第86話 グレーテルの唇

 ひゅっと短く息を吸い込む音が聞こえて、半眼になっていたグレーテルが、その大きな目を一杯に見開く。曇り空のようだったグレーの瞳に力が戻り、下ろしっぱなしにしているストロベリーブロンドが、魔力を帯びて一気にふくらむ。なんかおとぎ話に出てくるゴルゴーンみたいと思わないでもないが、そんなことを口に出したらキレられてシバかれるのは確実だ。ここは「沈黙は金」だよな。


「ルッツ」


「う、うん」


 やけに力のこもった彼女の声に、ちょっとだけ引いてしまう俺。


「ありがとうルッツ、私の迷いを払ってくれて。うん、もう余計なことは考えない……剣を振り回して敵を叩き切る私の姿でも、好きだって言ってくれたんだもの」


 え、そんなんで、納得しちゃうの? 俺が褒めただけで、どうでもよくなっちゃうの?


「不思議そうな顔してるね……ねえ、私にとってルッツの言葉は、魔法みたいなものなんだよ。ルッツが褒めてくれるだけで、身体に力が満ちるんだもの」


 ヤバい、いつもの粗暴で苛烈な外套を脱ぎ捨てた今日のグレーテルは、やたら可愛い。惚れっぽい俺の胸が、ばくばく暴れて止まらない。ついついその桜色の頬に左手を伸ばして触れれば、彼女は安心したように目を閉じる。次の瞬間には俺の右手が勝手に動いて、グレーテルの腰を引き寄せていた。彼女の鍛え上げられた筋肉がびくっと反応するのに思わずびびってもう一度顔を見れば、相変わらず口許を緩めたまま目をつぶっている……とりあえず殴られずには済むようで、ありがたい。


「ねえ、ルッツ」


「うん」


「この戦が始まった時、言ったよね。『終わったらご褒美』って」


「そうだね」


 そう、確かに聞いた。一体何を要求されるのかとびくびくしていた俺だけど、この状況で告げられるのなら、そんなにむごい仕打ちにはならないだろう。ちょっと安心する。


「あのね、ルッツの婚約者は三人いるよね」


「うん」


「アヤカさんはもう、ルッツと子作りしてる。私とベアトお姉様は、ルッツが成人するまで結婚できないから、子作りできない。ルッツが十五になったらできるようになるけど……もちろん王女で正室のベアトお姉様が先。お姉様がご懐妊するまで、私は待つことになるんだと思う」


 うん? グレーテルは、何を言おうとしているんだ? やっぱり二番目ってのが、気に入らないのかな。でも彼女は、ベアトを慕って、自分は側室でも構わないからって言ってたはずだけど……


「もちろん、それを不満に思うわけじゃないの。私はこれからも、ベアトお姉様をきちんと立ててゆくつもり。結婚の誓いも、初めての子作りも、ベアトお姉様を先にすべきなの。それでいいんだけど……たった一つだけ、私に先に与えて欲しいものがあるの」


「それって、何?」


「……お姉様より先に……ルッツの、く、く……口づけを下さいっ!」


 目を固く閉じたまま言葉をほとばしらせるグレーテル。桜色だった頬は、今や真紅に染まっている。


 俺のキスなんかをそんなに求めてくれてるのは嬉しいけど、最初のキスがベアトより先だってことが、そんなに重要なことなんだろうか。だいたい俺、アヤカさんはもとより、今まで種付けしてきた女性とはみんな、そういうことしてきたんだけど。


「わかってる、ルッツにとっては大したことじゃないって。だけど、私にはとっても大事なの……その想い出さえあれば、これからずっと、お姉様に無私の忠誠を捧げてゆけるの」


 うっ、これは重い、重いけれど……そこまで想われたら、応えないといけないよな。


 左手で、グレーテルの顎を軽く持ち上げる。右手で腰をもう少しだけ引き寄せれば、上半身の筋肉がきゅっとこわばるのがわかる。そうだよな、彼女はまだ十四歳……もちろんキスの経験なんてないはずだから。


 柔らかく、出来るだけ柔らかく、俺は彼女の紅い唇に、自分のそれを少し触れさせて、すぐ離す。筋肉の緊張がほぐれた頃を見計らって、また軽く唇を合わせて……こんどは触れたままで、しばらくお互いの体温を確かめる。上半身からふにゃっと力が抜けたところで、ゆっくりと舌で彼女の唇をこじ開けて、真っ白い歯をノックしていけば、それはおずおずと開いてゆく。するりと舌を口腔に滑り込ませれば、びっくりしたように一瞬噛まれたけれど、後はなすがままに受け入れてくれた。


 最初は恐れるように引っ込んでいた彼女の舌が、少しづつ遠慮がちに俺のそれに絡んでくる。そのままお互いを探り合えば、やがてグレーテルはアクティヴ極まりない性格にふさわしく、積極的に舌を伸ばし、俺の内側を味わおうとするのだ。


 そのまま数分、たっぷりと互いのワイン味した唾液を確かめ合った俺たちは、ようやく唇を離した。


「これで、良かったのか?」


「うん、すごく良かった。ありがとう、これは……癖になるわ」


 精神的な満足なんだろうけど、こんなんで「英雄の再来」が幸せになれるなら、魔法の使えない俺も役に立つってことか。


「いや、これは……本当に調子がいいかも、身体に魔力が満ちてるのよ」


「え?」


「私は宴の前まで、目一杯身体強化を使って訓練して魔力を消耗していたはず。だけど今、ルッツの口づけを受けたら……すごい、今なら敵が千人来ようと、負ける気がしないわ」


 うそだろ。もしかしてこれってまた、転生チートなのか?

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