第211話 ベアトの決心
「おお、これは実に、いいものだな」
「ベアトが気に入ってくれてよかった。ベルゼンブリュックには、こういう習慣がないって聞いていたから」
「少し恥ずかしいが……ルッツとなら平気だ」
白皙の頬を少しだけ上気させたベアトが、俺にとろけた笑顔を向けてくれる。二人とも、何も身にまとわず、ぬるめの湯に身体を浸している。冬らしくなったバーデンの風がいい感じに頭を冷やしてくれて、いつまでも入っていられそうだ。
「ファニーも一緒に入れれば、もっと楽しそうだね」
「さすがにまだ無理だが……その時が楽しみだ」
そうさ。俺と、アデルの魔法で転移してきたベアトは、バーデンの温泉区で貸切露天風呂を思いっきり満喫しているというわけなのだ。湯に浸かりながら二人で見上げる澄んだ星空は、ぶっちゃけ最高だ。
「今日は、こっちに泊まれるよね?」
「泊まる。明日もこっちで過ごすつもりだ」
「あれ? 大丈夫なの?」
これは意外だ。もう何度かベアトはバーデンを訪れているけれど、一泊して朝飯を食ったら、午前のおやつの時間にもならないうちに王都に戻ってしまっていた。何しろ統治機構の最上部を独占していた高位貴族の七割近くを粛清してしまったのだ。いくら悪い奴らでも働いていなかったわけじゃない、あれは必要なことだったけれど、国政は少なからず混乱して……王族のツートップである女王陛下とベアトは、連日後始末に忙殺されていたのだ。
「ようやく、新しい閣僚たちで政庁が回るようになったから」
そうか。信頼できる貴族で新しく構築した政府が機能するようになったら、いちいち陛下やベアトが一件一件細かいことを決裁しなくてよくなるよな。そしたらベアトにも余裕ができて……短い間なら、バーデンで一緒に暮らすことも可能になるかもしれない、楽しみだなあ。
そんな呑気なことを考えていたのは、俺だけだったようだ。ベアトはその翡翠色の瞳を俺に向け、表情を変えずに宣言した。
「あと半年もすれば、政務は貴族に、儀礼的な公務はクラーラ姉にすべて任せられる。そしたら私は『魔の森』に向かうぞ」
「え? 何で?」
「家族のため」
はい? わけわからんぞ。まあ、親しい者に対して言葉が足りないのは、ベアトの平常運転なのだが。
「ねえベアト。俺にもわかるように言ってくれる?」
「うん。『森人』の村に行きたい。魔の森深く分け入ったところに、巨木を囲んで森人たちが住まうという」
「森人??」
そういやこの世界には、そんな一族がいるって聞いてたなあ。ものすごく寿命が長くて、みんな綺麗な姿をしていて……だけど人間との接触を嫌い、深い森の奥でひっそりと、静かに暮らしているのだとか。だけど、どうしてわざわざベアトが「魔の森」に潜る危険を冒してまで、「森人」に会わないといけないんだ?
「エリーゼ婆が言ってただろう、暗黒大陸の者たちと同じく、精霊の力を借りて奇蹟を行う者たちがいると。それが森人だ」
「あ……もしかして、ファニーのことを?」
「他に何があるというのだ。ファニーの可能性を広げるためなら、私は何でもやる。森人と接触し、ファニーと共に在る精霊といかに付き合うべきか、教えを請うのだ」
「しかし……何も次期女王が自ら出向かなくても。使いの者を送るとか……」
そう、ベアトがファニーの将来を案じ、何かしてやりたい気持ちは、よくわかる。だけどそこにたどり着くまでに「魔の森」を散々歩かねばならないわけで……その外縁部に住まう我々ですら魔物の襲来に悩んでいるというのに、戦闘タイプじゃないベアトがそこを踏破するとか、ないだろ。
「いや、私が行かねばダメだ。彼らは人間に不信感を持ち、接触を嫌っているという。使いなどで済ませば、その者の前に森人は決して現れまい」
「そうかも知れないが……」
「だから私が行く。私自身が、危険を乗り越えて何かを訴えに来た……それを森人が理解して初めて、話を聞いてくれるのではないかな」
うん、ベアトの言い分は、理屈ではよくわかる。だけど、ベアトが魔物の巣みたいなところに踏み込んでいくなんて考えたら、たまらなく怖いんだ。大好きなベアトが失われることなんか、絶対考えたくない。
「せめて、護衛だけは十分たくさん連れて行ってくれよ……」
「ダメ。大勢兵隊を連れて行ったりすれば、人嫌いの森人は隠れてしまう。さすがに一人では無理だが……少数精鋭でゆくぞ」
「俺、ベアトを心配しながら留守番なんてやだよ……」
本気でそう言ったのに、ベアトがきょとんと、意外なことを聞いたような表情になる。あれ? 妻が危地に赴くというのだから、その安否に胸を痛めるのって、当たり前じゃないの?
「ふむ。この鈍感な種馬は、まだわかっておらぬようだ。私の言う『少数精鋭』には、ルッツも入っているのだぞ?」
「えええっ!」
いやそれ、ないでしょ。さまざまの魔物や野獣が次々襲いかかってくるあの「魔の森」を行く過酷な旅で、俺が役に立つ絵が全く思いつかないんだけど。まあベアトは戦闘タイプでないとはいえ、戦の時にやったみたいに森の木々へなんらか影響を及ぼせるのだろう。だけど俺はせいぜい、そのベアトに魔力を補給するだけの役目……あとは良くて荷物持ちくらいにしか使えないぞ。
「自覚のない種馬だ。ルッツが一言励ますだけで、女は五割増の力が出せるというのにな」
そんな嬉しいこと言われたって、怖いものは怖いよ。一番怖いのは、大好きなベアトを守れないことさ。
「心配するな。出かけると言ってもすぐではない。少なくともグレーテルが子を産んで、我らを守ってくれるであろう時期の話だ」
もはや俺は反論をあきらめ、深いため息をつくしかなかった。頼むぞ幼馴染、俺たちを守ってくれよと胸の中でつぶやいて。
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