宮沢賢治(岩手県)

 新花巻駅に着いたのはまもなく一五時になる時分だった。駅スタンプはSL銀河のものと、「賢治のふるさとイーハトーブの花巻へようこそ」花巻鹿踊りの二種類がある。イーハトーブというのは宮沢賢治の造語で、岩手県をモデルにした心象世界の理想郷を指すものらしい。SL銀河も宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に由来するものなので、花巻の地にとって宮沢賢治がどれだけ大きな存在かがわかる。大谷翔平にまつわる展示などもあり、駅に来て初めてかかわりを知るものも多かった。駅はその街の玄関口であり、その街を端的に表しているようだ。時間が許すならば、観光案内マップや展示まで細かく見ておきたいものである。

 やや大荷物だったので、コインロッカーに荷物を預けようとしたが、小銭が足りなかった。駅員さんに両替をお願いすると、快く対応していただけた。芳しくない対応をされることも少なからずあるので、こうして対応いただけたことは意外だった。こういった出来事ひとつで、街に対する印象は格段に良くなる。

 目的の宮沢賢治記念館へは徒歩で向かう。道中にも、宮沢賢治の作品をモチーフにしたオブジェクトがいくつかあるためだ。街の雰囲気に惹かれ、より噛みしめてみたかったからというのもある。二キロほどの道のりで、実際に二匹の二足歩行猫が並んでいるなどあった。後で調べてみると、「グスコーブドリの伝記」という映画に登場する猫であることが分かった。気温も落ち着いてきて、歩いていて気持のよい時間帯だった。

 宮沢賢治記念館は小高い丘の上にあり、少々頑張って階段を上る必要がある。三六七段あるらしく、木製の屋根付きの階段で、雨の日はどのような様相になるのか気になった。階段一段一段に「雨ニモマケズ」の詩が書かれていた。しかし文字数が足りておらず、間に合わせのような言葉で最後を締めくくられていた。

 丘の上はちょっとした広場になっており、山猫軒と宮沢賢治記念館が建っていた。猫モチーフの看板がいくつかあり、営業中の「中」の字が猫の尻尾のようになっていたりと味があった。食べられる覚悟をもって店内に立ち入るも、レストランとお土産屋さんが併設されたスペースがあるのみ。

 時間もないので「宮沢賢治記念館」の方にも足早に出向いた。記念館では「猫の事務所」の二匹の猫が出迎えてくれた。どうにも怪しい目をしていて、こちらにも胡散臭さが漂っている。触れることを禁じられていたが、触れてしまえば何か異なる禁忌に触れるような予感もあった。

 中には手帳や名刺など、創作意欲を掻き立てられるものが多く並んでいた。鉱石や植物など様々な分野に関心があったようで、スケッチなどたくさん残していた。何もかもすべて創作の肥やしだ。世界をめぐってみたことのない景色を創作に取り込んでいくのも魅力だが、一つの場所に向き合って、そこに別の世界を見出して創作の裾野を広げていくのもまた一つのものづくりへの眼差しなのだと学んだ。

 生原稿も魅力的だった。個人の字が並んだ創作物は、その人そのものの生き写しのようで、深い息遣いと未だ凍えぬ体温とが同居しているように感じられる。キーボードを打鍵して、いつでも気軽に修正できる状態で、いつでも気軽に複製、添付できる状態で物を作っていくのに慣れてしまったが、幼少期のように、紙に書いて、ざっくばらんに心象世界を表現していくような創作にも、今やあこがれを抱く。手で物を書く文化が自分の中から廃れていくことに一抹の寂しさを感じる。手帳をぎっしりと埋め尽くしていた日記もデータになってしまった。物を書くことにこだわって、何か一つ作ってみたいと思えた。

 博物館や美術館に行くことは、たとえ自分に知見がなく、見も知らぬ文化であっても、何か一つは気づきが得られるものだ。「宮沢賢治記念館」も、また楽しい場所であったように思う。

 時間を有意義に溶かしてしまったので、近くにある「宮沢賢治童話村」は閉館の時間になってしまっていた。泣く泣く帰路につく。

 SL銀河や宮沢賢治童話村など、まだ観光できていない場所は多くある。この花巻の地を再び訪れる日も、遠くはないだろう。


@2022.5_岩手_宮沢賢治記念館

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四七 ちい @cheeswriter

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