命に至る門狭く

赤崎弥生

命に至る門狭く

 青。白。黄色。けばけばしい原色で彩られたプラスチック製の拳銃は、人を殺すための武器というより子供向けの玩具に似ていた。

 人の気配のない夜の廃工場。目の前に悠然と佇立するのは、私のただ一人の友人。或いは友人だった人物。今の私の生殺与奪は、引き金にかけられた彼女の指先一つに委ねられている。映画や漫画で見るような、脅す者と脅される者の単純明快な従属関係。

 でもそれは、あくまで形だけの話だ。私と真白の力関係は実際には拮抗していた。それどころか引き金を引くという動作を必要としないぶん、私に若干の分があるとさえ言えた。

 私が人を殺すのに、銃も刃物も必要ない。ただ、視線さえあればそれで良い。

「さあ、選べ。生きて私達に協力するか、私を殺して監獄の中に戻るか」

 その証拠に、真白が私に強要してくることはない。持ちかけられているのはあくまでも取引で、私には断る権利があった。だけど拒否した瞬間に、この均衡はたちまち崩れる。血飛沫を上げる側と浴びる側。一方通行の非対称な関係が立ちどころに実現される。どちらがどちらの役割を担うのか決めるのは、西部劇じみた早撃ち勝負だ。

 権力に飼い慣らされることに抵抗のない私と、飼育されることを頑なに拒否する真白。根本から在り方の違う私達がいずれ袂を分かつのは、逃れようのない運命だった。むしろ今日まで、仮初めとはいえ良好な友人関係を続けていられたことの方が奇跡なのだ。

 そう。それはきっと、奇跡だった。微睡みの中に見る夢のような。シャボン玉の表面に一瞬だけ浮かぶ紋様のような。ほんのひとときの、些細な幸福。

 それに終わりが訪れるのは必然で、だけど、今日このときである必要性は恐らくなくて。

 だからといって、もう少しだけ続いてくれたのなら、なんてことを思うのは――、どうしようもなく愚かしいことなのだろうけど。




 思えば真白は、初対面のときから立派な公共の敵だった。

「ミシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』では、国家権力と医療が結びつく仕組みが明らかにされている」

 夜の帳の降ろされた薄暗い世界の隅で、蛍火のような淡い赤橙色がぼう、と光った。その光量が微かに落ちて、鼻につく煙草の匂いがほんのりと漂ってくる。私は咄嗟に口元を袖で覆って、呼吸を止めた。でもその行為は話を遮るのが不可能になることを意味してもいて、事実、その子は私からの反論がないのを良いことに滔々と演説の続きを語った。

「異常知覚研究センターは国立の施設だ。設計に国家権力の意向が反映されているであろうことは、想像に難くない。喫煙所がどこにも設置されていないのは、その証左の一つだな。昨今の喫煙者を排除する国家的な風潮が、この場所にも表れているというわけだ」

 この子に声をかけたのは私の作為によるものだけど、顔を合わせることになったのは全くの偶然だった。日課である夜のランニングをしていたら、この子が煙草を吸っている場面に出くわしたのだ。建物裏の照明のない場所で、普通なら足を運ぶようなところじゃない。かれこれ八年はランニングを続けてきたけど、人と出会ったのは初めてのことだった。

 素通りしようかとも思ったけれど、このコースは今後も使い続けるつもりだった。走る度に副流煙を吸わされることになったら堪らないから、気は進まないけど声をかけることにした。地面に座り込みながら平然と煙草を吹かすその子の手前で足を止め、視線を足元に固定しながら、ちょっと、と話しかけた。つまり私は元々、注意をする側だった。

「喫煙は身体に悪い。確かにそれはその通りだ。喫煙という行為が現代における健康な人間像と相容れないのは、科学的に実証された事実だからね。だけどその理屈は一つの欺瞞を孕んでもいる。健康な人間という概念は先天的に定まっているものではなく、国家権力によって作為的に作り出されたものだからだ。国家を維持する上で都合の良い人間が正常な人間として定義され、そして医学は、その正常な人間を生産するための傀儡と化す」

 それがいつの間にか、私の方が説教される展開になっているのは何故だろう。話の内容は小難しい上に長ったるいし、副流煙は相変わらずこちらに流れてくるし、十一月末の冷え切った夜気は体温を瞬く間に奪っていく。一体どういう拷問だろう。

 私の苛立ちは刻一刻と募っていった。こいつの姿をひと目見てやろうだなんて、普段なら絶対に抱かくはずのない欲求を抱くのに、そう時間はかからなかった。

 顔は下に伏せたまま、建物に寄りかかるその子の姿を視界の端で捉える。灰色のパーカーに、黒いメンズライクのジャケット。下にはスカートを履いていたけど、その丈は思いのほか短かった。〝綻び〟を幾つも抱えた脆そうな脚が視え、慌てて焦点を地面に戻す。

 軽率に他人を視界に入れようとしたことを深く後悔する。と同時に、漠然とした違和感に襲われた。さっき、それまでの認識とは明確にそぐわない何かが目に入ったような。

「国家にとって、国民が喫煙で健康を害して労働力が低下するのは都合が悪い。健康のためという名目で国が喫煙者を排除しているのは、そのせいだ。でも私の肉体は、国家に使われるために存在しているわけじゃない。これは単なる喫煙行為ではなくて、福祉の名の下に張り巡らされた権力の網の目から逃れるための、ささやかな抵抗で――」

「そうだ、制服。あなたが履いてるスカート、制服でしょ? つまり、あなたは未成年。色々と屁理屈を言っていたけど、未成年の喫煙は法律で禁止されているでしょ」

 その子がようやく演説を中断した。痛いところを突かれたらしい。だけど沈黙は一秒も続かなかった。性懲りもなく、また別の理屈をこねくり回して自らを正当化し始める。

「私の身体をどう扱おうが、私の勝手だろ。ちゃんと携帯灰皿は持ってるし、屋外の人気のないところを選んで吸ってるんだ。文句を言われる筋合いはない」

「筋合いならある。さっきから、あなたの撒き散らした副流煙を吸わされてるんだから」

「……はいはい、わかったよ。じゃ、あんたが近くに来たときは吸わないことにするよ」

 一応納得はしてくれたらしく、煙草を始末する物音がガサガサと聞こえてきた。だけど、私の苛立ちはそれだけでは収まらない。私が近くにいようがいまいが未成年喫煙も敷地内での喫煙も認められてはないのだし、そもそも、この子だって異常知覚者のはずだ。こっちは毎晩ランニングをしてまで健康維持に努めているというのに、この子は身体を大切にするどころか煙草なんかを吸っている。腹が立つのも当然というものだ。

 そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。思考を一時中断して通知を確認してみると、警備ロボットが向かっているという自動メッセージが入っていた。黙っておくのも悪いと思ったので「もうすぐ、警備ロボットがこっちに来るから」と警告をしてあげた。なのにその子は感謝するどころか「もしかしてチクったのか?」などと言い放ってくる始末。流れるような素早い動作で私の視界のど真ん中に割り込むと、抗議の眼差しを向けてきた。

 キッと吊り上がった切れ長の双眸。茶色に染められたショートヘア。街灯の光を受けてギラギラと輝く両耳のピアス。不良だ、という認識が強化されると同時に、その子が思いのほか小柄であることに気がついた。ちょうど頭頂部が私の顎先に来るくらいで、凶暴な獣というよりも人馴れしてない野良猫みたいな印象が強かった。だからこそ、私は容易に想像できた。顔面に走る無数の綻びを起点に、その肉体が一瞬で崩れ落ちていく光景を。

 気づけばその子を脇に押しのけていた。視界が開け、綻び一つない地面が視野全体を埋め尽くす。知らぬ間に速くなっていた鼓動を、軽い深呼吸で整えてから、言う。

「いきなり視界に入ってこないで。万が一のことがあったら、どうするの」

「押しておいて謝罪もなしかよ。というか、万が一って何のことだよ」

「見え透いた嘘を吐かないで。センターにいる人間が、私の能力のことを知らないはずがない。それより早く立ち去ったら? 警備ロボットに見つかると面倒なことになるでしょ」

「ふん。自分で通報しておいて、よく言うよ」

 忌々しげに捨て台詞を吐きながら踵を返し、ザッザと乱暴に歩みを進めていくその子。

 あまりにも失礼な物言いだった。背中を睨みつけてやりたい衝動がムラムラと込み上げてきたけれど、どうにか堪える。一日に二度も人の身体に綻びを視るのは、ごめんだから。




 異常知覚者の存在が公的に認められたのは、今から二十年ほど前の二〇三〇年の話だ。なぜ唐突に一部の人類が、通常の五感を超えた未知の知覚に目覚めるようになったのか。その医学的、生物学的な論拠は未だに解明されてない。とはいえ、原理が不明だろうが実在するのは確かなわけで、実在する以上はそうした人々の存在を無視することはできない。国は大慌てで諸制度を整えて、一年後には国立異常知覚研究センター、通称センターの運営を開始した。センターは、異常知覚に関する研究所と病院が一緒くたになった施設で、大抵の異常知覚者はセンターに入院して生活を送っている。私もその内の一人だった。

 謎の未成年喫煙女との遭遇の翌日。私はいつもの異常知覚実験に協力するために、凪先生の研究室へと足を運んだ。しかし前の子の実験が押しているらしく、廊下で待たされる羽目になってしまった。仕方がないので壁に寄りかかりながら時間を潰していると、男子二人組のグループが向こうからやってきた。楽しげな声で、この後ゲームコーナーに行かないか、なんて話をしている。

 と、彼らが唐突に会話をやめた。足音もピタリと止まる。一秒ほどの静寂の後、その二人は何事もなかったかのように会話と歩みを再開させて、足早に廊下を通り抜けていった。

 最後に、こんなやり取りを置き土産のように残して。

「なんで死神があんなところに突っ立ってんの? セキュリティどうなってんだよ」

「ちょ、声が大きい。聞こえてたらどうするんだよ。折角、自然に通り抜けられたのに」

 その後も何度か似たような場面に出くわした。グループが通りかかると、私の存在に気づいた瞬間ピタリと会話と歩みを止めたし、一人で歩いている人達もどこかしらのタイミングで足音のリズムを乱れさせた。私はその度に呼吸を止めて、私のことを意識的に意識しないように通り過ぎていく人達に奉仕した。文字通り息苦しい時間が続いた。

 前の患者が研究室から出てくるや否や、私は素早く研究室の中に入った。机や器具がそこここに置かれて雑然としているけれど、既に何度も訪れているから、下を向いていても物にぶつかることはない。デスクについている凪先生に歩きながら挨拶をして、部屋の隅にあるプレハブ小屋のような実験ブースの扉を開けた。

 椅子に腰掛け、正面に設置されたディプレイ越しに凪先生の顔を見る。画面の中の綻び一つない世界に深い安堵を覚えつつ、よろしくお願いします、と改めて挨拶をする。

「はい、今日もよろしく。ちゃちゃっと準備しちゃうから、もう少し待ってて」

 異常知覚の研究は医学や薬学や生物学が主だけど、それらが担うのは主に実用面での研究だった。一方で、凪先生が担当しているのは基礎研究。基礎物理の観点から、異常知覚の理論的メカニズムを実験的に解明することを目標としていた。

 程なくして実験が始まった。といっても、やらされる作業はそう複雑なものじゃない。ヘッドギア型の測定装置を頭から被った状態で、小窓越しに送られてくるトレーの上の物体を視る。先端にポインタのついたペンで物体表面の綻びをなぞって、その後、物体を破壊する。以後はその繰り返しだ。

 異常知覚の症状は、大きく二種類に分けられる。一つはPKで、もう一つはESPだ。日本語に訳すと前者は念動力で、後者は超感覚となる。私に発現したのはPK能力の方だ。物質の表面に本来なら存在しない綻びのような線が知覚され、そこに焦点を合わせることで、刃物でスパッと切断したかのように物体を破壊することができるという代物だった。

 合金製の板。プラスチックの容器。鉱石。植物の種。魚の死骸。動物の骨。肉。臓物。指定された物質を、視認される綻びに従って淡々と破壊していく。が、次に出てきたゴム製のシートには、どこにも綻びが視当たらなかった。視えません、とパスすると、今度は色付きのガラスがトレーに乗って出てきた。これにも綻びは視えなかった。

 PKによる干渉は、物質の構造が秩序だっているほど簡単になり、乱雑なほど難しくなる。基本的には固体結晶だけが干渉の対象で、液体や気体のような分子の位置が時間的に変化するものはまず不可能。ガラスやゴムや一部のプラスチックを始めとする、非晶質性の物質の破壊も困難を極めた。非晶質は固体というより、限りなく粘性の高い液体だから。

 ブース内のディスプレイに綻びが視えないのも同じ理由だ。やけに大型で厚みのあるこのモニターはプラズマディスプレイというもので、ガラスの間に希ガスを閉じ込めて作られている。片や非晶質、片や気体だから、私であっても綻びが視えることはない。

 一時間ほど続けたところで、一旦休憩を取ることになった。暗転していたディスプレイが再び点いて、凪先生が申し訳無さそうな顔で謝罪の言葉を述べてきた。

「今日はごめんね。三十分も廊下で待たせることになっちゃって。凛音には、ただでさえ長い時間実験に付き合ってもらってるって言うのに」

「いえ、気にしないで下さい。生体への干渉は、日本では私にしか出来ないんですから」

 PK能力者が干渉できる物質は、原則として固体結晶に限られる。とはいえ、どのくらい複雑な結晶まで干渉できるのかには個人差がある。食塩や重曹といったイオン結晶が難易度としては一番低くて、次に簡単なのが金属だった。単体の金属に干渉できれば準中級で、合金までいければ中級。ポリプロピレンのような結晶性のプラスチックまで干渉できれば上級、といったところだ。そして超上級とも言えるレベルが、細胞塊への干渉だった。

 勿論、生物の身体は結晶ではない。だけどそれらは全て、細胞という小さなパーツが細胞接着分子で繋ぎ止められて出来ている。強力なPK能力者の中には、この細胞接着分子を切断することができる者がごく僅かに存在している。その内の一人が私だった。

 つまり私は、世界に数えるほどしかいない、視るだけで人を殺せる人間だった。

「ところで、相変わらず目の下のくま、凄いですね。昨日も泊まりだったんですか?」

「まあね。ここって東京とは名ばかりの山奥だから、遅くまで残業してると帰れなくなっちゃってさ。こちとら自分の部屋じゃなきゃすこぶる寝付きが悪くなるっていうのに」

「大変ですね。国はどうして、もっと人員を増やしてくれないんですかね」

「国にとっては、治療法の確立以外に関心はないからでしょ。全く、嘆かわしい話だよ。物理的には、異常知覚はメチャクチャ興味深い研究対象だっていうのに」

 こんなだからノーベル賞が取れなくなって久しいんだ、と嘆息混じりに吐き捨てる凪先生。以前も似たような話題になったことがあるのだけれど、そのときは研究関連の愚痴を聞かされるだけで休憩時間が終わりを告げた。私はさり気なく話題を逸らすことにした。

「異常知覚が物理的に興味深いって、どんなふうにですか?」

 訊ねた途端、凪先生の顔から憂いの色が一瞬にして消え去った。くまだらけの両目をキラキラと輝かせ、「訊きたい? 訊きたい?」などと圧をかけてくる。多少怯みながらもはい、と返事をすると、凪先生はコホン、とこれみよがしに咳払いをしてから説明を始めた。

「まず確認しておくけど、波動関数のことは知ってる?」

「確か、量子力学の用語ですよね。名前くらいなら聞いたことはありますけど、詳しくは」

「波動関数は、言ってしまえば全知の神様みたいなものかな。その系における全ての物理量は、波動関数によって完全に決定されるから。ところで私達のいるこの宇宙は、一つの巨大な閉鎖系になっているよね? つまり量子力学に則れば、この世界は宇宙全体を記述する巨大な波動関数に従っているというわけだ。異常知覚の分野では、それを世界関数と呼んでいる。凛音たち異常知覚者は、何らかの未知の方法で世界関数に干渉することで、超能力じみた現象を引き起こしているんだよ。ここまではいいかな?」

 私が頷くと、凪先生は満足気な笑みを浮かべて話を先に進めた。

「今度は不確定性の話をしよう。量子力学の世界では、物質の位置は確率的なものになる。あらゆる粒子は座標上の一点に存在することをやめ、確率分布に従って、雲のように広がった状態で存在するようになる。だけど、このような量子的な存在の揺らぎは、観測されることによって一点へと収束する。PK能力者はこの性質を利用しているんだ。量子レベルでの観測を特定の箇所にだけ集中させることで、存在確率に偏りを持たせてるんだよ」

「つまり……、物質と物質の間に無理やり隙間を作って破壊している、ということですか?」

「惜しいけど、少し違うかな。強引に引き剥がしてるわけじゃなくって、電気的な斥力を利用しているんだよ。凛音達は、世界関数を通じて物質中の電子雲に干渉し、電荷の偏りを帯びた面を直感的に作り出しているんだ。同じ電荷を帯びた面を隣り合わせるように作ってやれば、物体は反発しあっておのずと瓦解するからね。これがPK能力の原理だよ」

「ああ、なるほど。だから、規則的な配列をした物質しか壊せないんですね。原子がバラバラに配置している物質だと、壊すために必要な電荷の偏りの面は複雑になるから」

「その通り。立て続けに喋った割には、きちんと理解出来てるね。優秀、優秀」

 お褒めの言葉をもらったところで、今度はESPの原理についても質問してみた。すると凪先生は、虚を突かれたように一瞬、言葉を詰まらせた。

「……ん。まあ、ESPも基本的にはPKと同じ原理だよ。ESPは確率操作を行う代わりに、何らかの情報を世界関数から引き出している。PKが世界関数に書き込みをする能力だとしたら、ESPは読み出し専門の能力と言ったところかな」

 説明そのものは相変わらず明快だった。だけど、声のトーンも全体的に平坦になっていた。何となく気にかかったので、「ESP能力者のことで何かあったんですか?」と訊いてみた。すると凪先生は驚いたように軽く目を瞠って、「鋭いね」と口にした。

「そんなにわかりやすい表情してたかな、あたし」

「表情というより、間です。嫌なこととか面倒なことを思い出したときって、言葉を発する前に独特の空白ができるから。声の抑揚とかも変化してましたし」

「なるほど。文字通り行間を読まれたってわけか」

 凪先生がふっと小さく苦笑する。それから困ったような、ばつの悪そうな表情になり、「あまり言いふらさないでね」と釘を差した上で事情を説明してくれた。

「実は昨日、とあるESP能力者が東京本部に回されてきたんだよ。一口にESPといっても、どんな情報を引き出すことができるかは人によりけりでしょ? その患者は物理的に興味深い対象を知覚しているらしいから、精密な検査をするために設備の整った本部に回されてきたんだ。で、その子の最初の実験が今日の午前中に予定されていたんだけど、ちょっと性格に一難ありそうでさ。スケジュールが押したのも、その子が検診のときに担当医とトラブルを起こして、実験に遅刻してきたせいなんだ」

「……差し支えなければ教えてほしいんですが、その子って、どんな感じの人ですか?」

「凛音の一個下の女子だよ。茶髪のショートヘアで、金色のピアスしてる子。白羽真白っていうんだけどね」




 月の出ている夜は嫌いだ。折角の闇が月明かりに侵されて、台無しにされるから。わざわざ人通りも街灯も少ないルートを選んでいるというのに、足元の雑草や植え込みの木々に綻びが視えてしまったら、それだけで気分は最悪になる。その点、今日みたいな月のない夜は良い。不意に綻びが視えるような事故が起こることは、殆どないから。

 脆弱な生命の影がない、死んだような静寂に見た目に世界。月に一度しか訪れないその景色を謳歌するように、暗黒に覆われた大地を蹴る。闇の中を踊るかのようにして、走る。

 けれど、完全無欠の死の世界はセンター外周の六割ほどを走りきったところで、壊れた。

 足を止め、「どうしてここにいるの」とその人影に問いかける。その子――白羽真白は悪びれることなしに、「どこで何をしていようが、私の勝手だろ」とつっけんどんに言い返してきた。視界の端でちらりと捕らえた彼女の格好は、昨日と全く同一だった。強いて相違点を上げるとすれば、立つのではなく地面に腰を下ろした状態で建物に寄りかかっているところと、膝上に分厚いハードカバーが置かれているところ、あとは私に声をかけられた瞬間に煙草の火を消したこと。この三点くらいだろう。

 正直に言うと、白羽真白との邂逅を全く予想しなかったわけじゃない。だけど、ただの杞憂だと思っていた。隠れて煙草を吸うのが目的なら、ここが私のランニングコースだと判明している以上、また別の場所を探すのが道理だから。なのに、どうして。

「この場所は監視カメラの死角になってる。長時間居座っていると、昨日みたいに警備ロボットに通知が行くことになるけど? 端末は既に渡されたはずでしょ」

 俯いたまま腕まくりをし、左腕の端末を晒す。GPS発振器に心拍計、発汗センサーなどが搭載された、装着者の居場所と健康状態をリアルタイムで管理するウェアラブル端末だ。東京本部では初診療時に全ての患者に手渡され、常に着用するよう言い渡される。

 が、白羽真白は何食わぬ声色で、「いいや、つけてない」と否定してきた。

「主治医には着けるよう言われたけど、拒否した。着用に法的な義務はないからな」

 なるほど。その我儘のせいで私のスケジュールが狂わされた、というわけか。嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったけれど、この子に喋る口実を与えるとどれだけ面倒なことになるのかは既に思い知っている。さっさとこの場を立ち去って、今後一切、白羽真白と関わりを持たないようにするのが賢明な選択だろう。

 私はいつもより強めに地面を蹴って、何事もなかったかのようにジョギングを再開させた。でもその直後、「ちょっと待って」と白羽真白が引き止めてきた。聞こえなかったふりをすれば良いのだと気がついたのは、反射的に足を止めた後だった。

 自分から声をかけたくせして、白羽真白の物言いは判然としなかった。その、えっと、などと口ごもるばかりで、一向に用件を切り出してこない。痺れを切らした私が「用がないならもう行くけど」と片足を地面から離したところで、ようやく本題を口にしてきた。

「この前は、悪かった。急に、目の前に突っ立ったりして。知らなかったんだ。あんたが逆月凛音だってことも、その能力のことも」

 右足を中途半端に突き出した状態で身体が止まった。あまりに予想外な言葉だったから。

「……わざわざ謝らなくても。こっちにも非はあるわけだし」

 あちらから謝ってきた以上、ここで無視しては私の立場が悪くなる。何度か言い淀みはしたけれど、「ごめんなさい」と私は素直に謝罪の言葉を口にした。

 気まずい沈黙が流れる。ふと、この子は今どんな顔をしているんだろう、という疑問が胸の底から湧いてきた。その欲求は、一昨日のような意地の悪い動機に根ざしたものとは全くの別種の感情だった。だからといって好奇心や興味本位とも少し違っていて……、駄目だ。今までに体験したことのない感情だから上手く言葉に変換されない。だけどその感情は確かに胸の中に居を構えていて、時々刻々と存在感を増していた。

 木々が、下草が、大地が、知らぬ間に回転を始めていた。振り向いているのだと気がついたのは、白羽真白を視界に捉えた後だった。

 綻びだらけの横顔を晒した少女が、気恥ずかしそうに視線を脇に逸らしつつ、首筋を指で掻いている。その景色を網膜に焼き付けてから、私は素早く顔面を正面へと戻した。

「じゃ、おあいこってことでいいか? 異論がなければ、話はこれでおしまいだ」

 行くなら行け。言外にそうした意味が含まれているのは明らかだった。だけど私は何故か、彼女と同じく後方の建物に背中を預け、「少し休んでからにする」と声に出していた。白羽真白は「そうか」と口にしただけで、それ以上は何も言ってこなかった。

 私は再度、白羽真白の横顔を盗み見た。スマホの光で朧気に照らされた綻びだらけの横顔に、赤色の斜線がうっすらと浮かんでいるのに気がついた。これは異常知覚によるものじゃない。実際に肌の上に刻み込まれているものだ。

 引っかき傷。その言葉が浮かぶと同時に、背筋が凍りつくような戦慄に襲われた。

「その傷、もしかして、私が押したときに?」

 心の底からゾッとした。暴力で人を傷つけるなんて、これじゃ、あの人と全く同じだ。

「ああ、これ? 別に逆月は関係ないよ。学校で喧嘩したんだ。そのときに、ちょっとな」

「喧嘩って、殴り合いの? ……いまどきそんな古風なことする人、いるんだ」

「違うよ。言い合いになってるときに、相手の爪がたまたま当たっただけだ。故意に怪我させられたわけじゃないし、大した傷じゃないよ」

「でも、痛いものは痛いでしょ。そういうのって」

 私は学校に通ったことはない。六歳の誕生日を迎えるよりも、異常知覚の発現の方が先だったから。白羽真白が具体的にどういう目に合ったのかを想像することはできないけれど、人から悪意や敵意を向けられることの遣る瀬なさなら、少しくらいはわかるつもりだ。

「痛いって言ったら、治療でもしてくれるのかよ。肉体に干渉可能な能力なら、傷を塞ぐことだって原理的には可能なはずだし」

 恐らくは意図的に、白羽真白が文意を逸らした返答をした。私はその読み違いを訂正することはせず、敢えてその誤読に乗っかった。

「それは無理。私に視えるのは、物を壊すための綻びだけだから。治すのは専門外」

 壊すこと、傷つけることしか能がないのに嫌気が差して、似たような質問を凪先生に投げかけたことがある。あのときに受けた説明は、確かこんなふうだった。

「古典力学には時間反転対称性があるから、ある事象に対してそれを逆再生したような過程が起こること自体は物理法則に反しない。コーヒーにミルクを注ぐと全体が均一に混ざるけど、その状態からカップ内の全分子の運動の向きを反対にしてやれば、混ざる前の状態に独りでに戻って、コーヒーとミルクは分離する。でもそのような状態は、ええと……」

「確率的に実現するはずがない、か? コーヒーの分子とミルクの分子が均一に混ざった状態は無数にある。でもその一方で、自然と分離前に戻るような状態は極めて少ない。大抵の状態は、混ざった状態からまた別の混ざった状態へと移行するだけだからな。PK能力もそれと同じで、物を壊すための過程は無数にあるけど、再生に至る初期条件はごく少数しか存在しない。一つ一つの細胞分子を寸分の狂いなく操作しないことには、傷の治癒という極めて特殊な現象に至る初期条件は作れない。でも、どんなPK能力者にもそこまで精密な確率操作なんて行えないから、傷の治療は実質不可能。この解釈で合ってるか?」

「え、ええ。それで合ってるけど……」

 驚いたことに、白羽真白が引き継いだ説明は凪先生から聞かされたものとほぼ同じだった。白羽真白の年齢は私の一つ下、学年で言うと高一だと聞いていたけれど、外見に似合わず頭は相当良いらしい。

 感心を通り越して軽い放心状態に陥っていた私だけれど、スマホのバイブで我に返った。確認すると案の定、警備ロボットが向かっているというメッセージだった。私は通知を消去して、「正門まで送っていこうか」と申し出た。真白は、それを拒まなかった。




 その日以降、私と真白は定期的に言葉を交わす間柄となった。連絡先の交換もしていなければ、会おうという取り決めをしたわけでもない。だけど私がランニングをしていると、真白は決まって例の場所で煙草を吸ったり、本を読んだりして待っていた。私も私でちょっと一休みとばかりに真白の隣で足を止め、しばらく二人で会話してから、警備ロボットが来る寸前に立ち去った。その後は正門前の駐車場まで歩きながら、話の続きをした。私は真白のバイクが夜の暗がりに溶けるの見送ると、何事もなかったかのようにジョギングを再開し、走って宿舎まで戻った。あくまでもランニングのついでだと、誰かに言い訳でもするかのように。でも一ヶ月が経つ頃には、私はジャージの変わりにコートを着込み、歩いて待ち合わせ場所まで足を運ぶようになっていた。

 真白との会話では、私は基本的に聞き役に回った。元々口数の多い性格ではなかったし、変化のない生活を送っている以上、これといった話題の持ち合わせもなかったから。反対に真白は多弁だった。日頃から温めている思想だとか、読んだ本に書いてあったことだとか、色々な話題を饒舌に語ってくれた。

「異常知覚者の排除の過程は、西洋における精神病排除の歴史と酷似してると思うんだ」

 ある日。駐車場へ向かう道すがら、真白は小脇に抱えた分厚いハードカバーを軽く手で叩きながら、そう言った。本のタイトルは『狂気の歴史』。作者はミシェル・フーコーだ。

「中世やルネサンスの時代において、狂気――今で言う精神病の患者は、病気として扱われることも何らかの施設に閉じ込められることもなく、人々の生活の中にごく自然に溶け込んでいた。だけど十七世紀半ばになると、その風潮が変化してくる。大衆や国家から異常だとか非道徳だとか見做された人々が、施療院という施設に幽閉されるようになるんだ。その中には狂気の人達の姿もあった。しかし閉じ込められた狂気はその後、単なる狂気ではなく精神病患者として扱われるようになり、治療の末に解放されるようになる」

「つまり、近代医学の勝利ということ? 良かったじゃない」

 素朴な感想を返すと、真白は少々語気を強めて「そうじゃないんだ」と否定してきた。

「監禁されていた人々が解放され始めたのは、幽閉しておくより労働に従事させた方が経済的だと考えられるようになったからなんだ。それで権力は、精神病患者が社会的な役割をこなせる状態になるように、監禁施設から開放して治療を施し始めた。だけどその治療は、医学というより洗脳や支配と言った方が近いような代物だった。つまり精神医学の誕生は、精神病患者の治療のためなんかじゃなかったということなんだ」

「なるほどね。それで、今の話がどのように異常知覚と接続されるわけ?」

「国の都合で病理化されて治療の対象になっているという点で、両者は共通してるだろ? 異常知覚は病気ではなく、単なる個性や生物学的な進化の結果として捉えることも可能だったはずなんだ。だけど社会は、異常知覚を病気として扱うことに決めた。凛音のような強力な能力を持った異常知覚者は入院という名目でセンターの中に幽閉し、私みたいな対して害のない個体には、こいつを与えた上で既存の社会に回収することにした。私達異常知覚者は、かつての精神病患者と同じ扱いを国から受けているというわけだよ」

 パーカーの上に羽織ったジャケットのポケットから、真白が錠剤を取り出した。異常知覚の抑圧剤だろう。処方されたばかりなのか、まだ一錠も減ってはいなかった。

 現代医学は、異常知覚に対して全くの無力というわけではない。メカニズムこそ明らかになってはいないものの、一時的に能力を抑えるための薬くらいは既に開発されていた。異常知覚者がセンターの外に出るときは、原則として抑制剤を服用することが求められている。何らかの事情でセンターへの入院が難しい、或いは個人的な理由で拒んでいる異常知覚者が外で生活を送れているのは、抑制剤のおかげと言えた。

 だというのに真白はそれを、脇の茂みへと豪快に投げ捨てた。

「ち、ちょっと真白? 何をやっているの?」

「いいんだよ。持ってたところで飲まないから。抑制剤って、副作用で尋常じゃない眠気が来るだろ? あんなのを律儀に服用してたら、一日の半分以上を睡眠に持っていかれることになる。異常知覚が原因で身体に悪影響が生じた事例はないんだし、飲むだけ損だろ」

「でも、また別の意味で身体が危険に晒されるんじゃないの? 数日前も、異常知覚者への発砲事件があったらしいし。ゴム弾だったから、大怪我はしなかったみたいだけど」

 歴史は繰り返すという使い古されたフレーズにある通り、異常知覚者への暴力事件は数年単位で増減を繰り返している。異常知覚が公的に確認された直後は社会的な混乱が最も激しくて、件数的にはそこがピークだ。センターの運営開始で緊張は大幅に和らいだものの、幼い子供がPK能力を暴発させて死傷者を出した事故をきっかけに、再び社会的な対立が激化した。抑制剤の開発でその流れも一旦落ち着いたけど、ここ数年はまたぞろ風当たりが強まっていた。ネット上で一部の異常知覚者が異常知覚者解放戦線という団体を設立し、活動を始めた影響だ。

 高性能で安価な3Dプリンタが普及したことも、暴力事件の増加を後押ししていた。3Dプリンタ用の非晶質プラスチックは数十年前とは比べ物にならないほど強度が増したし、銃やナイフなどの3Dデータもその気になれば簡単に手に入る。元データの配布を食い止めようにも、インターネットが中央集権型から分散型のWeb3.0へと移行しつつある今、一度世に解き放たれたデータの流出を食い止めるのは実質的に不可能だった。

「被害者は私と違って模範的な異常知覚者で、抑制剤もきっちり服用してたって話だったと思うけど? 異常知覚者は異常知覚者ってだけで、一般人からの恐怖と悪意の対象になる。抑制剤を服用してるかどうかなんて、結局は関係ないんだよ。そもそも、異常知覚者なら誰もが抑制剤を飲まないといけないって風潮自体がおかしいんだ。私のESPは、価値のある情報は一切引き出せない役立たずだからな。常時発動していたところで不利益を被る人なんていないんだから、飲む必要なんてどこにもないんだよ」

 真白の言っていることは正しい。それはわかる。だけど私は、真白にはきちんと抑制剤を飲んでほしかった。たとえ上辺だけのポーズであっても、害のない異常知覚者だとアピールすることで危害を加えられる確率が少しでも下がるのなら、その方が良いと思うから。

 でも真白は、私が何を言ったところで自分の信念を変えることはないだろう。そっか、と何の意味もない相槌だけを口にして、私は冷え切った空気と一緒に本心を飲み込んだ。




 年が明ける頃には、私達は夜の散歩を楽しむだけでなく、気が向いたときにはセンターの娯楽施設に赴くようになっていた。その日、私達は初めてボウリング場に足を運んだ。閉館の一時間前だと言うのに、ボウリング場は依然としてて盛況だった。だけどこの頃には既に、真白の評判は入院患者の殆どに知れ渡るようになっていた。死神と問題児がタッグで現れたともなれば、流石の夜更かし常習犯たちも平静ではいられないらしい。賑わっていた場内はたちまち静まり返り、客達は一人、また一人とそそくさと退散していった。

「こういう場所にはよく来るの?」

「いや、今日来たのが初めてだよ。一緒に行く相手とかもいないしな」

 その言葉が嘘じゃないことはすぐにわかった。死ぬほど下手クソだったから。真白の投球のときだけ不思議な力場でも働いているかのように、投げる球の悉くが両脇の溝に吸い込まれていった。連続ガター回数が二桁に乗ったところで、真白はおもむろに後方のシートへと腰を下ろして、「センターには、パノプティコン的な規律社会としての側面と、生権力的な福祉社会としての側面の二つがある」などと嘯き始めた。こいつ意外と子供っぽいな、と私は少し呆れたけれど、余計なことを言わずに大人しく話に耳を傾けた。

「前者については、語る必要もないほどに自明だな。センター内の至るところに監視カメラが配置され、警備ロボットが巡回し、ウェアラブル端末で常に生体情報や位置情報を収集している。マイクも搭載されているから、いつどこで誰がどんな会話をしたのか管理者には筒抜けになっている。これ以上ないってくらいの近未来的なディストピア社会だよ」

「データが収集されていると言っても、プライバシーは保護されているはずだけど? 位置情報も音声記録も、特別な事情がない限りはアクセス不能になってるし」

「そこがみそなんだよ。実際に監視されているか否かに関係なく、監視されている可能性が存在する。だからこそ患者達は、自らの心の中に監視者を作り出し、自主的に規律を守るようになるんだ。パノプティコンという一望監視型の監獄で利用されているのがこの仕組みで、規律訓練の最も効果的な、つまりは最悪の働かせ方だとされている」

 ふぅん、と相槌を返しつつ、真白のぶんの投球を代わりにこなす。正面を見据えて放ったボールは直線的な軌道を描き、ピンを根こそぎ弾き飛ばした。ストライクだった。

「ところで、生権力っていうのはどういう概念なの? あまり聞き覚えがないけれど」

「人間の身体を例に考えてみようか。人間の肉体は、様々な臓器が複雑なネットワークを形成しながら駆動している。その臓器も無数の細胞からできていて、また、腸内には細菌という別個の生命が何百兆と生息してもいる。つまり人間は、全体で一つの生命であると同時に、無数の微小な生物の集合体とも捉えられるわけだ。この考えを国に対して適用したのが生権力だ。要は国家を、無数の独立した個人の集合体であると同時に、一つの巨大な有機体でもあると見做すんだ。生権力の下では、国家そのものが自己保存の欲求を持ち始め、他ならぬ国自身が生きながらえるために、細胞や細菌に当たる国民を飼い慣らそうとし始める。それも、パノプティコン的な規律の押しつけではなく、福祉という甘い餌を巧妙に用いることでね。このボウリング場なんか、生権力のわかりやすい表徴の一つだよ」

 最後の具体例を聞いてピンときた。確かに通常の病院や研究施設と比較して、センターの娯楽の充実度合いは常軌を逸しているところがある。図書館や体育館は勿論のこと、ゲームコーナーや映画館などの一般的な病院にはあるはずのない施設まで完備されている。その上、これらの設備は患者ならば無料で使い放題と来ている。

 素直な受け止め方をすれば、こうした措置は私達の生活環境をより良くするための福祉だと考えられる。だけど真白に言わせてみれば、これらは全て異常知覚者が自主的にセンターに収容されに来るよう仕向けるための餌に過ぎない、ということか。

「でも、それを言い始めたら、福祉という概念そのものが崩壊してしまわない? ありとあらゆる福利厚生が、支配のための装置だとして批判可能になってしまうと思うのだけど」

「その指摘は正しいよ。フーコー自身も、福祉そのものが否定されるべきだと言っているわけではないから。彼はあくまで、福祉の名の下で国家による管理、支配が正当化されている場合があるのだと警鐘を鳴らしているんだ。また同時に、人々がそうした支配と戦うための武器を与えてくれてもいる。フーコーの思想の一番の魅力は、国家権力や固定観念といった巨大で堅牢で自明視された何かから、私達を自由にしてくれる点にあるんだ」

 その言葉は、私の胸中にずっと巣食っていた一つの疑問を氷解させた。私は常々、不思議に思っていた。真白はどうして、フーコーなんて面白くも何ともなさそうな書物を読み耽っているのだろう、と。今の真白の話を聞いて、ようやくその理由がわかった気がする。

 真白がフーコーを愛読するわけ。それはきっと、生きるためだ。真白にとってこの世界は、決して居心地の良いものではなかった。この世界で善とされていたり自明視されている事柄が、真白にとっては耐え難い責め苦として感じられた。だからこそ、世界に立ち向かうための武器が、自らを保つための鎧が欲しかった。その末に辿り着いた生きる寄る辺が、ミシェル・フーコーだったのだろう。

 ボールを抱えた状態のまま棒立ちしていたからだろう。「凛音? 投げないの?」と真白が声をかけてきた。「今投げる」と答えながら私は投球フォームに入った。ストライクを出し、今度は自分のではなく真白のボールを手に取って、再びレーンの前に立つ。

「……ところで凛音、やけにボウリング上手くない? なんでそんなに真っ直ぐ飛ぶの?」

 真白がボソリと呟いた。明らかに拗ねた口調だった。こんなにも子供じみた台詞が、さっきまでセンターの管理構造を暴き立てていたのと同じ声帯から飛び出してているなんて。そう考えると無性におかしくて、気づいたときには吹き出していた。真白は「笑うな!」と怒ったけれど、でもそれは逆効果で、私はますます笑いの壺の奥深くにはまり込んでしまった。誰かの前で笑い声を上げたのなんて、ひどく久しぶりのことだった。




 共有した時間が増えるに連れて、真白について知っていることも地層のように積み重なっていった。両親とは仲が悪くて、顔を合わせたくないがためにセンターで時間を潰していること。吸っている煙草は実はニコチンフリーのもので、法律には違反していないこと。ピアスを開けたのは、周りから舐められるのが嫌だったからなこと。栗色の髪の毛は実は地毛で、そのせいで学校の教師と揉めたこと。

 私にとって、白羽真白という人物の輪郭は徐々に鮮明になっていった。だけどその一方で、真白が私について知っていることは依然として少ないままだった。私は真白のように、自分のことを雄弁に物語ることはしなかったから。

 真白にも、私のことを知ってほしい。そうした欲求に駆られたことが、なかったとは言わない。だけどその感情が、それ単体で表に出てくることは決してなかった。その裏には強烈な拒否感と恐怖感がいつだって張り付いていて、私の思考回路を瞬く間に後ろ向きな感情で染め上げた。

 私にできた最大の自己開示。それは自らの過去や心の奥部を晒すことではなくて、素朴で卑近な願望を語ることだけだった。尤もその願望は、私にとっては到底叶えられそうもない夢物語でしかなかったのだけど。

 いつもの建物裏で話をしていたときのことだ。いつか海に行ってみたい、と私は何の間前触れもなしに口にした。それらしい話の導入なんて、思いつかなかったから。真白は大げさな反応をすることなく、「泳ぐ方? それとも見る方?」と自然に訊き返してきた。

「どちらかと言うと、泳ぐ方。見るだけならVRでも充分だから」

「凛音って泳げるんだっけ?」

「さあ。経験がないからわからない」

「だったら、予行練習代わりにプールでも行こうか。確かセンターにもあったよね」

「あるにはあるけど、まさか今から行くつもり? まだ桜が散り始めてもいないのに?」

「時期なんて関係ないでしょ。温水プールなんだから」

 いやでも、と躊躇する私を他所に、真白はさっさと歩き始めてしまう。私は慌てて追いすがりつつ、「でも、水着持ってないし」と遠回しに日を改めようと主張した。だけど真白は「別にいいじゃん。Tシャツと短パンとかで入れば」などと常識外れなことを言ってくるだけで、まともに取り合ってはくれなかった。

 結局、水着代わりの部屋着とタオルだけ持って、プールに赴く流れになった。時間も遅かったし時期も悪かったからか、プールは貸切状態だった。ひとまずそれに安堵する。部屋着でプールサイドに出ていくところを目撃されるのは、流石に抵抗があったから。

 真白は入らないのかと訊ねると「私はいい。泳げないから」と断られた。一人でプールの縁まで赴いて、波一つない水面を覗き込む。ゆっくりと、足先を水につけてみる。冷たくもなければ熱くもない。徐々に水に浸す部分の体積を増やしていって、ふくらはぎの辺りまで水に浸かったところで、ひと思いに全身をプールの中へと投げ出した。

 とぷん、と。首下までがたちまち生ぬるい液体に包まれる。そのまま床から足を離して、水に背中を預けるようにして身体を後ろに倒していく。目を閉じて視覚を遮断し、肉体的な感覚に全神経を集中させる。

 重力と浮力の綱引きの結果、私の肉体は水位の中間辺りで静止した。

 閉じていた瞼を開くと、そこには、何もかもが曖昧な世界があった。

 ゆらゆらと揺れる液体。強烈な照明が落とす光の柱。幾重にも屈折して歪み捻れた、整合性の途切れた世界。その光景に、言いようのない安らぎを覚える。視界の中の何もかもが不定形だからこそ、その世界は今まで見たどんな景色より確かで、揺るぎがなかった。

 ……ああ、でも。水面の向こう側に透けて見える天井は幾つもの綻びに装飾されていて、あまりにも弱々しい。瓦礫の雨に全身を貫かれるイメージが頭の中に湧いてきて、私は再び瞼を閉じた。もしここが本物の海だったなら。水面のレンズの先にあるのが、果てのない紺色の夜空だったなら。

 きっとそこには、完全なる死の世界が広がっていたはずなのに。

「いつまでも上がってこないから、溺れたのかと思ったよ」

 床に足をつけて立ち上がると、プールサイドから真白が声を聞こえてきた。私は頭を横にして耳から水を抜きながら、「溺れてない。ただ光を見てただけ」と答えた。

「泳ぐというより潜水してるって感じだったけど、潜るのが好きなわけ?」

「好きっていうか、安心するの。液体の中なら、綻びがあまり視えないから」

 真白が、微かに息を呑む音がした。水面に映る真白の姿から表情を窺い知ろうとしたけれど、私の立てる小さな波のせいで表情はかき消えていた。

「凛音には、世界がどんなふうに視えてるの?」

 いつになくシリアスな色味を帯びた声だった。私の心の深い部分に関わることだと理解してくれているのだろう。理解した上で真白は、飲み込まずに言葉にしてくれた。

 その意味を噛み締めながら、訥々と、丁寧に、自分の中にあるものを声にしていく。

「口で説明するのは難しいけど、不安定で不安なもの、かな。私を囲む世界のどこかが、ふとしたはずみに崩れ落ちてしまいそうで、怖いの。今は天井の梁を視るのが怖いし、前のボウリングのときなんか、足元のフローリングが抜け落ちて奈落の底に引きずり込まれてしまうんじゃないかって、恐ろしかった。食事のときも落ち着かない。ステーキや焼き魚を目にしたときとかは、特に。でも一番怖いのは、人を視界に入れたとき。……お前は人を殺せる人間なんだって、突きつけられているみたいだから」

 私の初めての自分語り。にも拘わらず、真白からの返答はすこぶる淡白なものだった。そっか、と短い相槌を口にして、それっきり。

 冷淡な反応だとは思わない。むしろ誠実な態度だと思った。どれだけ言葉を尽くそうと、真白に私の世界を理解することは不可能だから。

 異常知覚を発現した人間が真っ先に直面させられるもの。それは、共通普遍な世界像からの追放だった。なんせ世界の認識の仕方が一夜にして様変わりする上に、変化後の世界像を理解してくれる人間が周囲に一人もいないのだ。それまで暗黙裡に信じていた、世界は誰にとっても共通普遍なものであるというテーゼは、一瞬にして崩壊を余儀なくされる。

 異常知覚者同士であっても、この阻害が解消されることはない。異常知覚の発現の形態は人によって異なるからだ。PK能力者の中には、切断可能な面が綻びとなって視える人間もいれば、糸の結び目として視える人間も、靄が湧き出すようなイメージを認知する人もいる。綻びを視ている者同士であっても、綻びの視え方や視える対象には個人差がある。人によって引き出せる情報がまるきり違うESP能力者は、言わずもがなだ。

 だけど、こうした相互理解の不可能性を抱えている一方で、或いは理解不可能だからこそ、他の異常知覚者の世界の視え方に好奇心をそそられるのも事実だった。真白は自分のことをよく話す。だけど能力の詳細について話されたことは、今までなかった。機会がなくて訊けずにいたけれど、このタイミングでなら訊ねてみてもいいだろう。

 私が同じ質問を返すと、真白はちょっと悩んだような声を出してから、こう答えた。

「強いて言うなら、砂嵐って表現が近いかな。通常の五感で構成される世界の他に、もう一つ別タブを持っていて、そこに昔のテレビの砂嵐みたいなノイズが延々と流れてるんだ。そして私は、その砂嵐の海の中にどこまでも溺れている。そんなイメージ」

「砂嵐? それは、どういう意味を持った情報なわけ?」

「何も意味してないと同時に、何もかもを意味してもいるかな。私が視ている砂嵐が表しているものは、世界関数そのものだから」

 世界関数そのもの。サラリと口に出された言葉の意味がわからなくて、私は当惑した。

「どういうこと? 世界関数そのものの認識なんて、そんな真似ができるわけない。よしんば可能だったとしても、一瞬で脳みそが焼き切れるに決まってる」

「ああ、そうだよ。だからこそ私の脳は、世界関数から得た情報に何の処理も施していないんだ。例えば透視能力であれば、世界関数の中から箱の中の物体に関する情報だけを取り出して、それを脳内で通常の視覚へと変換している。だけど私の脳には、その手の翻訳回路がインストールされてないんだ。何も仕事をしてない以上、頭に負荷がかかる道理はないだろ? といっても厳密には、二進数で表される情報を白黒で表示する、という必要最低限の処理はやっているけどね。でも、その程度の作業なら大した負担はかからない。情報量の問題だって、その気になれば全ての情報にアクセスできるってだけの話で、一度に世界関数の全情報を把握しているわけじゃない。どちらにせよ害はないよ」

 確かに、真白の説明には一応の筋が通っていた。でもそれは、通常のESP能力の在り方からあまりにも乖離していた。意味のある情報が一切得られないESP能力なんて、本当にそんなものが実在するのだろうか。

 私が困惑気味に訊ねると、真白はまあ、と前置きを口にして若干の補足説明をし始めた。

「本当のことを言うと、若干は得られるよ。自分に関する情報が対応している部分くらいなら、わかるときもなくはないから。例えば、自分の右腕をつねるとしよう。すると、その瞬間に砂嵐のパターンが局所的に変化する。一度だけなら偶然かもしれないけれど、何度も実験を繰り返して似たような結果が得られれば、そこが右手をつねるという事象に対応する箇所なんだと判断できる。でもこれは、あくまでも後天的な学習の賜物だ。他のESP能力者みたいに、直感的に情報を得てるわけじゃない」

「なるほどね。ところでもう一つ訊きたいのだけど、その観測は量子レベルなの?」

 ふと思い至っただけの質問だった。だけど真白は、意外にも自分の観測の精度について考えてみたことはなかったらしく、どうだろう、としばし悩みこむ素振りを見せた。

「多分、量子レベルなんじゃないかな。世界関数そのものは量子力学で記述されているはずだから。でも、だからといってPK能力みたいな確率操作をするのは無理だよ。観測を偏らせようにも、砂嵐のどこを注視すればいいのかわからないんだから」

 そのとき、閉館三十分前を告げる放送が鳴り響いた。私は水を吸った服の重さに驚きながらもどうにかプールサイドに上がって、そろそろ帰ろう、と真白に声をかけた。

 が、真白からのは返事はなかった。フリーズでもしたかのように、プールサイドの縁で棒立ちしたまま動かずにいる。プールからは既に波が消えていたから、水面越しに真白の表情が見て取れた。ひどく小難しげな、それでいてどこか生気に満ちた、唐突に素晴らしいアイディアに思い至った科学者のような表情をしていた。私がもう一度名前を呼ぶと、今度は反応が返ってきた。「悪い、ボーッとしてた」と誤魔化すように口にすると、今度は小声でぶつぶつと独り言を口にしながら、出入り口に向かって歩き始めた。

「滅びに至る門は大きく、命に至る門は狭い。だけど、確かに存在はしているわけで……」

 一体、何を考え込んでいるのだろう。気になりはしたけれど、ぼさっとしていると着替える時間がなくなってしまう。話を聞くのはその後でいいだろう。

 しかし真白は、着替えを終えた私の姿を見るや否や、「いつもより遅くなっちゃったから」と口にして一足先に帰ってしまった。一人取り残された私は何だかスッキリしないものを感じながらも、また別の日に訊いてみればいいか、と自分で自分を納得させた。

 まあ、結局は別の日が訪れるより先に、私達の関係は破滅を迎えてしまうわけだけど。




 その翌日、私は凪先生から唐突な呼び出しを食らった。といっても、実験のときに使用する研究室にではない。センター内の応接室のような部屋に、だ。センター生活を続けて十年以上になる私だけれど、その部屋のあるフロアにはただの一度も立ち入ったことはなかった。外部からの訪問者でもない限り、用があるような場所ではないのだ。

 事情がわからず当惑する私に対し、凪先生は廊下を歩きながら経緯を説明してくれた。

「事の発端は今日の午前中、真白が能力の使用許可を申請してきたことにあってね」

「え、どういうことですか? 確かに、実験や検診以外での能力の使用は許可性になってますけど、これはPK能力者に限った話ですよね。真白みたいな、常時発動型のESP能力者なら申請の必要はないはずなのに」

「それが、申請されたのは真白自身の能力じゃなくて、何故か凛音の能力だったらしいんだよね。使用申請は本人が行うことになっているから、当然その申し出は拒否された。だけどあの子は、ああいう性格だから。そもそも能力の使用が許可性になってる時点でおかしいだの何のって、事務員に突っかかったらしかったんだ。といっても、この時点では事態はそれほど厄介なことになってはいなかった。真白が突飛な行動を取るのも、スタッフとトラブルを起こすのも、さほど珍しいことじゃないからね。問題はその次だよ。何でも、真白とスタッフが口論しているところに、公安が首を突っ込んできたらしいんだ」

 公安。その単語には、決して小さくない衝撃を覚えた。

 私を始め、センターには社会に重篤な損害を与えることのできるような異常知覚者がゴロゴロいる。公安が常駐しているのは、そうした患者たちが自主的に、或いは外部の人間から利用され、能力を悪用することを防ぐためだ。とはいえ、これはあくまでも公然の秘密と言うべきもので、公安が表に顔を出すような事態は通常ならありえない。

 正直なところ、あらましを聞いたところで何が何やらサッパリだった。公安の介入理由も真白の行動理由も判然としないのだから。でも、私が呼び出しを受けた理由ならわかった。真白が一向に事情を話そうとしないから、公安が痺れを切らして、関連人物である私から話を聞き出すことにしたのだろう。全く、いい迷惑だ。

 程なくして目的の部屋に着く。扉脇の端末で生体認証を行うと、ドアは音もなく横に開いた。凪先生に続いて私も入室しようとして――、身体の向きを一八〇度反転させた。一歩大きく横に動いて、廊下の壁に背中を預けた状態で、ごめんなさい、と謝罪する。

「人が密集した場所は、苦手なんです。廊下から話をさせてもらっても大丈夫でしょうか?」

「ああ、構わないよ。私達としても、その方が安心して話ができるから」

 背中側から、低くて太い大人の男性の声が響いた。やけにゆったりとした語り口だった。敢えて鷹揚とした声を出すことで、自分の側の優位を誇示しようとしている、みたいな。

 その第一印象は、事情聴取が始まってからも覆されることはなかった。早いところ真白から事情を問いただしたくて仕方がないというのに、その男性は倍速再生したくなるほどのスローペースで、真白とはどういう関係なのかとか、普段はどんなことを話しているのかとか、私と真白の関係を探るような質問をねちっこく連投してくるのだから、堪らなかった。そもそも、この事情聴取には何の意味があるのだろう。センター内の患者の会話や位置情報、通信記録は全て記録されている。公安なら、必要に応じてそれらのデータにアクセスが可能なはずだ。端末を着用していない真白はともかく、私については尋問する必要なんてないはずなのに。にも拘わらず、こうして直接呼び出して尋問をしてくるのは……、ああ、わかった。きっと規律訓練だ。聞かれている、見られている、という意識を私達に植え付けることで、下手な行動を起こさないよう圧力をかけているのだろう。

 いつの間にか、フーコー的なものの見方に慣れている自分がいるのに気づく。私はフーコーの信奉者ではないし、フーコーを援用して権力と戦う気もない。だけど、真白と似たような思考が自発的にできるようになっているのだと思うと、悪い気はしなかった。

 公安職員からの退屈極まりない質問は、三十分ほどで終わりを告げた。といっても解放されたのは私だけで、真白はまだ尋問に付き合わされるらしかった。

「ああ、疲れた。訊くまでもない質問を長々と繰り返すなんて、公安も案外暇なんですね」

 来た道を引き返しつつ、私はため息混じりに愚痴をこぼした。表面上は凪先生に話しかける体で。だけどその実、どうせ盗聴しているであろう公安への軽い嫌味として。

「この前の解放戦線のテロ予告があって以来、ピリピリしてるみたいだからね」

「やっぱり、公安は真白と解放戦線の繋がりを疑ってるんですかね。私の能力を利用してテロか何かでも起こそうとしているんじゃないかと疑念を抱いている、とか?」

「多分、そうなんだろうと思うよ。……で、実際のところどうなの? 真白が裏で解放戦線と繋がってそうな素振りとかは、あるの?」

 解放戦線。それは、真白のように現在の異常知覚者の待遇に不満を持った人達によって組織された、小規模な政治団体だ。元々はデモや演説といった平和的な政治活動を行っていただけなのだけど、ここ最近は一部の過激なメンバーによりテロ予告や破壊活動などが行われるようになっていて、社会問題と化していた。

 異常知覚者が異常知覚者のまま、世の中に交わっていける社会を目指す。真白はその理念には一定の共鳴を示しつつも、運動が過激化し始めていることについては痛烈に批判していた。この前のテロ予告もそうだし、PK能力で公的設備に損害を与えたり、ESPで知り得た情報を衆目に晒したりした事件についても、否定的な意見を述べていた。自由を求めるのは良いけれど、テロや脅迫で一般人に脅威を与えては、異常知覚者は危険分子だから隔離すべきという風潮を更に助長することになる。過激派の行いは、群れた不良がイキっているのと何ら変わるところがない。それが真白の見解だった。

 ほんの一瞬の逡巡さえ挟むことなく、私はキッパリと凪先生の疑念を否定した。凪先生は安堵の吐息をこぼしながら、まあそうだよね、と口にした。

「頑固なところがあるとは言え、あの子はちゃんと理性的に物事が考えられる子だもんね。短絡的な暴力行為に走るようなことなんて、あるわけないか」

 真白と二回目に顔を合わせた日以来、実験の時間が後に押すことはなくなった。厳密には押す理由そのものがなくなった。凪先生が真白からの要求を受け入れて、実験への非参加を認めたからだ。実験がない以上、二人が顔を合わせる機会はないはずなのだけど、凪先生は今みたいに、真白に対して一定の信頼を置いている様子を時折見せることがある。

 きっと二人の間には、また別のところで何らかの物語があったのだろう。具体的にどういう出来事だったのかは、私には預かり知らぬことだけど。

「まあでも、こういう状況になってしまった以上、しばらくは真白との接触は控えた方が良いかもね。公安の監視にビクつきながら会話するのも、落ち着かないでしょ?」

「その忠告、意味ないですよ。監視されている可能性があるときほど、監視の目なんて存在しないかのように振る舞うのが真白ですから」

 凪先生は「違いない」と言いながら苦笑した。意見は一致したようだった。

 二対ゼロで賭け不成立となった私と凪先生の予想は、しかし、意外にも的中しなかった。

 呼び出しがあった日の夜、真白が例の場所に姿を表すことはなかった。次の日も、そのまた次の日も、真白が待ち合わせ場所にやってくることはなかった。それだけでも信じがたいことだけど、更に驚いたことには例の呼び出しの日以降、真白は急に凪先生の実験に参加するようになったらしかった。つまり真白は、あの日を境に模範的な異常知覚者として振る舞い始め、かつ、私との邂逅だけを綺麗に避けているようなのだ。

 まさか、あの真白が公安からの圧力に素直に屈したというのだろうか。或いは、何か他の目的があるとか? 様々な憶測が思い浮かんだけれど、真白に直接訊いてみないことには正解はわからない。私は毎夜、真白のくゆらせる煙草の明かりが見えるのを心待ちにしつつ、一日も欠かすことなく建物裏に足を運んだ。

 ようやく再開できたのは、それから一ヶ月が過ぎた日のことだった。その頃には桜もとっくに散りきって、山上のセンターにも徐々に春の暖かさが満ち始めていた。

 真白の姿を見つけた瞬間、否応なしに私の心は跳ねた。だけどこれ見よがしに嬉しそうにするのは癪だったので、「久しぶり」と努めて平然とした声でいい、いつも通りの歩行速度で真白へと近づいた。いくつか取り留めのない遣り取りをした末に、私達は立ち上がり、駐車場に向かって歩き始めた。

 久々の再開という記念すべき日ではあったけど、タイミングの悪いことに、その日は私の嫌いな満月の夜だった。下草や木々の綻びがいつもより沢山見えて、歩いている途中、私は何度か目眩を覚えた。

「で、一ヶ月も音沙汰がなかったのはどういう事情? 監視が緩まるのを待ってたの?」

「違うよ。ただ単に、他にやることがあって忙しかっただけ」

「やることって、どんな?」

 一ヶ月ぶりの対面にも拘わらず、私は一度も真白の方へと顔を向けずに話をしていた。顔どころか、体のどこかのパーツを視界に入れることさえ避けていた。

 だからきっと。その行為は、息をするよりも簡単だったことだろう。

「そのまま真っ直ぐ歩け。絶対にこっちは見るな。少しでも首が動いたら……、わかるな?」

 青。白。黄色。視界の端に一瞬だけ映り込んだ、L字型をした原色のレイアウト。

 その図形に、綻びの線は一つも視えなかった。




 こめかみに銃口を突きつけられる、なんて映画や漫画でおなじみの手法で脅迫された私は、これと言った抵抗をすることもなく、ゴム製の目隠しをされた状態でバイクの後部座席に座った。真白の様子が平常そのものだった上、脅迫から誘拐までの流れがあまりにスムーズだったものだから、取り乱す暇もなかった。背後に聞こえる警報音が気にならない程度に小さくなったところでようやく、ああ誘拐されたんだ、と理解が現状に追いついた。

 東京とはいえ、センターが建てられているのは山間の僻地だ。しばらくの間はモーター音と葉擦れの音しか聞こえなかった。でも都市部に近づくに連れ、徐々に他の車の走行音や通行人の会話が耳に入るようになってきた。その喧騒に、言いようのない恐怖を感じる。おかしな話ではあるけれど、誘拐されたという事実よりもセンターの外に出たのだという実感の方が、私にはよっぽど差し迫った恐怖の念を抱かせた。

 体感で三時間ほど走ったところで、ようやくバイクが停止した。降りろという指示に従い、ゆっくりと足を地面につける。固くはない。多分、草の上だ。人の声や車の音はしないけど、ざぁざぁという神経を撫でるようなノイズが定期的に聞こえてくる。息を吸うと、嗅いだことのない匂いが鼻の奥をツンと差してきた。風は比較的強くて、少しだけ肌寒い。

 真白に誘導されながら足を前に進める。ぎぃ、という扉の軋む音の後、地面の感触が硬いものへと変わった。カツカツと足音が響くようになる。何かの建物に入ったらしい。

 数歩進んだところで、止まれという指示を受けた。その場に両膝をついて顔を上げたところで、いきなり目隠しを外された。

 私は即座に顔を伏せた。上方から差し込む月影が逆光になっていたおかげで、真白の顔面をはっきりと見ずには済んだ。そのことに胸を撫で下ろしつつ、恐る恐る周囲に視線を巡らせる。敷地は広く、天井も比較的高い。錆びたベルトコンベアや機械の類が、撤去されることなく捨て置かれている。廃工場か何かだろうか。

 満月の光が足元の暗がりに薄い影を作っている。プラスチック製の銃口が私の眉間の数センチ手前に突きつけられているのが、シルエット越しに見て取れる。この剣呑な状況において、なおも私の精神は凪いでいた。だって私は、真白のことを信頼していた。表面上は凶行のように見えようと、その裏には筋の通った理由があるのだと信じ切っていた。

 だけどその信頼は、あまりにもあっさりと裏切られることになる。

「単刀直入に用件を言おう。凛音、解放戦線に加入しろ」

 その台詞が発せられた瞬間、私の思考は時間は停止した。理性が現状を受け入れることを拒否しているみたいに、文章の意味を読み解くことを脳みそが拒否していた。

「……言っている意味が、わからない。真白は解放戦線とは何の関係もないはずでしょ」

「そんなことはない。凛音には話してなかったけど、私は解放戦線のメンバーの一人だよ」

「嘘だ。だって真白は、解放戦線の活動に関しては明確に批判してたでしょ?」

「あんなのは公安どもの目を欺くためのブラフだよ。ま、半分は本音だったけどね。表立った事件は全部、頭の足りない下っ端どもが勝手にやらかしたことだから」

 唖然とする私とは反対に、真白は飄然とした態度を崩さない。普段と全く同じ調子で「最後の講義をしようか」などと嘯き、場違いな長口舌を振るい始める。

「以前、生権力の話をしたことを覚えているかな。近代的な福祉国家は人々に規律を押し付けるだけでなく、福祉という甘い餌を利用して、欲望を通じて人々の行動を管理するようになる。これが生権力だった。この概念は、人々に不可視の支配の存在を自覚させるものではあるけれど、同時に絶望に陥れもする。生権力の下では、何らかの欲望を抱くこと自体が、権力の網目に絡め取られることを意味するからね。権力からの逃走を希求した時点で、既に掌の上に乗せられているというわけだ。つまり、生権力の魔の手から逃れることは原理的に不可能なんだよ。たった一つの例外を除いてね」

 私はこの一ヶ月、真白と話をする代わりにフーコーについての本を読み耽っていた。現状を受け入れるのは難しくとも、真白の話を理解して、真白がどういう方向に論を持っていこうとしているのか察するのは容易だった。

「もしかして、無政府主義革命でも起こそうとしているの?」

 そうだ、と真白が肯定の言葉を述べる。正解に辿り着いたことを褒め称えるでもなければ、先を読ま得れたことに苛立ちを覚えるわけでもない、至極淡白な相槌だった。

「権力から逃れることが不可能ならば、そもそも権力に帰属すること自体をやめてしまえばいい。アナーキズムこそが、権力の網の目から逃れるための唯一無二の方法だ」

「……ちょっと待って。その考えは明らかに矛盾してる。フーコーは決して無政府主義者ではなかったし、そもそも彼の言う権力は、個人や集団、国家や自治体といった無数のユニットの間に成り立つ、ネットワーク的な力関係そのものでしょ? クーデターを起こしたところで、人が人と関わりながら生きていく限り、権力関係の発生は不可避のはず」

「鋭い指摘だね。でも、その考えは前提部分に大きな間違いを孕んでいるよ。異常知覚者という新人類と、一般人という旧人類。これらはもはや、進化の過程で枝分かれした別個の生命として扱われるべきなんだ。生き物として別種なら、その二つの間に何らかの共生関係や対立関係が生まれたとしても、それは権力構造とは言えないだろう?」

「そんなの、ただの欺瞞でしょ。ラベルを張り替えただけで内実が変わるとは思えない」

「勿論、変えるのは分類だけじゃない。生き方だってオルタナティブなものにする。新人類は、旧人類の定めたルールに従属することをやめるんだ。とはいえ、戦争を引き起こそうってわけじゃない。基本的な立法には従うさ。でも、抑圧剤を飲めという要求には従わないし、屋外での能力使用の規制も無視する。センターへの入院要請にだって応じない。私達は異常知覚という名の超能力を自由に生かして、新たな価値を創造していくんだ。それによって旧人類と交易をして資金を稼ぎ、生活を送っていく。治療と隔離の対象とされ、旧人類の社会に無理やり押し込められている現状よりかは、随分マシな状態になるはずだ」

「悪いけど、ただの絵空事としか思えない。能力の使用が自由になったところで、都市機能や食糧生産を旧人類に依存している時点で、既存の権力の傀儡にされるのがオチでしょ」

「いや、そうはならないよ。私達には力があるからね」

 宙空に浮いていた銃口が、コツン、と額に押し当てられる。金属ではなく非晶質性のプラスチックで象られたそれは、重くもなければ冷たくもない。けれど私にとっては、どんな鉛や鋼鉄よりも明確な形を持った、逃れることの出来ない死神の武器だった。

「情報そのものが武器となるデジタル化社会。鋼鉄で支えられた建物が乱立する近代都市。前者に対してはESPが、後者についてはPKが、それぞれ強力なカウンターとして機能する。相手が国家権力であろうとも、パワーバランスで遅れを取ることはないはずだ」

「……つまり私に、解放戦線と敵対する一般人を殺して回れと言いたいの?」

「必ずしも殺す必要はないよ。期待する役割はあくまでも抑止力だ。旧人類に対する脅威の象徴となってくれさえすれば、それでいい」

 ひどい欺瞞だ。抑止力として機能するには、私には確かに人を殺す力と覚悟があるのだということを、わかりやすい形で大衆に見せつける必要がある。その過程で一滴も血が流れないことなんて、あるはずがない。

「何にせよ、話は大体理解してくれたかな。凛音には解放戦線に加わって、旧人類に対する最強の抑止装置になってもらいたい。それが私達の要求だ」

「断る、と言ったら?」

「だったら殺すまでだよ。自発的に活動に協力してくれるのがベストだけど、最悪、遺体が手に入ればそれで良いんだ。視線だけで人を殺せる最強の死神が、解放戦線の内側にいるかも知れない。その事実だけで、旧人類に対する最低限の抑止力にはなるからね」

「なるほど、賢明な計画ね。私を殺すことができればの話だけれど」

「私だって、何も本気で凛音が殺せると思ってるわけじゃない。私達の理念が受け入れられないというのなら、今すぐにでも私の首を刎ねれば良いさ。それで作戦が破綻するわけでもないからね。現状の面子だけでも、社会に対する最低限の脅威は維持できる」

「だとしたら、どうして誘拐なんてしてるわけ? 必要条件じゃないのなら、私のことなんて端から放っておけばよかったでしょ」

「自分の選択が物事の趨勢に直結していて当たり前、みたいな考えを持つのはやめなよ。大きなプロジェクトっていうのは、あってもなくても構わない些末な要素を無数に積み上げて成功させるものだ。必須だからではなく、あくまでも成功確率を上げるためにやってるんだよ。ま、結構な大口であることは否定しないけどね」

 質疑応答はこれでおしまい、とばかりに、凛音が再び銃口で私の額を軽く叩いた。

「さあ、選べ。生きて私達に協力するか、私を殺して監獄の中に戻るか」

 何が正しい選択で、何が誤った選択なのか。その判断に迷う要素は一切なかった。でも、正しい道を正しいというだけの理由で選び取ることができるなら、世界はこんなにも混沌としていない。

「その前に、一つ訊かせて。……一体、どこからが解放戦線としての任務だったの?」

「どこからも何も最初からだよ。任務でもないのに死神に近づく馬鹿が、どこにいるんだ」

 その一言で、迷いは消えた。

 私はおもむろに顔を上げ、真白の顔面を真っ直ぐに見据えながら、告げた。

「断る。私は、あなた達には協力しない」

 ……引き金は、まだ引かれない。

 しばし、無言の時間が続く。ざぁ、ざぁ、という定期的に鳴り響く不愉快な雑音だけが、時が確かに前に進んでいるという現実を私達に教えてくれていた。

 先に動いたのは私だった。結末は変わらなくとも、最後の最後に一矢報いるくらいのことはしてやってもいいだろう。

「近代国家は、合理化を突き詰めることで発展を遂げてきた。規律訓練も生権力も、どちらも物事の効率化を突き詰めた結果とした生み出された権力の形態の一つ。だけど、合理化の果てにあるはずの近代国家は、時として非理性極まりない大量虐殺に走ることがある。ナチスのユダヤ人虐殺や、アメリカの原爆投下が良い例ね。フーコーは、この逆説の原因を人種の概念に求めた。一つの巨大な有機体としての性質を持ち始めた近代国家は、自分達の純血を守るために不純物たる他の人種を攻撃し始めるのだと、批判した」

 本当のところを言うと、私にあなたを殺す気はない。あなたの望んだ通り、あなたの放った銃弾で脳を不可逆に破壊され、物言わぬ肉塊に成り下がってあげる。私の死をあなた達が都合よく利用しようが、後は野となれ山となれだ。

 だけど、最後に呪いを残してあげる。あなたが生きる寄る辺にしていた、ミシェル・フーコー。自らの生き様を正当化するために利用していた、ミシェル・フーコー。

 私はそれを使って、あなたという存在を根本から否定してあげる。

「異常知覚者という特定の集団を生かすために、他の集団に脅威を与える。それは、生権力から死の権力への転倒に他ならない。あなたは生権力から逃れるどころか、フーコーの指摘した生権力の悪しき側面に絡め取られているのよ」

 真白は、反論してこなかった。けれど銃口を持つ手が小刻みに震えていた。つまりはそれが結末であり、私達の取るに足らない論争のリザルトだった。

 私はさしたる優越感も勝利感も抱くことなく立ち上がり、静かに踵を返した。

「私は、あなたのようにはならない。異常知覚を人を殺すために使う気は、ない」

「綺麗事を言うのはやめろよ。人殺しは初めてじゃないくせに」

 ……え? 今、こいつは、なんて?

「センター運営開始後にあった、子供がPK能力で建物を倒壊させた事故。唯一の死者はその子供の母親で、死因は崩壊した天井による圧死ということになっている。だけど奇妙なことに、その母親の死体は首が真っ二つに切断されていた。そして何より、そのアパートの天井は木造だった。なあ凛音。あんたはとっくに、その力で人を殺してるんだろ?」

 ざぁ、ざぁ、ざぁ。耳障りなノイズの音が、消しゴムをかけるみたいに私の意識を漂白していく。そうして生まれた空白に、遠い昔の情景が朧気に浮かび上がった。

 記憶の登場人物は二人。幼い少女と、その母親。二人は、内陸の片田舎の木造アパートで暮らしていた。元々は都内に住んでいたのだけれど、父と離婚したタイミングで引っ越したのだ。辺鄙な土地を新天地に選んだ理由は多分、家賃や物価が安かったからだろう。

 私に異常知覚が発現したのは、引っ越しの直後だった。年表的には異常知覚症候群が公的に認定された時期で、つまりは風当たりが最も強かった時分に当たる。共同体的な側面の強い田舎においては、近所付き合いをしない若いシングルマザーの家系というだけでも色眼鏡で見られる。そこに追い打ちをかけるように、一人娘が異常知覚に目覚めたのだ。人並みに打たれ弱い母親が私を虐待し始めるまでに、そう長い時間はかからなかった。

 母の振るう暴力は、殴る、蹴る、投げ飛ばすの三種類。どれも直接命に関わるようなものではなかったし、喚いたところで余計に暴力が激しくなるだけのはわかっていた。私はいつも物言わぬ人形のように口を噤んで、嵐が過ぎ去るのをただただ待った。

 今でこそ世界でも有数のPK能力者である私だけれど、何も最初から強力な能力に目覚めていたわけじゃない。覚醒したばかりの頃は他のPK能力者と同様に、金属と結晶性のプラスチックくらいしか破壊することは不可能だった。死神としての力に目覚めたきっかけは、いわゆる臨死体験だ。

 その日、母親はいつにも増して疲弊した様子で帰宅した。あんたのせいで。あんたがいるから。そんな言葉を呪詛のように唱えつつ、母は操り人形のような足取りで私へと近づいてきた。顔色一つ変えることなく私のことを押し倒すと、首に手を添えてきた。ひどく遅々とした所作だった。ただ重力に従っているだけで力など一切込めてない、とでも言うかのような。だけど、徐々に狭まっていく両手の隙間が広がることは、決してなかった。

 私はこのとき初めて生命の危機を感じた。痛い。苦しい。助けて。ごめんなさい。いつもは平気ですり潰せていたはずの言葉が次から次へと喉元に込み上げた。でも口からこぼれでるのは、あ、あ、あ、という植物の茎を引きちぎったような間抜けな音だけだった。

 酸欠で視界がぼやける。五感で形成された世界が遠のいていく。加速度的に霞んでいく世界と入れ替わるようにして、視えるはずのないものが、鮮明に視えるようになっていた。

 そこにあるのは、線。線。線。線。線。いつの間にか、首を絞める母親の至るところに落書きみたいな無数の線が生えていた。薄れていく視界の中で、その線だけが暗闇に差す救いの光のようにくっきりと浮かんで視えて、私はつい、その光を指先で追いかけた。

 気づいたときには、生暖かい液体を全身に浴びていた。

 走馬灯のような回想が途切れ、意識が現実へと立ち戻る。どれくらいの時間、こうしてぼうっと突っ立っていたんだろう。まあいいか、どうだって。

 それより、問題はあいつだ。あいつは今、どんな顔をしてるんだろう。

 ゆっくりと、首を後ろに回す。するとそこには、幾つもの綻びで装飾された白羽真白が、挑発するような笑みを浮かべながら立っていた。

 殺してやりたい。明確な形を持った感情が、表層意識に装填されているのに気づく。

 でもそれは、今この瞬間に生まれ出たものじゃない。裏切りが判明した時点から、胸の底で煮えたぎり続けていた欲求だった。……そうだ。私はこいつを殺したいんだ。私のことを裏切ったこいつの身体を、滅茶苦茶に切り刻んでやりたくて仕方ないんだ。だって、それ以外にこいつとの時間を本物だと証明する術はないから。あんたにとっては全部嘘でも、私にとってその時間は奪われれば殺してやりたくなるくらいには大切なものなんだよって、思い知らせてやらなきゃ気が済まない。

 ひとたび言葉にしてしまえば、笑っちゃうほどあからさまな、――それは、殺意。

 にも拘わらず、その感情にただの今まで不感症でいられたのは、どうしてだろう。

 その理由には、すぐに気づいた。それはきっと愚かな、……とても愚かな理由だけれど。

 人を殺せる人間だとは、思われたくなかった、から。

 私のことを知ってほしい。私のことを受け入れて欲しい。共に過ごした時間が厚みを増していくに連れ、その欲求は耐え難いほどに募っていった。だけど同時に、それを恐れる気持ちも加速度的に膨れ上がった。真白に軽蔑されるのが怖かった。化物だと思われるのが怖かった。近づきすぎて、不用意に視線を送って、壊してしまうのが怖かった。

 だけど、そっか。知ってたんだ。知られてたんだ。最初から。全部。何もかも。

 なら、いいか。どうだって。

「ごめんなさい、真白。死んで」

 心が決まってしまったら、あとの作業は一瞬だった。

 牡丹の花が落ちるかのように、静かに、自然に、あっさりと。

 私の視線に合わせて白羽真白の首は切れ、地面へと落下する。

 ――はず、だった。

 切っ、た。私は確かに、真白の首の綻びを断ち切った。その感覚は確かにあった。なのに、依然として真白の首は繋がっていた。デュラハンみたいに首と胴体が別れた状態で生きている、なんてこともない。首筋を見てみても、切れるどころか傷の一つもついてない。いや、それ以前に、いつの間にか真白の身体の至るところから綻びが消えている――?

「……あー、死ぬかと思った。ぶっつけ本番でも意外と成功するもんだな、うん」

 一体、何が起こったというのだろう。茫然自失とする私に対し、真白は呆れたような、勝ち誇ったような苦笑を浮かべながら、「何を驚いているんだよ」と大仰に肩を竦めた。

「物を壊すという過程と、動画の逆再生のように壊れた物が修復される過程。この二つは、どちらも物理法則に反しない。だったら、首を切られた直後に全ての原子が奇跡的に切断の逆の過程を辿ったところで、何もおかしなことはないだろ?」

「冗談を言わないで。破壊に至る経路は無数にあっても、その逆の過程は数えるほどしかない。たとえ物理的に起こりうることであっても、確率的に実現するはずがない」

「それは、そっちのPK能力だって同じだろ。都合よく電子の存在確率が偏るなんて事象は、本来なら起こりうるはずがないんだから。私はそのイカサマの真似事をしただけだよ」

 イカサマの、真似事? ……多分、私は何か致命的な見落としをしている。思い出せ。真白は以前、自分の能力のことをどう説明していた? 世界関数を直に観測していて、その観測は量子レベルで、でもどこに観測を偏らせればPK能力のような確率操作ができるのかはわからない。それから、こうも言っていたっけ。自分の身体に関することなら、世界関数のどの辺りが対応しているのかわかることもある、と。

「まさか、PK能力による電子雲の偏りを自分の肉体上に発生させることで、量子的な確率操作に関わる世界関数の領域を、無理やり特定したっていうの?」

 愕然と問いかける私に対し、真白は不敵な笑みを浮かべることでイエスと答えた。

「私の首は一度、確かに切られた。でもその直後、全ての細胞が切断時とは逆の過程を辿ることによって、一瞬で結合し直したんだ。通常なら確率的に起こり得ない過程だけれど、私はその間、私の存在を量子レベルで観測し続けていた。私という観測者がいる限り、私の生存は逆説的に保証されている。通常なら実現しないはずの逆再生による治癒は、私に観測されているという状況の下では必然になるんだよ。勿論、こんなのは世界に対するイカサマだ。だけどPK能力は、量子レベルの観測による確率操作に実現してるイカサマだ。ズルがズルによって破られることには、何の不思議もないだろう?」

 確かに、理屈は通る。理屈は通るけれど……、そんな馬鹿げた話があるのだろうか。だけど現実として、首を切られたはずの真白は未だに五体満足で、その身体には綻び一つ視えない。きっと今も、自分の量子レベルの観測を続けているからだろう。真白が自分を観測している限り、私が真白を確率操作で殺害する、という事象は絶対に起こり得ない。

 というか、それより。今の真白の、毒気が抜けたかのようなあっけらかんとしたこの態度。まさか、こいつは。

「最初から、これが目的だったの? 解放戦線がどうのとか、無政府主義がどうのとか、そういうのは全部ハッタリで、身体から綻びを消すためだけに、こんなことを?」

「そうだよ。センターの中で実験をやろうにも、能力の使用許可が降りなかったからな。こうやって無理やり外に連れ出して、私を殺すように仕向けるしかなかったんだ」

 ケロリとした顔で頷く真白。私は、もはや言葉も出なかった。だから口を開く代わりに自らの意志で真白へと歩み寄り、その胸ぐらをぐっと掴んで、叫んだ。何も考えずに。

「馬っ鹿じゃないの⁉ 誰が、殺せない人間になって欲しいだなんて、頼んで……」

「別に、凛音のためじゃない。他でもない私自身が、凛音と、ちゃんと顔を見て話したかった。そのためにやったんだ。だからこれは、最初から自分のためだよ」

 そんな詭弁じみた言い訳をされたって、私の怒りは収まらない。人一人殺しかけた人間の気持ちにもなってみろ。声にならない声で、私は激しくがなり立てた。そんな私をなだめるように、真白が私の腕を無理やり引いて、廃工場の外へと連れ出した。

 目の前に広がっていたのは、果てのない深淵だった。深淵と地続きの夜空に浮かんだ月はいつも以上に大きくて、暗闇の上に太い光の筋を作っている。その光芒が微かに揺らめいているのを見て、私はようやく、それが海であることに気がついた。

 そっか。ざぁざぁというノイズは潮騒で、鼻を刺すような異臭は潮の匂いだったんだ。本物の海は初めてだから、気づかなかった。

 工場から少し歩くと、埠頭のように突き出した場所に出た。寄せては返す海水が、コンクリートの壁面に定期的に衝突し、音と飛沫を散らしていた。その様子を観察していると、「で、どうする?」と真白が声をかけてきた。「何が?」と訊き返すと。

「入らないの? この機会を逃したら、しばらく海に来る機会はないと思うけど」

 こんなメチャクチャな情緒のままで、海水浴なんてできるか。そう返してやりたいのは山々だったけど、目の端に微かに浮かぶ水滴を隠すには、海の中以上に最適な場所はなかった。私は一言「入る」とだけ口にして、夜の海に身を躍らせた。

 ザブン、という激しい音と、叩きつけられるような水の抵抗。全身が冷たい海水に包まれて、体の動きが重くなる。重力が浮力で打ち消され、身体にかかる束縛が一つ外れたような錯覚をする。うつ伏せの身体をどうにか一八〇度回転させて、空を見る。揺れる水面に、月光の作る光の柱。その先に見える、仄かな藍色を纏った暗幕。綻びがどこにも存在しない、完全なる静寂の世界。夢にまで見たその光景が、今、現実のものとなっている。

 だけどその景色は、巨大な水柱と無数のあぶくと共に人影が降ってきたことで完膚なきまでに壊された。一瞬、全裸で飛び込んできたのかとも思った。でも、違った。きちんと水着を着ている。多分、服の下に着てきたのだろう。ご丁寧に非晶質繊維のものだから、綻びが視えることもなかった。

 淡い月影を背に受けながら、ゆっくりと、真白が手を伸ばしてくる。その手を取ると同時に、私は見た。真白の腕を、肩を、腹部を、素足を。改めて全体像を眺めていると、その身体が思っていた以上に小柄なことに気付かされる。そういえば、私よりもだいぶ背が低かったっけ。最近はまともに身体を見ることがなかったせいで忘れてしまっていた。

 真白との距離が徐々に縮まる。焦点を身体全体から、頭部へと限定させる。栗色のショートヘアに、切れ長の鋭い双眸。ふと頬に傷がないか気になって、更に顔を近づけてみた。ああ、良かった。傷跡はどこにもない。でも、よく見たら微かにそばかすがある。そのことに今更気づくだなんて、何だかおかしい。

 そのとき、真白が急に私の肩を小突いてきた。抗議するような目つきで睨めつけてくる。頬が少しだけ赤らんでいるけれど、もしかして恥ずかしがってるのかな。確かに、ちょっと顔を近づけすぎたかも。だけど、ごめん。その気持ちには答えられない。だって私は、真白の照れた顔が見たいから。それだけじゃない。怒っている顔も、笑っている顔も、嫌そうにしている顔も、全部知りたい。もっと間近で見てみたい。

 私が頑なに顔面を遠ざけないせいか、真白が実力行使してきた。がんがん、と膝のあたりに軽く蹴りを入れてくる。水の中だから痛くはない。でも、地上のように地面が反動を吸収してくれることはないせいで、真白もろとも水中で回転する羽目になってしまった。

 そんなこんなで、しばしじゃれ合っていた私達だけど、忘れちゃいけないのは今が五月初頭の夜であり、ここが東京湾だということだ。当然、水温は長時間浸っていられるほどの温度には達していない。いつまでも海に入っていたら、二人揃って凍死してしまう。

 でも、問題が二つある。真白は金槌だ。私は着衣のまま海に入った。二十メートルほど先の砂浜まで泳いでいく作業がどれだけ困難を極めるかは語るまでもないだろう。

 這々の体になりながらも、私達はどうにか砂浜への復帰を果たした。一足先に立ち上がれるだけの体力を回復させた真白が、横になって倒れ込んでいる私の下へタオルと着替えを持ってきた。その他にもバーナーや水などを持参していたらしく、私達は砂浜でお湯を沸かしてインスタントのスープを飲んで、冷えた身体を内側から温めた。

「それで、後始末はどうするつもり? センター内での無許可発砲に、ウェアラブル端末の破壊。それから患者の無断連れ出し。どれも重罪だと思うけど」

「大丈夫だよ。脱走はセンター内の規律や一般的な不文律には反するけれど、法律で罰せられるわけじゃないから。薬莢と銃弾は回収してるし、銃も後で廃棄する。脅迫の件についても、凛音さえ黙っていてくれれば誤魔化せる。どうにかなるよ」

「そんなに上手くいく? きっと最初から最後まで――」

 公安に見られてたんじゃないの、なんて言葉が脳裏をよぎる。だけどすぐに、その思考を脳内から追いやった。規律訓練。不可視化された監視者こそ、管理社会における権力の在り方だ。そんな意識に、この素晴らしいひとときを邪魔されるのは嫌だった。

 何でもないと言葉を切って、また別の話題を出した。

「そういえば、フーコーが言ってたっけ。生権力への抵抗を成しうる唯一の手段は身体と快楽――つまり、各々が個人の欲望の解放に積極的になることだって。生身の身体で海に入る権利や真夜中にツーリングをする自由を私が主張すれば、多少は罪も軽くなるかもね」

 真白からの返答はなかった。ちょっとだけ呆けた顔で、まじまじと私のことを眺めている。怪訝に思って、「何?」と小首を傾げると。

「いや。凛音もすっかり、フーコー的な思考が板についてきたなって」

 嬉しそうに言いながら、真白が子供じみた笑みを浮かべた。満月の光を浴びたその笑顔は息を呑むほどに美しくって……、私はほんの少しだけ、泣いてしまいそうになった。

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命に至る門狭く 赤崎弥生 @akasaki_yayoi

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