第4話:ロースター

入居者が入って賑やかになると思っていた俺の新生活は、なんの変化も起きなかった。

冬季とうきくんはいる様でいないし、実質住んでいるのは甥のえくぼのみ、何にも変わったことは無い。

だが、今日は午後から1人内見の予約がある。少しは賑やかになるだろう。

シェアハウスと母屋の間にある庭に、物干し台を出して洗濯物を干していると、チャチャチャチャチャ・・・・と鋭い爪音が近づいてくる。あいつは目敏くやってくる。

隣の愛犬、柴犬のシバ太だ。

お隣の早川はやかわさんは、早くに同居していた息子夫婦が亡くなり、お婆ちゃんと孫夫婦の2世帯で暮らし始めた。だが、最近ばあちゃんが入院して孫夫婦と中学生の娘、そして飼い犬の3人と1匹になった。

広い敷地に囲いをして、午前中は放し飼い状態になるシバ太は何回顔を合わせても俺に懐かない。だが、犬が懐く事がご近所関係の全てではない。大切なのはお互いがちょうど良いテリトリーで過ごし、負担の無い関係を築くこと。俺はあいつの本名も知らないが、互いの名前を知ったところで、犬と呼び合う事もない。

パンパンと態とらしくタオルを音を立てて広げ、その隙間から隣を見ると、つぶらな瞳と目が合った。途端に「ウルルルルル・・・」と低く唸りながら茶色い鼻の頭に皺が寄る。

負担のない関係。

俺はそれを大切にしたいのだが、こうも毎回あたかも俺がシバ太の陣地を侵したような態度を取ることは解せない。

「よう、シバ太」

「グルルルルルル・・・」

「良い朝だな」

「・・・・!」

友好の証に歩み寄ってみたら、砂埃をあげて向こうへ行ってしまった。

遠くだと吠え、近づくと唸るだけで吠えない。ただのルーティンワークなのか、見つめ合うと素直におしゃべり出来ないのか。

寂しさを隠してタオルを干していると、急に冬季君の部屋の窓が開いた。

彼はスケジュール上、殆ど月曜日にしか来ない。今日は水曜日だから家主が居るはずのない部屋の窓が開いた事にギョッとしてそっちを見ると、えくぼが顔を出して呆れた声で挨拶をした。

「おはよ」

「ああ、おはよう・・・・えくぼ、お前」

「冬季さんに頼まれたの。部屋に空気がこもるのが嫌だから、たまに窓を開けて風を入れて欲しいって」

「そうなのか。プライベートも何もあったもんじゃないな」

「俺が信頼されてるの」

バンバンっと胸を手の平で叩き、えくぼは薄く目を閉じて俺を見下した。

素直に悔しい。

更に言うと、プロバスケットプレイヤーである冬季君を住まわせる程のセキュリティが無いことでかなり俺は頭を悩ませたのに、本人は初見の大学生に家の鍵を預ける程に呑気。想像する心配事の殆どは起きないと偉い人は言うが、ただの俺は想像しうる心配事の全てが気になって明日を迎えるのが不安な夜もある。

気休めにもならん言葉より、未来を確認できるドラえもんのタイムテレビが欲しい。

「今日、内見1人来るからな?13時だ」

「冬季さんの事は?」

「聞かれない限りは黙っておく。九鬼くきさんともそう話している」

「ねぇ、おじさん」

部屋の窓枠に肘をついたえくぼは、まるで自分の部屋みたいに黒いカーテンのドレープをいじる。

「シェアハウスのコンセプト変えてさ、全面的に打ち出さない?」

色素の抜かれた金髪の前髪を指でくるくると巻きながら、えくぼは着いていた肘を外して俺にスマホの画面を見せた。

「日本代表と暮らせる家」

JAPANのユニフォームを着た冬季くんが、胸の前でボールを持っている写真だ。

「却下だ」

「なんでぇ!!千載一遇せんざいいちぐうの人寄せチャンスじゃん?」

「そんな事して騒ぎになってみろ、冬季君にも近所にも管理会社にも迷惑だ」

と、大人なことを言ったが、一番嫌なのはオーナーの名前がマイケルで、バスケットマンが住んでるなんてまた笑い者にされるに違いないからだ。

百歩譲って冬季君が誰も知らない程にそこそこのプレイヤーならまだしも、一番避けて通りたいその筋の重鎮だぞ。

と、言うか。そもそもなんで急にそんなすごい人来たの?

町内会の運動会の借り物競走で引いた札に「ターミネーター」と書かれていて、観覧席のブルーシートにシュワちゃんが座っていたレベルの異次元の引きの強さだ。

あぁ。だめだ、ため息をついたらもう膝から崩れ落ちて立ち上がれなくなりそうだ。

「ねぇ、バスケのゴール庭につけない?」

「然りげ無くアピールやめろ」

「トロフィとかめちゃくちゃあるんだろうなぁ」

「本宅に置いてるだろ」

「そうだ、駐車場どうすんの?冬季さん車でくるでしょ?」

「俺の車の隣に駐車してもらう、次の入居者が車持ってたらまた九鬼さんと考えるよ」

田舎の農家の利点は庭の広さ。車2台の駐車は問題ない。だが、えくぼの言葉に少し俺も不安が過ぎる。

冬季君はアメリカ留学経験もあり、向こうの下部組織にもいた。日本では億プレイヤー。この前は日本車だったが、他にも何台か所有しているだろう。

チラッと庭に視線を流して腰に手を当てる。農家の敷地は無駄に広い、カマロかハマーまでなら大丈夫だろう。

「冬季君が大型バスかロールスロイスで来ない限り大丈夫だ」

「でも、ダンプくらいなら乗りこなしそう」

それは反論できない。

洗濯物を干し終えた俺は、カゴを持ってえくぼに近づき、何も無いに等しい冬季くんの部屋を覗いた。立て付けのクロゼットに服は収まり、空気清浄機付き加湿器とスティッククリーナー、大人くらいデカいビーズクッションだけがやたらに目立つ。

気を遣って金目のものを置いてきたのか、そもそもこだわりが無いのか。

「俺の勝手なイメージだが、スポーツ選手ってのは、金の太いネックレス揺らしながら、セカンドバッグに直で現金帯付きで入れてると思ってたんだが、そうでもないんだな」

「それ、前歯が金歯なんでしょ?そんないにしえのスポーツ選手いたら逆にバズりそう。でも、俺も有名ブランドのロゴ入りのセットアップにミラーのサングラスしてそうなイメージだった」

2人でイメージとかけ離れた彼の装いを思い出した。上下スウェットにサンダル、カバンはトートバック。えくぼ曰く、スウェットは某スポーツブランドの新作でそこそこ高いが、部屋着にするには高いレベルではあるが、上下合わせて3〜4万。サンダルはどこでも売っているもの、トートバッグは外国のブランドだが、俺達が一流の人を想像した時に思いつく様な値段ではない。

「着心地良ければなんでもいいです」腰に手を当てニコッと笑う。余裕があるから言える言葉でもあるが、拍子抜けしてしまった。

「この前、冬季君が伸びしててさ。お腹見えたんだけど、ちょっとムニってしてた」

「それはまぁ、パンプアップした後じゃないからでしょ」

「そうなの?俺、筋トレした事ないからわかんねぇわ」

「触ったらバッキバキに固かった」

「うそ?」

「うそ。本当は程よい硬さだった。力入れないと柔らかい筋肉」

「どんな感じ?」

「ん〜・・・おじさん、イルカ触ったことある?」

「は?イルカ?ないに決まってるだろ?」

「じゃあ話になんない」

「逆にそれ、話になる奴の方が少ないだろ?」

俺達のくだらない立ち話に、洗濯物を干しながら微笑んでいる隣の奥さんと目が合ってしまった、シバ太の母ちゃんだ。

確実に隙を伺っているのに気付いていたが、もう無視は出来ない。仕方なく会釈をすると、チャンス!と、敷地のギリギリまで小走りでやってきた。

「おはよう!新山にいやまさん、シェアハウスどう?」

「まぁ、ぼちぼちです」

何がどう?なのかわからんが適当に答える。

「こちらが言ってた甥っ子君?大学生かしら?」

洗濯物を干すだけなのにしっかりと化粧をしている。男の俺でもわかる気合いの入りようだ。

えくぼは即座に営業用の笑顔を顔に貼り付けて挨拶をした。

「はい、春で2年になります。騒がしくなるかもしれませんが、ご迷惑を感じたらすぐにおじさんに言って下さい」

「俺が迷惑みたいに言うなよ。今居ないんですがもう一人入居者がいまして」

「あ!見かけた!ちょっと小柄で可愛い人!」

「はい、ちょっと小柄で可愛いその人です」

「若い男性が近所に増えると安心だわ、うちの旦那殆どいないから」

「あぁ、旦那さん確か長距離ドライバーでしたね」

「娘も年頃だしねぇ」

「中学生でしたっけ?最近見かけなないですが、部活かなんかですか?」

「それがね・・・」

頬に細い指をあて、悩まし気にシバ太の母ちゃんはため息をついた。

「思春期なのか閉じ篭りがちなんです」

見上げた娘さんの部屋は、しっかりとピンクのカーテンは閉じられていた。俺が最後に見かけたのは離れのリフォーム前で、ショートカットのややボーイッシュな印象の子だった気がする。

「もし見かけたら声かけてあげてね、えくぼ君!」

満面の笑みでもう一度えくぼに笑いかけ、空の洗濯かごを抱えて家に戻って行った。

「俺が声かけちゃいけないのか」

俺の方が得体が知れているし、大人だから安心じゃないのか?と疑問が先に立ったが、えくぼの冷静な声がそれを無惨に遮った。

「おじさんが声かけたら犯罪の匂いがするからね」

「俺ほど善良な市民はこの世にいないぞ」

「臆病って言葉がそれに直結するなら確かだね」

スッとえくぼは冬季君の部屋から出ていってしまった。

今日内見に来てくれる人は、どうか俺の味方になってくれますように。晴れた空に俺は祈った。


昼ごはんを済ませ、玄関先に最近つけた鏡で最近さらに癖が強くなった髪を少し整える。昔は気にならない程の癖毛だったが、歳をとる毎にそれが増している。俺は加齢に関してはある程度許容しているが、こんな成長はいらない。

玄関から庭に出ると、ちょうど管理会社「おひるね」の社用車が入ってきた。俺に気づくと九鬼さんは、ハンドルを握ったまま片手を上げて挨拶をしてくれた。

「こんにちは新山さん」

「やぁどうも、九鬼さん。いい天気ですね」

車からおりた九鬼さんと挨拶を交わしていると、助手席からのそりと男がおりてきた、今日の内見の人だろう。扉を閉めたのを見計らって俺は笑顔を向けて挨拶をした。

「やぁ、こんにちは!江口えぐちさんですね?お待ちしておりました!」

「こんにちは」

年齢は確か30代半ばだったと思う。江口君はチラッと俺を見て軽く頭を下げ、視線はもうシェアハウスだった。

とびきりの笑顔をくれとは言わないが、もう少し愛嬌があっても損はしないと思うのだが。味気ない挨拶にガッカリしたが、全人類が常にご機嫌とは限らない。少し緊張しているのだろう。ここは大人の俺が余裕と言うものを見せてあげよう。

「こちらオーナーの新山マイケルさん、同じ敷地に住んでらっしゃるので、困ったことがあったらなんでも相談してね」

「人生相談も乗るよ!なんてな!」

「わかりました、部屋の案内お願いします」

わかってない奴の返事。

大人の余裕を秒で忘れてムッとした俺の空気を感じた九鬼さんは、慌てて彼の横に立ってシェアハウスの案内を始めた。俺は唇を尖らせ少し遅れて後に続く。玄関を開けて共有スペースに入ると、ちょうど昼飯終わりのえくぼがキッチンスペースで洗い物をしていた。

「あ、えくぼ君!ちょうどよかった、こちら江口さん!」

振り向いたえくぼはタオルで手を拭きながらにこりと微笑んで「こんにちは」とドラマのワンシーンみたいな他所行よそいきの声を出す。

「あ・・・」

突然、江口君が手の平で両目を隠してしゃがみ込んだ。急なことでどうしていいか分からず、俺はあたふたするしか無かったが、九鬼さんはすかさずしゃがんで声をかけた。

「大丈夫ですか?車酔いでしょうか?」

それを見て、大人の余裕を思い出した俺も慌てて隣にしゃがんだ。今日は10月にしては気温も高いし、熱中症の可能性も考えられる。

「とりあえず、ソファ座って?えくぼ、なんか飲み物あるか?」

「コーラならある」

冷蔵庫の横に置かれた段ボールから、ごそりとえくぼがコーラのミニ缶を出した。

「もっとアレなもんないのか?!」

「冬季さんの差し入れ」

「スポドリとか!」

「飲まないもん。冬季さんも飲まないって」

「・・・ごめんな。江口君、マシな奴いなくて!」

スポーツドリンクなのに、スポーツマンが飲まないなんて本末転倒じゃないか?

仕方なく俺はうちにある麦茶をとって来ようと踵を返した。すると、それと同時に江口君が突然立ち上がった。

しっかりと背筋を伸ばし、顔色は少し高揚していて、目なんか別人みたいに輝いている。急な変貌に俺達は後ずさった。

何かに覚醒したのだろうか?

江口君は徐に背負っていたバックパックからスルリとノートPCを出し、ソファにストンと座ると、そのまま書き物を始めてしまった。俺達はその挙動の意味を理解し兼ねてどうしていいのか分からず、3人寄り添って、リズミカルなタイピング音を聞きながらを眺めるしかなかった。


15分くらい経っただろうか、江口君は満足げにふうっと息を吐いて顔を上げだ。俺達は時間潰しにキッチンにもたれてコーラを飲みながら昨夜の日本シリーズの話で盛り上がっていた。

「お待たせしました。部屋、見せていただいていいですか」

急いでシンクにコーラの缶を置いた九鬼さんが小走りで部屋の鍵をポケットから出す。PCを大切に胸に抱え、江口君はソファから立ち上がり後に続いた。

それを黙って見つめるえくぼが、空になったコーラの缶を弄びながら俺に耳打ちしてきた。

「ねぇあの人、何している人?」

「確か、作家」

「サッカー?」

「そんなアスリートばっか集まってたまるか。作家だよ、小説家!」

「そうなの?なんか代表作とかあるの?」

「しらねぇよ、俺読まないもん、本」

「なんかイマジネーション的なの湧いたの?さっき?」

「そうじゃないか?降りてきたってやつじゃないのか?」

えくぼは、2人が完全に個室に入ったのを見計らって声の大きさを戻した。

「こんなとこで何が降りるんだろ?」

「さぁな。降りた経験ないから俺は分からん」

「俺もない」

「冬季君に聞いてみるか」

「コートでバスケの神さま的なやつ降りたことあるかって?」

俺は天井に向かって目を閉じ、両手を肩の高さまで掲げた。

ちょうど天窓から光が射して神々しい雰囲気になり、えくぼが吹き出し笑って俺の肩をパンっと叩く。ウケた事に調子に乗った俺は勝手にそれっぽいBGMもつけて、2人で声を殺して笑う。

「やめ、やめて・・・!無駄に神々しいのジワるって!」

「この天窓つけて大正解だな」

「しょうもない事に正解見出さないで!」

2人で頭を突き合わせて笑っていると、九鬼さんと江口君が個室から出てきて、俺達は急いで姿勢を正した。

「えくぼくん、この家の騒がしさにつて聞きたいんだけど、昼間とかどうかな?一軒家が多いし、農家さんが殆どだから然程気にならないと思うけど」

「あ、そ、そうですね」

口元に手の甲をあて、軽く咳払いしたえくぼは、シンクにもたれていた体を起こして隣を指差す。

「隣のワンちゃんが朝からおじさんに吠える以外はそんなに気になる音は無いですね」

「シバ太は午前中、敷地内でですが放されるんです、それ以外は室内なんで吠えませんよ」

「シバ太?」

「はい、柴犬です」

やっと俺の顔を見てくれた江口君は、開きっぱなしの玄関から外を見た。犬が苦手なのかも知れない。

「犬、苦手ですか?うち一応ペット派1匹までOKなんですが大丈夫かな?」

「いえ、気にしません」

好きでも嫌いでもなく、気にしないとは強い発言だ。

「あとは、農家が多いので季節によっては少し賑やかかも知れませんが、夜は静かですよ。テレビが部屋にないのでここでたまに見ますけど、もし集中したいなら、おじさんのとこで見るんで言ってください」

うんうん、と隣で頷いて、いやいやっと俺は我に帰る。

「おい、見にくるのは構わないが、俺にチャンネル権はあるんだろうな?!」

「大画面で見たい時だけだから大丈夫。普段はスマホで動画見るし。冬季さんの試合、大きい画面で見たいじゃん?」

「ニワカで見るなよ」

「これから覚えるの、バスケの簡単なルールは知ってるし!」

俺達のやり取りをしばらく見ていた江口君は、バックパックにPCをしまいながら会話に入ってきた。なんだ、少し人見知りなだけなんだな。

「お二人は仲良いんですね」

「あ、血縁者なんです!この人僕の叔父」

「マイケルさんってハーフとかですか?」

「いや・・・父さんがマイケル・ジョーダン好きでノリでつけたんだ。お陰で苦労したよ」

お決まりの愚痴に突入しかけたところで、江口君は急に九鬼さんに向き直った。

「俺、契約します」


なんか分からんが、江口君は即契約してえくぼの隣の4.5畳の部屋に来てくれた。部屋は大量の本にあっという間に埋め尽くされる。まだ選べるから6畳の部屋を軽く進めたが、狭い方が集中出来るからと一言で返された。

嬉しい事に江口君は、入居者を連れてきてくれた。

一日遅れで契約に来てくれたのは、70代のおじいちゃんだ。年金を貰いながら悠々自適に暮らしているらしい。

今まで江口君と同じ木造アパートに暮らしていたが、道路の開発事業で取り壊しが決まり、大家さんが紹介してくれた違うアパートに移るか悩んでいたそうだ。

「助かりましたよ、新しいところは犬が飼えないと言われて困っていたんです」

真っ白のポメラニアンを抱いた常田つねださんは、絵に描いたような好々爺こうこうやで、犬も大人しく俺に頭を撫でさせてくれた。どこのどいつとは言わないが、鼻面に皺を寄せて吠えるあいつと大違いだ。

「ふわっふわ!かわいいなぁ、お名前なんて言うの?」

さっそく抱かせてもらったえくぼの顔を舐め回すポメラニアンを、俺も恐る恐る撫でる、それに常田さんは柔らかい視線を送ってくれた。

「ポメ男です」

「ポメ男」

ネーミングセンスが俺と同じ。

ちなみに常田さんはタツオさん、江口君は克生と書いてカツオ君。

部屋も埋まり、新しい俺の新生活が始まった。


「おじさん、これネットテレビだよね?」

土曜日の夜にさっそく母屋にテレビを見に来たえくぼが、我が物顔で俺の座椅子に座ってリモコンを手に取った。冬季君の試合を見るためには、アプリのダウンロードが必要らしい。国内野球くらいしか見ない俺は、その辺はよく分からんが、若い子はなんでも対応が早い。

「BSのスポーツチャンネルで見れんのか?」

「他の競技は殆ど見ないでしょ?だったら、専用アプリで見た方がいいし、リーグに換金出来るらしいよ」

「なるほどな」

「早くしないと始まっちゃう・・・アカウントとっていい?」

「ああ」

バスケットボールと聞くと胸がまだモヤモヤするが、身内が出ているとなると少し晴れる。拓実の時は起きなかった現象だが、冬季君はかなり年下だし、弟みたいなものだ。それに俺も大事なシーズン中、互いに応援というのも悪くない。

「これでよし!おじさん、これアカウントとパスワードね。メモに書いておいたから無くさないように」

俺はメモを受け取り、無くさないようにカレンダーの隣に押しピンでとめ、いつか特別な日があった時に飲もうと思って1ヶ月出番が無かったちょっといいお茶を淹れた。えくぼが来るなら座椅子をもう一個買ってもいいな。

タツオさんが百貨店で手土産に買ってきてくれた高い煎餅を2人で齧りながら、画面に映し出されたHeavenSアリーナを見た。

何年も近くで働いていながら中を見たのは初めてで、隙間なく埋め尽くされた客席が、HeavenSのチームカラーで真っ青に染まっていた。

「大したもんだな」

「あ!見て応援タオル!圧倒的に我らが冬季さん!誇らしい〜」

「そんで、いつ始まるんだ?」

「チアの後じゃない?」

「てか、ロスターってなんだ?ロースター?」

「わかんない?あの、デカいエビしか浮かばない」

「えくぼ、ロブスターってザリガニと一緒らしいぞ」

「へぇ。ってか、関係ない答えはすぐ出るよね、おじさん」

かわいいチアリーディングが終わり、暗転するも会場の熱気はさらに上がる。コートにプロジェクションが移され、照明がチカチカと眩しい。実況を聞きながら、選手の名前が発表され、そこに自分の知っている人がいる事にふわふわとした変な緊張感があった。いや、これは高揚感だ。

「おい、えくぼ!冬季君だ!雪永冬季!一番上に名前があるぞ!偉いのか?!」

「背番号順だよ、冬季さん0番だから。それにポイントガードだから番号も早い」

「そうか、番号でポジションわかるんだな」

「まぁ、今は好きな番号つけるけど、ガードは若い番号が多いらしい」

俺達の前に現れたゆるゆるの冬季君はそこにいなかった。沢山の声援を浴び、照明に照らされてコートに入場した彼は、しっかりと髪をセットしていて、チームマスコットとハイタッチをする。その後にチームメイトが続く。

緊張など微塵も感じない戦う男の顔つきで、手を体の後ろで組み、堂々とコートに立っている。存在感が誰よりも大きい。いよいよユニフォーム姿になって、各チームのスターティングの選手5人がコートに立った。

だが、ジャンプボールまでの少しの時間に俺は急に不安になった。

平均身長が190センチを超えるコート内で彼はあまりにも小さく、良い意味でも悪い意味でも目立つ。庇護欲を掻き立てるその華奢な体を本人は全く気にする様子もなく佇んでいるが、俺の気持ちは保護者だった。

だが、冬季君にとって、これが当たり前の世界なのだ。俺なら5秒で離脱する。いや、早々に気絶する。と、言うかまずそこに行かない。

試合が始まり、やっと俺の中の庇護欲がおさまって来た頃、俺はある事に気づいた。

「なぁ、えくぼ。専門用語が多くないか?」

「それな。W杯見た時は端っこにテロップで説明出してたけど、ファウルとか技とかは実況しかないんだね。試合の流れを理解する最低限の情報しかない」

「しかも英語なんだよな・・・」

「まぁまぁ、とりあえずはスーパープレイを見ようよ、ダンクとかわかる範囲で!」

「そうだな、試合展開も早いしスカッとするな!」

細かいことは気にせずにただ試合を見るのも悪くない。のんびり点数が進む野球やサッカーより早く、卓球よりは遅い絶妙な速さだ。

目が慣れるとどこを見ればいいか分かってくる。ポイントガードの冬季君にボールが集まり、彼が中心でボールを回している。攻守が入れ替わると、今度は相手のポイントガードを追う。そうするとゲームの流れが自ずと分かってくるし、スーパープレイを見逃しにくい。

バスケットボールの1試合10分を、4回に分けて合計40分試合をする。その1試合を「1クォーター」と数えるらしい。

反則だハーフタイムだと時計が止まるのはサッカーと一緒で、結局2時間くらいかけて戦い、冬季君は見事に勝利した。

普段は野球を1人で観戦していて、独り言みたいなヤジを飛ばすだけの俺だが、えくぼと一緒に冬季君を応援するのは、懐かしい楽しさがあった。

同じ気持ちをえくぼも感じたのか、興奮気味に膝を立ててすっかり冷めた高いお茶を飲み干す。

「めっちゃ楽しい!学祭の気分!!」

俺はえくぼが小学生の時の運動会で、兄貴と応援した徒競走を思い出していた。これがジェネレーションギャップというものか。

日曜日の試合も2人で観戦し、その日の夜に帰って来た冬季君の車の音に2人で大はしゃぎで庭に出てハイタッチで出迎えた程だ。

「試合、見てくれたんだ?嬉しいなぁ」

コートとは大違いのゆるゆるの笑顔で、相変わらずのサンダル姿の冬季君を先頭に共有スペースに入る。シャワーも浴びてきたのか、髪もサラサラでシャンプーの良い匂いまでした。さっきまでコートを駆け回って審判と言い合いしていた人には全く見えない。

「あ、冬季さん入居者が埋まってね。紹介するよ!」

えくぼは率先して後の2人の部屋をノックし、みんなを共有スペースに集めた。

「タツオさんと、江口さん、これはタツオさんの家族のポメ男」

ニコニコとポメラニアンを抱いたまま、握手を求めたタツオさんに、冬季君が手を伸ばすと何を勘違いしたのかポメ男がその手に前足をかけて飛び移った。そのままベロベロと顔を舐める。

「犬飼ってみたかったんです!思わぬ形で叶った!」

江口君は冬季君の顔を遠目に眺め、すぐに部屋に引っ込んでしまった。タツオさんが2人分紹介をし、ポメ男の毛まみれになった冬季君の為に、個室にコロコロをとりに戻った。少し和んだ所でえくぼが冬季君に質問をぶつける。

「ねぇ、試合の初めに今日のロスターって言ってたの何?」

「あ、ロースター?ベンチ入りって意味だよ。

Bリーグ、日本のルールだと10〜12人くらい選出されて、そこからスターティング・ファイブ、5人まずスタメンで試合に出る。バスケはスピードと体力勝負、その12人からどんどん選手を入れ替えて、温存させたり、戦略を練るんだ。

外国人選手は1チーム3名までとか細かいルールもあるけど、気にせずにロスターって聞いたら、今日コートに立つこのチームの精鋭の12人だな!って思って」

「日本の?外国は違うんだ?」

「NBAは最大15人でまぁ、色々と契約がまた違うんですよ。マイケルさんがもし、監督を目指したり、ドリームチーム作るなら知った方がいいですけど、そうでないなら気にしないでください」

それを聞いていたタツオさんは、コロコロで冬季君のスウェットについた毛を取りながら、声を明るくした。

「じゃあ、今のメンバーは新山マイケルズのスターティング5ってことだね」

なんだよ、それ。ちょっと悪くないな。俺は久しぶりにドキドキした。


後で気づいた事だが、視聴は無料でなく、俺のところから視聴料が引き落とされていた。えくぼめ、上手い事やりたがったな。

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拗らせマイケルの小事 #73 @edv3

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