第106話 悩むグレーテル
俺がとっさに書いた漢字は、闇一族の人たちが遥か東方の故地に向けるノスタルジーを、にわかに呼び起こしてしまったらしい。あっという間に百人ばかりの「闇の者」がでかい和紙や看板みたいな木板を手に、我が家に行列をつくってしまったのだ。
「あたしの名前も『漢字』で書いてほしいわ!」
「おらも欲しい! 御屋形様に書いてもらったら家宝にする!」
はぁ~っ。書道の段位持ちとかならともかく、俺は中学校の習字くらいしか毛筆経験ないんだぜ。こんな下手な字を床の間とかに飾られたら、恥ずかしくて仕方ないじゃないか……ああ、最初から格好つけずにひらがなで書いておけば、こんなことにならなかったのに。
結局のところ、我に返ったアヤカさんが「とりあえず今日は一家に一人だけ。あとは特別な功績を挙げた者に授ける褒美とする」と決然として布告を出し、俺の下手な習字は三十枚ちょっとで済むこととなった。ほっとしたが……そんなものを生命を掛けた仕事の報酬にするってのは、ないんじゃないか?
それにしても、一挙手一投足に突き刺さるような期待の視線を浴びながらの習字は、なかなかの苦行だ。マナー教師の前で食事をする時みたいな緊張感が、なんとも辛い。とにかく何かを間違えないように、一つ一つの動作をゆっくりゆっくりこなしてゆく。
「おお、御屋形様の墨のすり方は堂に入っておられる、あの『間』を理解されておるとは」
「銀髪碧眼の御屋形様が書を嗜まれる姿は、絵になるわねえ」
ありがたいことに、俺が必死で習字する姿は、闇の一族に好評だったようだ。まあ「パンダがお絵かきしてる!」「外人なのに茶の湯を楽しんでる!」的な、物珍しさがいいんだろうな。
そして気が付くと俺は「御屋形様」と呼ばれている。族長のカナコさんがすでに連れ合いを亡くし、跡継ぎに決定しているアヤカさんの配偶者が俺ってことだから、それほどおかしくもないのだが……「御屋形様」って昔の日本では、当主につける敬称じゃなかったかな。
「私たちが東方にいた頃には、男性が当主だったようですね。その名残ですので、ルッツ様はお気になさらず」
アヤカさんに聞いたら、あっさりと流されてしまった。う~ん、なし崩しに闇一族の当主扱いされる未来図はごめんこうむりたいが……アヤカさんの有無を言わせぬ笑顔に、沈黙するしかない俺だった。
そして怒涛の習字攻勢を終え、ほうっと安堵の息を吐く俺の前に、とてとてと歩み寄ってくる幼子が……その小さな手に、恐らく最上級の極厚和紙を持って。
「とーさま、わたくしにも、なまえをかいてくださいませ」
くっ、何て可愛いんだ。もちろん、愛娘の言うことなら何でも聞いてやるぞ。墨のすり過ぎで腱鞘炎になりかけの右手に喝を入れて、全力で筆を振るう。
「香織」と。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「良かったね、アヤカの子供たちが元気で」
「うん、ほっとした」
怒涛のように押し寄せた闇一族のみんなが引き上げ、アヤカさんも子供を連れて自分の宿舎へ戻って行った。俺とグレーテルは二人、夕食をつまみながらワインを楽しんでいる。そうさ、俺たちも十五歳、成人だから堂々と酒が飲めるんだぜ。
いろんなことがあった一日だった。嬉しかったけど疲れた……俺たちの口数は徐々に減って、やがては黙って飲むだけになってしまった。どのくらいそうしていたのだろうか、不意にグレーテルが口を開く。
「カオリを抱いたルッツ、とってもいい顔をしてた」
「そう? まあ、すごく可愛かったからなあ」
「そんな幸せをあげられるアヤカがうらやましい。私も早く、ルッツの子供が欲しい……」
グレーテルの声に勢いがないのに気付いてそっちを見れば、彼女はテーブルに目を伏せている。ワインのグラスはすでに空……しかも、傍らのボトルが三本は空いている。
「おい、いくら何でも、飲みすぎだよ。大丈夫、もう少ししたら俺たちは結婚するんだ、そうしたら、カオリみたいな娘を、いっぱいつくろう」
「うん、いっぱい作る。でも……たった今が切ないの。ね、ルッツお願い、私に……宝物を授けて?」
え? これはもしかして「してもいいのよ」パターンか?
「だめだよ。グレーテルは今、酔っ払って判断力が鈍っているんだ。正式な結婚までダメだって、君も言ってたじゃないか。そういうお誘いは素面の時にしよう、そしたら俺は喜んで、君に種付けするから」
なだめたつもりだったのだけど、グレーテルはその射抜くような視線を、決然と俺に向けてくる。
「酔ってなかったらこんな恥ずかしいこと、言えないわよっ! これを言うために、お酒の力を借りたんだからっ! お願いルッツ……私に、愛の結晶をください!」
マジか。早くしたいって、冗談みたいに言ってたグレーテルだけど、こんなにも俺の子供を欲しいと思ってくれてたなんて。一生懸命押さえていた想いが、アヤカさんの子を見てあふれ出てしまったのだろうか。
「わかった。俺だってしたいよ……後悔しないね?」
「ええ、よくってよ!」
よし、ここまで来たら俺も男だ、するしかないよな。ベアトは怒るだろうけど、まさか罰として切り取られたりはするまい。こんなに俺を求めてくれてるグレーテルを、放っては置けないから。
そうと決まったら寝室に一直線だ。俺は彼女の傍に立って、その手を優しくとる。グレーテルは満面の笑みを浮かべて立ち上がり……
「うっ!」
「どうした、グレーテル?」
「うっ、うぇっ……ううっ、えろえろえろ……」
吐きやがった。
ま、そうなるか。もちろんグレーテルは初めての酒じゃないけど、普段は淑女として節度を持って、精々グラス二杯くらいしか飲んでいないはず。だけど今日のこれは、明らかに許容量を超えていた……まあ、若者にありがちな酒の失敗だよな、俺にも経験ある。座っているときにはまだイケると思っても、いざ立ち上がった途端に一気にクるんだよ。
もちろん、その後のあれこれは無しだ。俺はその晩、グレーテルが逆噴射したものの片付けに追われた。
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