中編

 東京の高校は、入学する二年ほど前に大規模な建て替えをしていたため、かなり近代的な造りをしていた。広い廊下には各部活のトロフィーが飾られ、学食の壁には卒業生が描いた壁画が飾られていた。中庭の花壇は季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れ、憩いのスポットだった。

 響子は懐かしい校舎を思い出しながら、茶色く変色したセロテープが貼られた壁を睨みつけた。剥がすときに雑に引っ張ったのだろう。セロテープの中には、かつて貼ってあったポスターの角が取り残されており、こちらも色が変わっていた。

 年代物の机は脚の高さがあっていないのかガタガタしており、何年前の先輩の仕業かは分からないが、歪なハートが彫られていた。ハートの隣には、歴代の所有者たちが地道に掘り進めたと思しき穴が開いており、消しゴムのカスが詰まっていた。


 授業の進行度も遅く、教師の教え方もモッサリとしていた。教科書をただ読んで板書していくだけの授業に、どれほどの価値があるのだろうか。

 パっとしないクラスメイト達に、田舎特有ののんびりとした空気。その全てが、響子を苛立たせた。

 転校初日から、響子は彼らと関わらないと決めた。どうせここにいるのも、あと一年半くらいだ。大学生になったらまた東京に戻って、もう二度とこんな田舎には来ないだろう。

 そんな響子の態度に、クラスメイト達も早々に仲良くなることは諦めたようだった。

 東京から来たいけ好かない転校生。そんな評価も、響子にとっては痛くもかゆくもなかった。


 部活にも入らないと決めていた響子は、放課後になるとすぐに荷物をまとめ、誰よりも早く教室を後にした。足早に校舎から出て、旅館とは反対の方角につま先を向ける。

 あの学校から一刻も早く出たかったが、旅館に帰りたいわけでもなかった。

 旅館の人々は、響子を歓迎してくれた。祖母も口には出さないながらも、響子の境遇に同情しているのが分かった。出来る限りのことはしてくれているのだが、旅館は常に忙しかった。毎日ほぼ満室状態で、忙しく走り回っている彼らの手を煩わせたくはなかった。

 響子は羽島旅館が嫌いではなかった。しかし、傷心の響子にあの場所は少々にぎやかすぎた。


 一人になりたくて、あてもなく歩く。どうせそこまで大きな町ではない。たとえ迷子になってしまっても、山道にさえ入らないように気を付けていれば大丈夫だろう。海沿いの道に出てしまえば、旅館がどの方角にあるのかは見てわかる。

 半分以上シャッターが下りている商店街を抜け、畑を通り過ぎ、曲がりくねった住宅街を歩く。何度か袋小路に入っては引き返しながらもたどり着いた先は、海沿いの道だった。


 傾いた陽が、水平線を黄色に染めている。空には白い三日月がボンヤリと浮かんでおり、その近くでは一番星が輝いていた。

 今日の海は比較的穏やかだった。波の音も優しく、ジっと聞いていると眠くなってくる。

 欠伸を噛み殺し、そろそろ帰ろうと旅館の方角を確かめようとしたとき、視界の端に白い灯台が映った。

 紫色に染まりつつある空に白く浮かび上がった灯台は、もう使われていないのか、光はともってはいない。よく見れば外壁は灰色に汚れており、灯台に続く細い階段は崩れている箇所がある。


「あんたが東京から来たって言う、羽島さんのところのお嬢さんかい?」


 不意に後ろから声をかけられ、響子は飛び上がった。

 振り返れば、白い割烹着を着たおばあさんが人の良さそうな笑顔を浮かべて立っていた。ニカリと大きく開いた口の中で、銀歯が輝いている。


「……はい、水森響子って言います」

「あぁ、そうだったそうだった、香乃子ちゃんは水森さんになったんだね」


 香乃子は、響子の母親の名前だ。

 またすぐに羽島に戻ると思うとは、言わないでおいた。響子だって、もしかしたら羽島響子になるかもしれないのだ。


「それで、羽島さんのところのお嬢さんが、こんなところまでどうしたんだい? 喜代さんから、何か頼まれたのかい?」


 おばあさんの後ろには、銀杏駄菓子屋と看板のかかったお店があった。薄く開いた引き戸の先には、テレビでしか見たことのないような古き良き駄菓子屋の光景があった。

 東京にも駄菓子屋くらいあるのだが、残念ながら響子の活動範囲にはなかった。店内をよく見たい衝動にかられるが、響子は首を振った。


「いいえ、ちょっと気分転換に散歩をしていて」


 そう言って、目が灯台の方をむく。すでに役目を終えてオブジェと化しているだけの建物にもかかわらず、響子の興味を強く引き付ける何かがあった。


「あの灯台が気になるのかい?」


 響子の視線の先に気づいたおばあさんが、不思議そうな顔で尋ねる。

 素直に「はい」と頷いた響子を見て、東京の子は変なものに興味があるのねとでも言いたげに肩をすくめた。


「ただの使われなくなった灯台だよ。使われてた当時は、夜に海に出た人があの光を見ると、ほっと安堵したって言うけどね。今となっては誰も寄り付かない、ただの廃墟だね。あそこの階段も、いつ崩れるか分かりやしない。今はまだギリギリ使えているけど、天気が悪いときは近づいたらいけないよ」


 まあ、天気が良くとも誰もあの階段は使わないけれどと、おばあさんは大きな口をあけて笑った。

 響子もつられて微笑んだが、内心では少しも笑えなかった。


 灯台の光は船乗りにとって、なくてはならないものだったはずだ。暗闇に差す一筋の光は、海上に敷かれた救いの道標だった。光の先にいる家族を思い、心癒された人がどれだけいたのだろうか。灯台の明かりは、希望の光だった。

 それなのに、今は誰からも顧みられることなく、朽ちるに任せて佇んでいる。嵐が来れば強風の中取り残され、たった一人で耐えなくてはならない。


 響子のポケットで、スマホが震えた。東京の友達が、新しく出来たパフェ専門店で映えると噂の特大パフェを頼んだ写真だ。見知った五人が生クリームやアイスに悪戦苦闘しながら食べ進めている様子が、時間経過ごとに見て取れる。ムービーも別で見られるようだが、響子はスマホをしまった。

 今でも彼女たちとは、SNSで繋がっている。響子がメッセージを送れば返信は来るが、徐々に疎遠になってきているのが分かる。毎日のようにやり取りをしていた昔が懐かしい。あれほど学校で一緒の時間を過ごしたのに、尽きることのなかった話題はどこにいってしまったのだろうか。

 今でも昔と同じ頻度でやり取りしているのは、小学校からの友人の湯原春奈だけだった。




 一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、響子が学校に慣れることはなかった。

 クラスメイト達は響子の頑なな態度を前にしても仲間外れにするようなことはなかったが、腫れ物扱いだった。必要最低限の交流さえあれば良いと、響子は開き直っていた。

 旅館も相変わらず忙しく、にぎやかな宴会場の声は響子を孤独にさせた。楽しそうな雰囲気に触れるだけで、相対的に自分の惨めさが際立つようで嫌だった。

 SNSを見れば、華やかな大都会で友人たちが青春を謳歌しているのが伝わってくる。毎週のように話題のスポットに行き、映えるもので埋め尽くされた毎日を過ごしているようだ。


 両親からは週に一度、様子をうかがう連絡が来るが、ただ単に保護者として最低限の義務を履行しているだけだろう。そうでなければ、こうも狙ったように隔週で双方が連絡をしてくることはないはずだ。

 今の響子を支えているのは、胸元を彩る東京のリボンと、二週間に一度の頻度で更新される春奈の小説だけだった。


 春奈は昔から文章を書くのが得意で、今では投稿サイトに作品を載せていた。ファッション雑誌以外の本をあまり読まない響子も、春奈の話だけは欠かさず読んでおり、更新を心待ちにしていた。


「今日の夕方くらいに、最新話アップするから!」


 春奈からそんなメッセージを受け取ったのは、どんよりとした雲が空を覆い隠している朝だった。分厚い雲間から見える日差しは弱く、いつもよりも湿った風は、午後からの天気の急変を予感させた。

 響子は「楽しみにしてる!」とだけ送ると、学校へ向かった。

 教室は、夕方から夜にかけて嵐がやって来ると言う話題でもちきりだった。天気が酷く崩れる直前、なぜか人は興奮する。生存本能がそうさせているのかは分からないが、いつもよりもテンションの高い生徒たちを前に、担任が教卓をトントンと叩いて注意を促した。


 これから席替えをすると言う厳かな宣言に、先ほどとは違った興奮が教室を駆け巡る。

 響子は一番後ろの席になることを祈ってくじを引き、無事に窓際の隅っこを手に入れた。前の席はクラスで一番大人しい女の子が座り、隣の席はクラスで二番目に大人しい男の子が座った。

 響子は内心でガッツポーズをすると、隣の席の西山湊に「よろしくね」とだけ素っ気なく挨拶をした。


「こちらこそよろしく」


 心地よい低音で挨拶を返した湊の視線が、響子のリボンの上でとまる。


「ずっと気になってたんだけどさ、なんで水森さんは違うリボンをしてるの?」

「よく気づいたね、今まで誰にも言われたことなかったのに」

「みんな気づいてるけど、言わないだけだと思う。だって明らかに、一人だけ色が違うから」


 このリボンは、響子が東京で過ごしていたと言う印だった。華やかな都会で、誰もが憧れる学校に通っていた、その証明だった。

 しかしそれは結局のところ、他の場所ではただの仲間外れの印にしかならない。リボンが違うことにみんなが気付いていながら、誰もそれを口にしなかった。

 だって響子は、仲間ではないから。

 孤高と孤独は違う。響子は自ら進んで孤高を選んだと思っていたのだが、実際はただの孤独だった。




 時間が経つにつれて、空模様は悪化していった。

 早く帰るようにと言う担任の言葉を右から左に聞き流し、響子は生ぬるい風の中、かつては光り輝いていたはずの灯台につま先を向けた。

 遠い空には黒々とした雲が水平線の果てまでも繋がっており、時折中で閃光が見える。湿った海風は濃い潮の香りをまとい、ベッタリと全身を包み込んだ。


「羽島のお嬢さん、どこに行くんだい?」


 駄菓子屋からおばあさんが出てくる。響子の視線の先にあるものに気づき、険しい表情に変わる。


「これから天気が悪くなる。灯台に行きたいなら、また今度、晴れた日にしなさい」

「少し見て、すぐ帰ってくるので」


 長年使われていない階段はいつ崩れてもおかしくないのだと背後から警告が聞こえるが、響子は無視して走り出した。

 崖面を削るようにして作られた細い階段は、遠くで見るよりもかなり劣化が進んでいた。端に体重をかければ、ボロボロと崩れてしまう。響子は慎重に階段を上り、灯台の正面に立った。

 かつては真っ白だった灯台は、ところどころ赤茶色の錆が浮かんでおり、全体的に灰色になっていた。どこかの悪ガキがスプレーで描いた落書きが、背の高い雑草の合間から見える。

 入口はしっかりと鍵がかかっていたが、ガラスが割られた窓から中に入ることは出来た。


 響子はガラスの破片に気を付けながら中に入ると、ガランとした内部を見渡した。空気は埃っぽく、朽ち果てた机には苔が生え、どこからか飛んできた雑草の種がわずかな砂を見つけて花を咲かせている。

 塗装の禿げた螺旋階段を慎重に上り、小さな窓の前で足を止める。汚れて曇った窓は外の風景を白くぼかしており、錆びた鍵に苦戦しながら窓を開ける。

 いつの間にか、雨が降ってきていた。空に稲妻が走り、一瞬だけ辺りを照らす。うねり始めた海は黒々としており、一拍置いて聞こえた雷鳴は微かに地を揺らした。

 スマホが電子音を上げ、響子は黄色く光るランプを見つめた。

 どうやら春奈の小説がアップされたらしい。響子は螺旋階段に座ると、最新話をじっくりと読んだ。


 春奈が書いているのは、いわゆる異世界転生のお話だった。イジメられていた主人公が自身の死によって異世界に転生し、そこで出会った仲間と共にスローライフを送ると言うお話だった。

 響子とは別の中学に行った春奈はそこでイジメにあい、学校に行けなくなってしまったと聞いている。最初に春奈から、小説を書いたから読んでほしいと言われたとき、あまりにも重苦しい展開で不安になった。

 もしかしてこれは春奈の遺書なのではないか? そう危惧したのだが、徐々に加速していく内容は面白く、今では明るい話が多くなってきた。今回は、仲間と一緒に虹色のキノコを探して森に分け入る話だった。コミカルな描写が多く、ついつい笑ってしまう。

 響子は早速春奈に感想を送った。すぐにお礼が返ってくる。


「読んでくれてありがとう! また次も頑張って書くね。ところで、そっちは警報が出てるみたいだけど大丈夫?」

「多分、大丈夫だと思うよ。あそこは塀も高いし」

「響子ちゃん、今どこにいるの?」


 あそこと言う一言から、響子が旅館にいないことを悟ったらしい。さすがは作家だと苦笑しつつ、迂闊だった一言を後悔する。誤魔化そうか悩むが、春奈は嘘については人一倍敏感だった。きっと、響子の思い付き程度の嘘ならすぐに見破ってしまうだろう。


「灯台」


 響子はそれだけ送ると、スマホの電源を落とした。電池も残りわずかだったし、もうこれ以上誰とも話したくなかった。

 膝を抱え込み、目を閉じる。頭の中に、何度も読んだ春奈の小説が思い浮かぶ。

 苦しみを凝縮したような重苦しいだけの話。主人公の葛藤や苦悩、絶望的な孤独が、嫌と言うほど書き連なっていた。あの時はただただ春奈のことが心配なだけだった描写も、今となっては共感ができる。

 あの話を読んだとき、響子は春奈になんと声をかけたのだろうか?

 今となっては思い出せない自分の言葉が、今の響子には必要だった。

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