孤高と孤独
佐倉有栖
前編
広間から聞こえる陽気な宴会の声に、水森響子はため息をつくとイヤホンを耳に押し込んだ。
スマホのアプリを開き、曲の一覧に親指を滑らせて適当な音楽をかける。抑え気味だったボリュームを、ゆっくりと上げて行く。
アップテンポな曲が、現実の音をかき消していく。
響子は問題集を閉じると、クローゼットにぶら下がるグレーのセーラー服に目を向けた。
先月まで通っていた東京の学校もセーラー服で、お洒落なセピア色をしていた。家から少し遠い私立校だったが、制服に一目惚れして受験した。
響子の学力では難しい学校だった。でも、一年間色々なことを我慢して、必死に勉強してやっと入学できた。
受験番号を握りしめ、何度も確認して歓喜したあの瞬間を、今でも覚えている。辛かった受験生活の終わりは、例年よりも早い桜の開花宣言と同じ日だった。
閉じていた目を開ける。目の前にあるのは、憧れていたセピアのセーラー服ではない。
(ダサい制服。これだから田舎は)
内心で吐き捨てる。
シックな色合いのグレーは上品で、十分すぎるほどお洒落なのだが、それを認めたくはなかった。
手を伸ばし、制服の胸元から赤いリボンを取る。東京のセーラー服も、リボンは赤だった。
綺麗にしまい込んでいた東京の制服を取り出し、リボンを見比べる。少しだけ色味が違っているが、こうして並べて見ないと分からないだろう。
響子は東京のリボンを新しい制服の胸元に飾ると、田舎のリボンをグチャグチャに丸めて床に叩きつけた。
響子の両親は、彼女が物心ついたころからすでに仲が悪かった。
医者の父と大学教授の母。双方優秀ではあったがどちらも頑固で、自分の考えが絶対に正しいという自信に満ちていた。
譲歩と言うものを知らない二人は、何かにつけて対立した。恋人ならば多少の喧嘩も日を置けば収めることができたが、同じ家に住む家族となると話は別だった。
響子が成長するにしたがって日に日に苛烈になっていく夫婦喧嘩に、離婚と言う二文字が現実に迫っていた。
最初は不仲な両親に心を痛めていた響子だったが、中学に入るころには諦めの境地に達していた。両親が今後、関係を修繕することはない。響子が考えるべきは、両親の仲を取り持つことではなく、離婚した際にどちらについていったら良いのかということだった。
どちらを選んだとしても、響子の生活が大きく変わることはない。そう思っていたからこそ、母親の言葉を理解するのに時間がかかった。
「響子、あなたはおばあちゃんのところに行きなさい」
不意にそう告げられたのは、ゴールデンウィークも半ばに差し掛かったときだった。
お風呂から上がったばかりの響子はアイスを探している最中で、お目当てのレモン味を見つけると口に入れた。
「良いけど、明後日でも良い? 明日は日名子と約束があるの」
「そうじゃないの。一日二日の話じゃなくて、暫くの間行ってほしいの」
「暫くって、どれくらい?」
祖母の喜代は、大きな旅館の女将だ。羽島旅館と言う地元では有名な場所で、芸能人や政治家も泊まりに来るような高級旅館だった。
響子もたまにお手伝いに行っていた。忙しい時期や、突発的に人が足りなくなったときに皿洗いをする程度だが、なかなか重宝されていた。
「……あのね響子、お父さんとお母さんには話し合う時間が必要なの」
それが前向きな話し合いではないことは、母親の顔を見ればわかった。
とうとう離婚するんだ? と言う言葉が喉元まで出かかるが、なんとか飲み込む。
二人の間に沈黙が降り、母親がため息にも似た深呼吸を繰り返す。何か言いにくいことがあるとき、彼女はいつもこうやって息を整えるのだ。
「それにね、お父さんもお母さんも、これから忙しくなるのよ。仕事の都合で出張に行ったり、何日も家を空ける可能性もあるの」
今までは家族としての体裁を保つためにも、どちらかが無理やり都合をつけていたのだろう。離婚を視野に入れた今、家族のために自身の仕事を手放したくないのだ。
「響子には、高校を卒業するまではおばあちゃんの家にいてほしいの。あそこなら、近くに高校もあるし、響子の学力なら編入試験も問題ないと思うし……」
「何言ってるの? 去年せっかく頑張って入った学校なのに」
「響子には悪いと思うんだけど……」
悪いとは思ってもいない口調で言われ、頭にカっと血が上る。
「あと二年もないじゃん! それくらい待ってよ!」
「ごめんね響子、もう待てない」
「なら、別にお母さんたちはいなくても良いよ。出張でもなんでも行きなよ。私は一人でも大丈夫だから」
「この家も、いずれ引き払うことになるのよ」
「一人暮らしするから!」
「響子、我儘ばかり言わないで」
我儘を言っているのは、どちらなのだろうか。
この高校に入りたくて、どれほど響子が頑張ったのか知っているはずなのに。やっと高校生活にも慣れ、今年は学園祭や修学旅行など、楽しみなイベントがたくさんあるのに。
「一人暮らしは、大学生になったらね。高校生のうちは、まだダメ」
食べかけのアイスが溶け、ボタリと音を立てて足元に落ちる。
きっと両親はもう、壊れてしまった家庭のためになにもしたくないのだろう。時間を浪費することも、保護者としての責任を負うことも。
今までさんざん家庭のために犠牲になってきたのだから、今度は響子が犠牲になる番だ。
母親の目は、そう訴えているように見えた。
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