第84話 地母神ベアトリクス

 俺の腕の中にすっぽり納まった薄い上半身が、苦しそうにあえいでいる。その手をとれば、いつもになく冷たい感触と、細かい震えが伝わってくる。ああ、本当に限界まで、頑張ったんだな。


「良くやったよ、ベアト。もう十分だ、あとは自然に任せよう」


「だ、だめ……ここでやめたら、収穫は平年の半分くらいになる……間違いなく民は飢える」


「無理をしてベアトが倒れたら、なんにもならない。半分の収穫があれば、あとは王都に追加支援を求めて何とかしよう」


「もう少し、なのに……」


 切なげに長いまつ毛を伏せるベアトの姿に、胸を締め付けられる。だがここで彼女を魔力切れで倒れさせるわけにはいかない……せっかく全軍が、新しき統率者としてベアトを認めたのだ。今しばらく兵士たちに、堂々とした姿を見せ続けなければいけないんだ。


 そうしてただぎゅっと抱きしめているだけの時間が過ぎる。多分数分しか経っていないと思うのだが……気がつけば握っていたベアトの手に、体温が戻って来ている。震えも収まって、その頬を覗き込めば、薄紅を差したような少女らしい肌がそこにある。


「ルッツお願い、ちょっと放して」


 あわてて両腕の拘束を解けば、ベアトは安定の無表情を崩して、不思議そうな顔をしながらも自分の足でしっかりと大地を踏みしめ、前を向いた。


「なぜだろう、すごく調子がいい気がする」


 そう口にするなり、また長い長い詠唱を始める。慌てて止めようとする俺を左手で柔らかく抑えるその表情には、本当に余裕が感じられる。やや心配ではあるけれど……ここは、彼女の感覚に任せてみようか。


 ベアトの魔法に応えて、眼前の麦が、また成長を始める。見渡す農地の隅々まで青々とした眺めが広がり、手前のそれは既に薄黄色く色付いて、しっかりとした穂をつけて……民と兵士から一斉に歓呼の声が上がる。俺はどっちかと言うと畑よりベアトの様子が気になって仕方ないのだが、彼女の表情は平らかで、むしろ口元には俺しかわからない程度の笑みが浮かんでいる。なぜだかわかんないけど、本当に調子が良くなっちゃったみたいだ。


「お願い、もう一度背中から」


 ぶっきらぼうなおねだりに、俺は慌てて華奢な身体にへばりつく。思わず腰を引いてしまうのは仕方ない。こんなに密着してしまった体勢じゃあ、猿みたいな俺は、あらぬところを元気にしてしまうからな。そんな俺の心理を読んだのか、ベアトの口角が上がる。


「よし、最後の仕上げ」


 それは不思議な眺めだった。一面緑の絨毯が、手前からじわじわと黄金色に染まっていく。ゆっくり……ゆっくりだけど、確実に生命を育み、豊かな実りをもたらす、ベアトの魔法。母さんやリーゼ姉さんみたいに派手な殺戮劇は展開できないけれど、とても優しくて、すべてを包み込む、慈母のような魔法なんだ。まあ、操る本人が無表情で、ぜんぜん慈母に見えないところが、アレなんだけどな。


 そしてベアトが、深い深い息を吐いた。それは彼女の魔法が、満足すべきレベルまで完成したということ。いまや麦畑は見渡す限りの黄金色、重く実った穂がその頭を垂れている。


「こ、こんな……」

「たった一日で、麦を実らせるなんて!」

「ベアトリクス様、ありがとうごぜえますだ!」


 目の前で民を飢饉から救う美しきお姫様。みんなが称賛してくれるのは計算通りだ。だがこのへんからが、この中世的世界の人々のめんどくさいところだ。


「奇蹟だ! こんな奇蹟を起こせる王女様は、神様に違いない!」

「そういや王女様のお姿は、教会にあった地母神様の像に似ていらっしゃらないか?」

「そうよね! ベアトリクス様は、地母神の降臨された姿に違いないわ!」

「地母神ベアトリクス様!」


 いやいや、神様はそう簡単に降臨しないでしょうよ。それに、ベアトの姿が地母神像に似てるって言うけど、教会に置いてあるあれは確か、石膏像だったよね。普段から「陶器人形」って言われているベアトの真っ白く無表情で冷たい容姿が同じように見えるのって、ものすごく当たり前だよね? 妙なところで神格化されると、後が厄介なんだけど……


 戸惑った俺がベアトに目をやれば、そこにはいつもに似ず、本当に母親が幼子に注ぐような慈愛の笑みをたたえた、少女の姿があった。戦では輝けなくとも、己の力で民を苦しみから救うことができた喜びが、その目に、口元に、柔らかく緩んだ頬に、あふれている。


「ありがとルッツ。こんな日が来るなんて、思ってなかった。みんなが私を、慈しんでくれてる」


「全部、ベアトの力だ。ベアトは女王にふさわしい力を持って生まれてきたんだ、自分を信じて、進んでいけばいい」


「ううん。私一人じゃ、中途半端にしかできなかった。ルッツが手順を考えて、人々を集めて、役割を決めて……そして最後に、よくわからないけど力をくれた」


「……」


「もう私は、ルッツのいない人生なんて考えられない。だからお願い……ずっと一緒にいて。私がこの世の生を終えるその日まで、隣に立って見守ってほしい」


 うっ、これもやっぱり、逆プロポーズ的なやつなのか??

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