後編
ガラスを踏む音が聞こえ、響子は顔を上げた。
いつの間にか眠っていたらしい。ずいぶん長いこと寝込んでいたのか、窓の外は薄明りが差しており、嵐は過ぎ去った後だった。
痛む節々に顔をしかめつつ、大きく伸びをする。全身に血が行き渡る感覚にほっと息を吐いたとき、階段の下からこちらを見上げる湊と目が合った。
「マジかよお前、この状況でよく寝れたな。逞しい通りこして凄まじいわ」
「なんで西山君がここに?」
「話すと長いんだけど……まぁ簡単に言うと、階段が嵐で崩れたから、俺が代表で様子を見に来た。これでも一応、運動神経良いから」
「へぇ、意外」
「……体育の授業で結構活躍してるんだけどな」
ため息交じりにそう言って、湊は螺旋階段を上って響子のもとまで来ると隣に座った。階段は狭く、触れた肩から体温が伝わってくる。
湊がゆっくりと、言葉を選びながら昨日の夜のことを話しだした。
最初に響子がいないことに気づいたのは、祖母だった。旅館の中を従業員と一緒に探し回り、学校にも連絡を入れた。
すでに嵐は激しくなっており、強い雨風の中を教職員と旅館の従業員たち総出で捜し歩く。響子が行方不明だと知れ渡るのに、それほど時間はかからなかった。
山に入ってしまったのか、それとも海に落ちてしまったのか、もしかしたら誰かに連れ去らわれてしまったのかもしれない。昨今の犯罪は、のどかな田舎町にも魔の手を伸ばしていると聞く。時間が経つにつれて、悪いほうへと想像は向かっていった。
警察に連絡を入れたほうが良いという意見が出始めたとき、駄菓子屋のおばあさんから響子が灯台に行く姿を見たと言う情報が入った。ずっと見ていたわけではないからわからないが、もしかしたらまだ戻ってきていないのかもしれないと言う。
時を同じくして東京の両親から、響子が灯台にいるようだと連絡が入った。灯台と言う一言以降連絡の取れなくなった響子を心配して、春奈が両親に伝えたらしい。
天候は外出するのもはばかられるほどに荒れ、雷雨になっていた。稲光が周囲を鋭く照らし、強風に巻き上げられた海水と雨が混ざりながら細い階段に叩きつけられている。
森の中を迂回する道もあるが、この悪天候の中、自然にかえりつつある獣道を歩くのは得策ではない。警察や消防に連絡しようにも、今回の嵐はそこかしこで猛威を振るっており、いつ到着できるのか分からないと言う。
ヤキモキしながら待っていたが、嵐が去るほうが早かった。
「それで、水森さんはなんでここに来たの?」
話し疲れたのか、湊の横顔に疲労がにじむ。もしかしたら彼も、大人たちと一緒に一睡もできないまま朝を迎えたのかもしれない。
「何となく……嵐の中、独りぼっちなのがかわいそうな気がして。守りたかった……のかもしれない……」
何故灯台に来たのかと聞かれても、響子は上手く言葉にすることができなかった。
響子の周りにある問題の全てが、正常に処理できないまま心の中にたまり、グチャグチャに絡み合っていた。見捨てられ、朽ちるだけの灯台に自身を重ねたのかもしれない。
「守りたかった、ね。……俺たちは全員、灯台に祈ってたよ。どうか水森さんを守ってくださいって」
かつて海に出た人々を守ったように、今度は一人の少女を嵐からお守りくださいと、必死になって祈っていた。
「クラスの奴らさ、後悔してたよ。もっと水森さんと話せてれば良かったって。どう声をかけて良いか分からなくて、距離を取ってしまった。そのせいで水森さんが悩んでいることに気づけなかったって」
強風が轟音を伴って灯台にぶつかっていく。横殴りの雨に、時折雷が近くに落ちる。
そのたびに、見守る人々の口から悲鳴が上がった。何年も使われていない灯台は、崩れないとも限らなかった。
我慢ができずに、森を突っ切ってでも灯台に行こうとする人を、誰かが止める。海に出た人々を守り導いてくれた灯台は、きっと今回も響子を守り切ってくれると、祈っていた。
「東京から両親も来てるって。湯原さんって女の子と一緒に。あちこちで通行止めにあって、四苦八苦してるみたいだけど」
「嘘でしょ?」
慌ててスマホの電源を入れれば、何十件ものメッセージと不在通知が表示される。
どういう経緯で広がったのかは分からないが、春奈以外の友達からもメッセージが届いていた。響子を案じる膨大な言葉の中、春奈のメッセージが目に留まる。
「逃げちゃえ、そんな場所。みんな放り出して、私のところに来なよ。私は絶対に響子ちゃんの味方だから!」
春奈の言葉に、忘れていた記憶が蘇る。
これは、響子が春奈にかけた言葉だ。
辛いなら逃げろと言ったのだ。春奈を苦しめるだけの場所に、価値なんてない。全部投げ出して、逃げて来いと。
春奈のいた場所は、彼女がいるべき場所ではなかった。でも、響子はどうだろうか。
馴染めないのは、誰のせいなのだろうか。孤独になっていたのは、誰のせいなのだろうか。
歩み寄る努力をしなかったのは、今いる場所と向き合うこともせず、過去にばかり執着して勝手に孤独になっていたのは、いったい誰なのだろうか。
「怪我してないなら、町の皆が心配してるからもう行こう。そろそろ、崩れた階段に挑んで怪我する人が出そうだ」
差し出された手を取ろうとしたとき、血がにじんでいることに気づいた。湊が自身の手のひらを見て、小さく「あぁ」と声を上げる。
「多分、入るときにガラスで切ったんだ。まあ、ちょっと切れただけだから大丈夫」
反対の手を差し出され、響子は素直に取った。立ち上がり、握った手に力をこめる。
「水森さん?」
「私は……入るときに、怪我なんてしなかったけどね」
悪戯っぽい笑顔を浮かべてそう言い、胸元のリボンを解く。突然喧嘩を売られた湊が眉根を寄せた。響子は彼の手を離し、血がにじむ反対側の手のひらにリボンを巻き付けた。
「……汚れるよ?」
「いいの」
「でも……」
「いいのっ!」
ジワリとリボンに血が滲み、濃く色を変える。湊が何かを言おうと口を開くが、言葉は何も出てこないようだった。
「リボンなら、別なのがあるから、良いの」
「そっか……」
湊がふわりと微笑み、無傷の方の手で響子の頭をポンと柔らかく撫でる。
あまりにも優しい笑顔を前に、響子は息を止めた。
胸の奥深くからキュンと、何かが始まる音がした。
孤高と孤独 佐倉有栖 @Iris_diana
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