1-8 逃走

       ◆


 ぼんやりと何かが認識された。

 光とも音とも温度とも言えない、全てが渾然一体となった感覚が輪郭を取り戻した時、私は脇腹の激痛に息を飲んでいた。

 体が熱いし、息苦しかった。

 呼吸に必死になる一方で、冷静な思考がやってきて、自分が倒れたことに意識が及んだ。

「大丈夫か、レイン」

 すぐそこで声がして、そちらを見るとやっとカクリが私を覗き込んでいるのに気づけた。その奥に見えるのは、布地のようだ。洞窟などではない。テントか何かだろうか。空間は極めて狭いようだ。

「俺が見えるか、レイン」

「見えるよ」

 やっとそう答えると、どうしても鮮明に像を結ばないカクリが真面目に頷いたようだった。

 その手が私の腕に触れる。痛みの走る左腕だからやめて欲しかったが、カクリの指がさりげなく私の腕をなぞり始めたので、黙っておいた。指の動きに集中する。

 思い出すだけで憂鬱になるほど、過去に繰り返し訓練したことだ。

 言葉でコミュニケーション不可能な時の代替手段で、今、カクリは私の腕に触れる指の動きでメッセージを伝えている。電子的ではないし、複雑なだけの技術だが意外に使い道はある。

 例えば、周りが敵だらけの時に。

「水は飲めそうか」

 カクリは平然とそんな言葉を向けてくるが、指が伝えてくる内容はまるで違う。

 正統解放戦線が監視している。誤解か、そうでなければ代替身体に関する動きを悟られたかもしれない。発言に注意しろ。

「少しは飲めるかも」

 そう応じながら、カクリの指の動きをさらに読み取る。

 脱出を支援する部隊のピックアップが行える地点はここから三十キロだ。動けるか?

 三十キロか。かなり近い、目と鼻の先だが、問題は私が動けるかだった。こんなところに置いていかれたくはない。しかし任務のことを考えれば、私を切って捨てるのも選択肢だ。

「おい、レイン。大丈夫か」

 カクリの声は普段通りだが、表情はやや固い。

 彼の指は、いつでもビーコンを発信できる、と動いていた。次には、脱出の支援は指定の地点へ一時間で何らかの形で行われるはずだ、と続く。それは事前のブリーフィングで確認したことだ。念を押すことで私を見捨てる気がないということを示したいようだ。

 ありがたいが、任務優先だ。

 などとカッコいいことを言えればいいのだが、そういう気分ではない。

「オーケー、大丈夫だよ、相棒。まだ生きている」

 そう答えると、カクリが今度ははっきりと頷いて、また指を動かした。

 協力者がいるからおそらく脱出はうまくいく。すぐ動けるか。

「水が欲しい。早く」

 水云々に意味はなく、さっさとずらかろう、ということだ。

 わかった、とカクリが答えて、立ち上がった。彼を視線で追うと、やはりここはテントの中だとわかった。切れ目からカクリが外へ出る時、外が暗いのもわかった。その暗さを見て初めて、テントの中に細やかな明かりが灯っていることが理解された。まったく、私は本当に具合が悪いらしい。周囲が見えていない。

 これでうまく脱出できたら強運が過ぎるという気もする。

 少しするとカクリが水の入った器を手に戻ってきた。すぐそばで膝を折ると、「起き上れるか」などと言いながら器はそこらに置いておいて、また指で腕をなぞってくる。痛い方の腕をだ。それだけで汗が滲むほど痛む。

 協力者が動いている。ビーコンは発信した。すぐ出ることになる。覚悟しておけ。

 これはまた、急展開なことだ。

「手を貸して。起き上がれない」

 その言葉に力強くカクリが私の上体を起こしてくれた。そのまま脇に肩を突っ込むようにして、私を立ち上がらせる。カクリの頭が天井になっている布地に触れそうだ。

 その時になって、テントの中へ首を突っ込んでいる人物が目に入った。

 誰かと思えば、キャサだった。彼が協力者なのか。

 カクリとキャサが頷き合い、キャサの首が引っ込む。カクリはしばらく動かなかった。その間に彼の手から私に拳銃が手渡された。リボルバー式の拳銃。できれば自動小銃が欲しかったが、残念ながら現状ではまともに扱えそうもないし、ゲリラの根城を脱出しようとするのでは目を引かないほうがいい。

 しばらく沈黙が続き、外で何か短く声が聞こえた。よく聞き取れなかった。

 いきなり、行くぞ、とカクリが歩き出した。

 テントを出ると、空は一面の星空だった。星の一つ一つが眩しいように思えた。

 地上には明かりはほとんどない。寝静まっているようではないが、それなりの静寂が辺りを覆っていた。これではちょっとした騒ぎで全員が跳ね起きるのは確実だ。

 カクリは無言、足音もしない移動で、私を運んでいく。私の靴の靴底が地面を擦る音が耳につく。誰にも聞こえるな、と願うのも虚しい気になる。

 不意に車のエンジンがかかる音がしたかと思うと、光が爆発したようにヘッドライトが点灯した。誰かが誰何する声がする。見張りの歩哨かもしれない。

 こうなれば状況はわかる。キャサが車を奪い、それで逃げるということ。シンプルだが、はっきり言って危険だし、車のヘッドライトをつけた時点で考えが甘い。エンジン音だけでも注意を引くのに、明かりをつければ全てが筒抜けと言っていい。

 私の内心を代弁するようにカクリが舌打ちをして、足を速める。私は引きずられるというより、引っ張りあげられるような形になり、そのまま明かりの元である車の荷台に放り込まれた。カクリも乗り込んできて、「出せ!」と誰かに言ったかと思うと、エンジン音が高まり、車が急発進した。私は狭い荷台から転げ落ちそうになり、腕をカクリに掴まれて九死に一生を得た。最悪なことに左腕で、肘が粉砕したのではないかという激痛のせいで礼を言うことはできなかった。

 明かりを消しておけ、などとカクリが言っている。返事はないが、明かりは消えた。背後でははっきりと大勢の人間の気配が膨れ上がり、明かりが次々と灯っていた。ゲリラ兵は熟睡していたようではないらしい。当たり前か。

 銃声こそ聞こえないが、追撃があるのは確実だ。

 カクリが運転席へしきりに指示を出し、その度に小型のトラックは右へ左へハンドルを切る。私は嘔吐感を必死に堪えつつ、なんとか姿勢を維持した。

 月が出ている。

 一面の荒野は細やかな月光を遮るものがないので、地面の起伏や些細な障害物は影で見て取れる。おそらく運転しているだろうキャサも、気がどれだけ動転していても破滅的な事故は避けられそうだった。

 どれくらいを走ったか、不意にカクリが大きな声で「車を止めろ! 止めるんだ!」と言い出した。三十キロをもう走りきっただろうか。とてもそうは思えない。

 運転手が何事か、怒鳴り返しているのに、「いいから停車させろ!」とカクリも怒鳴り返し、全く騒々しい。もし状況が別なら、黙らせようとしたかもしれないが、今はもう好きにしてくれという気分だった。騒々しい、大いに結構。

 ついに車は停車し、カクリが荷台から降り、私を引っ張り下ろした。運転手からはやはりキャサが出てきた。

「予定の地点じゃないぞ、ここで何をするんだ」

 食ってかかるゲリラ兵に、カクリは私を背負いながら応じている。

「車はここへ捨てる。目的地まではおおよそ五キロだ。ここからは歩きだ」

「歩き? あんたたちを逃がす奴らは、一時間後に来るんじゃないのか? 間に合うのか?」

「間に合わせる。下手に車で行くと目立つし、ここに車を捨てれば追っ手はここを中心に一帯を探すだろう。車を探されるよりはマシだ。行くぞ、お前が言う通りに時間はない」

 もうカクリは歩き出し、キャサもついてきた。他にやりようがないからだろう。

「本当に私も逃してくれるんだろうな」

 キャサがカクリに確認している。カクリは、もちろんだ、と答えていた。私の知らないところで取引が成立しているようだ。カクリにもそのくらいの権限はある。

 私を背負うカクリが歩を進めるたびに、その揺れで脇腹に痛みが走る。だから、キャサに言葉を向けたのは気を紛らわせるためでもあった。

「なんで、協力したの?」

 問いを向けられたキャサの顔は夜の闇のせいで判然としなかった。しかし言葉はよく聞こえた。

「こんな地獄にはいたくない」

「仲間は?」

「連中が地獄を作っているのは、昔から知っていた。政府軍も、ゲリラも、死と絶望しか生まない。その片棒を担ぐのは、うんざりだ」

 正義に目覚めたようなことを言っているが、要は逃げ出したいだけだろう。しかし逃げてはいけない理由はない。逃げられるなら逃げるべき、ということもあるのだ。卑怯でも、狡猾でも、身勝手でも、決断は決断だし、命は本来一つしかない。体も一つだ。

「何を知っているわけ?」

 問いを重ねる私もやはり自分のことしか考えていない。キャサは気にした様子もなく、答えた。彼は彼で、誰かに話をしたいのかもしれない。自分が知っていることを共有して、荷を軽くしたいのだ。一人で背負うより二人で背負う方が楽だ、という幻想から。

「政府軍は違法な兵士を使っている。正統解放戦線はその存在に感付きつつあるが、政府軍に買収された一部の指揮官がそのことを隠蔽している。このことを知っているものは少ないが、私が知っている範囲でも十名以上が不自然な死に方をしている。戦闘の最中ではなく、拠点での事故などでだ。私もそのうちに殺されただろうな」

「なるほど」

 そう答えるしかできないのは、脇腹の痛みが看過できないからだ。

 しかし、キャサの考えはわかったし、カクリがキャサを一緒に脱出させようとした理由もわかってきた。キャサを確保しておき、しかるべきところへ出せば告発のためのいい材料になる。少なくともルルスアン自由国を揺さぶる要素にはなる。そこそこ、ではなく、激しく揺さぶれるだろう。

 私が口を閉じると、キャサも喋らなくなった。カクリはずっと無言だ。カクリは機械的の先へ進んでいるが、キャサはそうはいかない。すぐに呼吸が乱れ、遅れ始める。私にはわかるが、カクリは少しだけ歩調を遅らせていた。キャサは気付いただろうか。

 どれだけを沈黙の中で進んだのか、それは唐突に始まった。

 最初、風が唸っているのかと思ったが、違う。

 残念ながら、私たちをピックアップする航空機ではない。

 音は背後から、地上を這うように近づいてくる。

「走れ」

 カクリの声はこんな時でも冷静だった。小走りで先へ走るのは、全力で走ると私を振り落としかねないからだろう。キャサも走り始めたようだ。見えはしないが、すぐ後ろで足音がする。

 私は首をひねって音のする方を見た。

 光の塊が見えた。

 数え切れない車両のヘッドライト。

 ゲリラ兵が追ってきたのだ。

 私は頭上を見た。どこまでも星空が広がっている。

 この荒野の真ん中に、今すぐに救世主はとてもやってきそうになかった。

 私たちに残された時間は、どうやらあまり長くはないらしいとも思えた。



(続く)

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