1-10 目覚め

       ◆


 何か、低い音が巨大な生物のゆっくりした鼓動のように聞こえている。

 音の正体がわからない、という思考が私の最初の思考だったが、気づくと意識は覚醒していた。

 上体を起こそうとすると、筋肉に違和感があった。変な表現だが、新品のタオルを水に浸してから絞るのに似ている。使い込まれたタオルはしなやかだだが、新しいタオルは固くごわついている。今の私の体にも、不自然な強張りがあった。

 ピリピリとした痛みに顔をしかめつつ、私は起き上がり、素早く自分の体を確認した。服は着ているが入院着のような服だ。それ一枚しか身につけていない。しかし体自体には異常はないようだ。

 どこかで激しい負傷をしたような気がするが、体には傷跡一つない。

 どうしても開かない瓶の蓋のようになかなか思い出せそうで思い出せないが、何かがあったものの、私は無事らしかった。

 部屋は狭く、私が寝ているベッドの他には何もない。しかし清潔で、窓にかけられたカーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいるのが見て取れた。光に浮かぶ埃も見えないようなイメージ。もちろん無菌室でも何でもないので、埃がないなんてことはないが。

 天井をチェックすると、やっとそこに本来的にはないものが見つかった。

 角に設置されたカメラのようなもの。今も緑色のランプが灯っていて、稼働している。

 この部屋にいる人間を監視する目的もあるだろうが、それ以上に様々な情報を収集できる多機能モデルだった。あのカメラ一台で、私の体温、心拍数からは始まり、脳波までおおまかに把握できるとレクチャーを受けた記憶が蘇る。

 いずれにせよ、私がこうして目覚めて、なかなか記憶が蘇らずにいることを誰かが察知しているはずだ。

 なんとなくカメラに向かって手を振っていると、本当に看護師がやってきた。見間違えや誤認ではなく、白衣を着た看護師だった。女性で、笑いを嚙み殺すような顔をしながら「ご気分はどうですか」と尋ねてくる。

 想定の範囲内なので、狼狽えることもなく堂々と答えることができた。

「体の具合は何の問題もありませんけど、ここはどこですか」

「ここは輸送船の「カツラギ丸」の中ですよ。どうやら記憶の連結が不完全なようですが、カツラギ丸については覚えていますか」

「カツラギ丸……」

 言われて少しずつ思い出してきた。

 カツラギ丸は倭国の国防省の先進兵器分析局が保有する輸送船で、輸送船と言いながら、実際には海上を移動する拠点のようなものだ。医療施設が完備されているし、先進兵器分析局のメンバーが必要とするものを必要とするタイミングで、必要な場所へ送り込むことが任務になる。

 そう、例えば、荒野の真ん中で敵に包囲されているエージェントの元へ、航空機を送り込むように。

 やっとそこまで思い出してきた。

「今度ばかりはさすがに死んだかと思った」

 思わず声を漏らしながら、私の手は首の後ろ側、ぼんのくぼのあたりに触れている。

 そこに埋め込まれている小さな小さな装置が破損しない限り、記憶を継承する技術がある。あるのは知っていても、それが実際に実行されるのは何度経験しても慣れないものだ。

 看護師はのほほんと微笑んでいる。

「どうやら記憶と脳情報が噛み合ってきたようですね。名前は言えますか?」

「名前は、アメミヤ・ナギ。コードネームはレイン。所属は倭国国防相先進兵器分析局第二分室」

「大丈夫そうですね。服と食事をお持ちします。医師の診察はそれからでいいそうです」

 看護師はうやうやしい仕草で一礼して、部屋を出て行った。その態度は病室より、高級ホテルが似合いそうだった。

 ベッドから両足を下ろし、自分の足で立ってみる。自然と立てた。

 クルルアン自由国で私が見た脳移植型代替身体。政府軍が使い捨てた、最後には腐敗の中で潰えていく肉体。

 あれとまったく同じものが私の肉体だった。体を処理する人工酵素こそ埋め込まれていないが、作りものであるのに変わりはない。

 私という存在は、つまり肉体によって定義されない。

 私という存在は、脳情報と呼ばれる、人間の脳と重要な神経系に宿る個性を精密に調べ、情報に落とし込んだもの、ということになる。

 だから体がどれだけ破損して場合によっては生命活動を終了しても、脳情報の原版がある限り、新しい肉体、脳情報移植型代替身体で復活するのだ。

 それでも記憶だけは如何ともしがたいが、記憶の継承を可能な限り可能にするのが、首筋に埋め込まれた脳情報記録装置になる。これが肉体の死の瞬間まで情報を収集し続け、宿主の記憶を内包し続ける。

 というわけで、仮に死んだとしても、私の脳情報は新しい脳情報移植型代替身体に書き込まれ、脳情報記録装置と同期することで、死ぬ寸前の私が再現されるということだ。

 私は窓際に立ち、カーテンを開けてみた。

 外は一面の海で、陸地は見えない。はるか遠くに水平線が見えた。太陽は視界の外だが、日差しの強さは窓越しでもわかる。室内はエアコンが機能しているが、屋外は灼熱だろう。

 扉が今度はノックされ、振り返ると先ほどの看護師がワゴンのようなものを押して入ってきた。料理は倭国風かと思いきや、西国風だった。リゾットと卵が入っているスープ、飲み物は野菜ジュースで、プリンが付いていた。

「体が一般的な食事を受け付けるまで三日程度はかかります。それまで消化と吸収を促す薬も飲んでいいただきます」

 料理のお盆には小さなグラス一杯の水と液薬の小さなパックが添えられていた。

「服はもしお気に召さなければ、ご要望に添えるようにいたします」

「ありがとう。服装にはあまりこだわりはないよ」

「料理の方も、遠慮なくおっしゃってください。では、医師は三十分後に参ります」

 また部屋にひとりきりになってから、私は食事に取り掛かった。

 腹は減っているはずだったが、料理の味がよくわからなかった。味覚がまだしっかりと立ち上がっていないせいだろう。食事を楽しめるようになるには、数日が必要なはずだ。今は食事というより栄養補給という意味でとにかく料理を腹に収め、最後に苦味の強い液薬をグラスの水で飲みくだした。

 これから三日間、こんな食事に耐えないといけないとなると、不便極まりない。

 そのうちに扉がノックされ、返事も待たずに医師が入ってきた。こちらは白衣など着ていない。チノパンに派手な柄のTシャツで、医師だとわかるのは首に聴診器を下げているという一点があるからだが、仮に聴診器を忘れていたら医師ではなく船旅の最中の浮かれた客にしか見えない。

 その胡散臭い医師はベッドのすぐ傍まで来てすでに空皿しかないお盆を一瞥し、ニヤッと不敵な感じに笑った。

「不味かっただろう。仕方ない、新しい体だもんな。何か違和感はあるかい」

「食事が不味いくらいですね」

「他は? 息苦しさや頭痛はないか

「ないです。健康そのものだと思います」

 よしよし、などと医者はポケットから取り出した端末に何かを入力し始めた。どう見ても個人用の端末だが、支給品で分析局の備品だろう。この仕事、この職場において下手に私用の端末を使うと困ったことになる場合が多い。

 端末から顔を上げた医者が「これから二週間はこの船でリハビリだよ」と言い出した。覚悟していたので驚きはない。

 脳情報移植型代替身体のいいところは、肉体を乗り換えることでどんな重傷でも立ちどころに解決できるところだけれど、問題もある。

 それは脳情報と体がしっかりと馴染むまで時間を必要とするところだ。日常的な動き、というより歩いたりしゃべったりするのは大概の場合は問題ないが、長時間の運動や精密作業には慣れが必要だ。一から身につけるのと比べれば簡単に思い出せるが、退屈で気が塞ぐ時間である。

 どんなに優れた技術でも、完璧とはいかないわけだ。

「リハビリのメニューは追って指示する。明日からスタートしよう」

 結局、医者は聴診器を使うこともなく席を立った。慌てて私が声をかけたのは聴診器とは無関係で、聞くべきことがあるからだ。

「相棒、カクリはどうしていますか」

 ああ、と医者はなんでもないように振り返った。

「機械式義体の彼は無事だよ。体がだいぶ破損したが、君と同じように新品のボディに入っている。もう慣熟期間は終わっているんじゃないかな。僕は機械式義体の専門じゃないけど。呼ぶかい?」

「いいえ」どうして断ったか、自分でも不思議だったが言葉は自然と出た。「いずれ、自分で会いに行きます」

 にっこりと笑った医者が、それがいい、とだけ口にすると今度こそ部屋を出て行った。

 ひとりきりになり、ベッドに腰掛けたまま、私は窓の外を見ていた。

 荒野を吹き抜ける砂を含んだ強風。

 土の匂いと、夜のひんやりとした空気。

 一人の男の命が失われていく息遣い。

 銃声と銃弾が空気を切り裂く甲高い悲鳴。

 相棒の体の冷たいような暖かいような気配。

 ついさっきまでそんな環境にいたはずなのに、今はその全てが身近にはない。

 私は一度死んで、蘇ったようなもの。

 どうしてそれを受け入れられるのか、自分でも不思議だった。

 死を乗り越える精神的強靭さが私にはあるらしい。

 冗談みたいな話だ。

 私は死を恐れている。記憶の不自然な接続に恐怖を感じる。

 いつか、恐怖を抑えきれなくなれば、私の精神は本当の死を迎えるのだろうか。

 私の精神? それはなんだ。肉体ではなく、記憶でもなく、情報化された意識が私なのだろうか。

 答えは出ない。答えは誰も知らない。誰も教えてくれない。

 細く息を吐いた時、最後が少しだけ震えた。

 でもそれだけのことで、私は恐怖をやり過ごしたのだった。

 まるで私が感じる恐怖など、それだけのことに過ぎないように。



(続く)

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