳情報の精確で精密なスキャンは一部では不要になる。ざっくりと脳情報をスキャンし、適当な代替身体に焼き付け、脳機能パッチで補正することで人間らしいが人間ではないものが生まれてしまう。

 その人間もどきは、給仕にもなるが、兵器にもなるだろう。

 そこに倫理的な問題は当然あるし、同時に、人間という存在そのものにも影響を与えるのは間違いない。

 人間とはなんなのか、という問いかけである。

 私のような存在、精確な脳情報と高性能の代替身体の持ち主は、純粋な人間とは言えないかもしれないが、人間に限りなく近い。

 だが、劣化脳情報から成り立つ意識を持つ代替身体に、さらに脳機能パッチで補正した存在は、人間から逸脱しつつある。

 直感的にそう考えることはできても、人間とは何か、を定義できるものはいない。

 私は人間に限りなく近いが、では、カクリと私とでは、どちらが人間に近いだろう。

 私の意識は脳情報から成り立ってるが、おそらくカクリの意識は生身の細胞から生じている。

 私の体は生身の肉で出来た肉体だが、カクリの体は有機的な部品もあるが人工的に作られたものだ。

 脳情報精査と脳情報移植型代替身体問いう二つの技術の発展に、人間の認識、思想ははるかに置いていかれている。

「とにかくレポートにはこの不快感を盛り込むしかないね」

 グラスの冷たさを手のひらで感じながらそういう私に、少しだけカクリが口元を緩めた。

「子どもが学校で書かされる感想文とは違う」

「似たようなものでしょう。レポートって、宿題を思い出させるのよね」

 思い出させる?

 いつの記憶だろう。いや、記憶ではない。直感だ。私を構築する脳情報のどこかにある、元になった人間の経験値が私に直感させる。

 嫌な感じ、と思わず言葉が口をついて出たが、カクリは何も応じなかった。

 そうして夜が更け、それぞれのベッドに入ったのが日付も変わった頃だった。

 急な呼び出し音に叩き起こされた時、私は何か夢を見ていた気がしたが、瞬間的に忘れていた。跳ね起きて、ベッドの横の明かりをつける。次には携帯端末に触れていた。すでに呼び出し音は鳴っていない。一度だけ、ほんの些細な音を発しただけなのだ。

 隣のベッドではカクリがもう床に降りていた。

「第二級の指令のようだが、なんだ?」

 カクリの言葉を聞きながら、視線は携帯端末を走っている。二度、読み直したが、見間違いではなかった。

 メッセージを消去してから、私も立ち上がった。

「どこかの間抜けがウィリアム・ウォーバー氏を誘拐しようとしている。それを防ぎ、国外へ脱出させよ、とのことよ。全ての備品の使用が許可されている」

「全ての備品? つまりこの街中でどんぱちをやれ、ということか」

 でしょうね、と言いながら、私はクローゼットに歩み寄り、戦闘服を取り出していた。使うことはないと思っていたが、何が起こるかわからないものだ。

「カクリ、車を取ってきて。目立たな奴」

 わかっている、とすでに着替えを終えていたカクリが部屋を出て行った。ヴァルヴァに来て一週間しか経っていないが、事前に潜入していた仲間が各所にセーフハウスを設け、さらに武器を隠し、車両さえも用意しているのだ。いつ何が起こっても対応出来るに、という意味合いだったが、今回はそれが役立ちそうだ。

 体にフィットする軟性素材の戦闘服の上に上着を着る。六連発のリボルバー式の拳銃も脇の下に吊っておく。本格的な武装は別の場所にあるから今はこれだけだ。

 アパートの部屋に私とカクリが戻ることはおそらくない。後で同僚の誰かがやってきて整理して、問題となる痕跡を巧妙に消すことになる。それでもすぐに手入れがあったりすれば間に合わない可能性もあり、今できる限りの証拠隠滅は必要だ。

 そうこうしているうちに、私の携帯端末に着信がある。受けるとカクリで、表に車を持ってきたという。私の作業も終わっていたので、部屋を出る。

 表へ出ると、街灯こそ明るいが、街は静まり返っていた。

 夜明けにはまだ時間がある。

 車に乗り込むと、カクリが静かに発車させた。

 この夜をぶち壊すのは気がひけるが、仕方があるまい。



(続く)

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