第138話 元気でね、ベアト
「それじゃ。いってらっしゃい……気を付けて」
ベアトが、胸の前で小さな手を振る。その表情はいつもの陶器人形っぽいクールフェイスと違って、薄く微笑みながらも顔いっぱいに「寂しい」って書いてあるようだ。思わず胸がどくんと大きく脈打って……抱き寄せたくなるけど、今はやっちゃだめだな。
一週間の新婚生活を……ベアトの公務を少し抑えた程度の、ささやかなものだったが……終え、俺たちがバーデン領に戻る日が来た。王族で、帝国戦の功労者ということになっている俺たちの出発には、軍人を中心とした大勢の見送りが。こんな中で、ベアトといちゃつくわけにはいかないよなあ。
「うん。バーデンで麦が収穫できて、捕虜たちの食料にめどがついた頃に、また来られるといいな」
「……それじゃ、半年以上先になる」
ベアトが目を伏せる。その肩は、少しだけ震えている。
「本当は私も、一緒に行きたい。毎日、ルッツにぎゅっとされたい。だけど……私には次期女王としての責務がある、それを投げ出すわけにはいかない」
「そう、ベアトは、他の誰にもできない役目があるし、それが出来る唯一の女の子なんだ。俺はそんなベアトを尊敬しているし、離れていても……いつも想っているよ」
ベアトの真面目極まる言葉に、ややクサい台詞で応じる俺。クサいとは思うけど……俺の正直な気持ちだからな。どっちみち俺の考えてることなんて「精霊の目」でばっちり見えちゃってるんだろうし。
「ルッツの気持ちは本物、ちゃんとわかってる。うん、とっても寂しい、寂しいけど……ルッツの言葉をもらったら、私は頑張れる」
そんな台詞を吐いて、上目遣いで俺を見つめるベアト……ああ、可愛すぎる。
「ルッツもバーデンの開発、大変だけど無理しないで。適当に休んで、グレーテルを可愛がってあげて欲しい」
どうもベアトは、俺の社畜的な性質に気付いているようだ。そうなんだよな、昭和的な感覚で仕事していると、目の前の課題が片付くまでは絶対休んじゃイケないような気分になるからなあ。ちゃんと心して、ワークライフバランスってやつを身に付けないと。
「うん、グレーテルとは、仲良くやれると思う。ベアトは……アデルの誘惑に負けるんじゃないぞ?」
冗談めかして言ったつもりだが、白皙の頬が一気に紅く染まる。やはり昨晩の体験は、恋愛に対してはどストレートであったベアトにとって、かなり鮮烈だったようだ。
「しない、しないよ。ルッツこそ、今朝は私抜きでアデルと……」
うぐっ、これは藪蛇というものだったか。疲れ切って寝くたれていたとはいえ、いくら何でも真横で始まっちゃったら、そりゃ気づくってもんだよなあ。
「ご、ごめん……」
「いい。あれも契約だから」
しょぼくれる俺の顔を見て、くくっと小さな笑い声を漏らすベアト。どうやら、許してくれたらしい。
「侯爵閣下、そろそろ」
護衛につく護衛の男将校が、無遠慮に声をかけてくる。ベアトの後方に控えていたアデルの眉間にしわが寄り、切れ長の目が吊り上がる。
「無粋ね! 殿下は新婚であらせられるのよ、別れを惜しむ時間くらい作って差し上げられないの?」
「ひいいっ!」
怒りのオーラをもろにぶつけられて、びびりまくる将校。アデルは女性から見れば清冽で凛々しいが、それは有象無象の男から見れば「怖い女」ということになるだろうからな。俺には優しい表情を見せてくれるのだが……
「まあ、確かに早く出発しないと日没までに目的の街に到着できないからな。アデルの心遣いはうれしいけど、許してあげて」
普通の旅人だったら予定より遅く出発する羽目になったら、手前の街で泊まればいいだけのことだ。だけど残念ながら俺たち一行は「次期王配」と「次期侯爵」入りの大名行列。すでに滞在する宿は、バーデンに着くまでの数日、かっちりと決められていて……予定通り着かなかったりしたら、ものすごく多くの人に迷惑を掛けることになるのだ。
「は……閣下がそうおっしゃるなら」
渋々引き下がりつつも、アデルはまだ視線を緩めることはなく、将校は肩を縮めっぱなした。そろそろ、解放してやらないとな。
「では、行こうか。ねえベアト……くれぐれも、身体に気を付けて。女の子なんだから、冷やしちゃダメだよ」
何気なくかけた最後の言葉だったけど、その瞬間に白皙の頬が桜色に上気する。
「……まだ、できたかどうかはわからない」
あ、そうか。さっきの台詞は、妊娠してる女性に掛ける言葉みたいに聞こえてしまうか。いくら何でも、初めてしてから数日しかたってないし……結果はわからないよな。
「だけど……予感がする。なんだかほんわかするの……きっと私の幸せが、ここに宿る」
そんな言葉と共に、お腹に柔らかく手のひらを当てるベアトは、いつものクールフェイスを崩して、頬を緩めている。まだ十七歳なのにすっかり母親の顔になっている彼女に、もういちど俺の心臓が、どくんと大きく脈打った。
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