第27話 冷静なお姫様
「え、ベアトリクス殿下! ど、どうしてここに?」
「どうしてと言われても……ここは、私の寝室です」
その瞬間、俺はハメられたことを悟った。契約書まで交わしたというのに、王宮はまだ俺がこの婚約を放棄して、逃げ出すのではないかと疑っているのだ。
「この仕掛けは……既成事実をつくるため、ということでいいのですか、殿下?」
「ええ、ルートヴィヒ様が推察した通り、これは私と貴方の『既成事実』をアピールするためのもの。本当に『既成事実』が成立したかどうかはどうでも良いのです、若い男女が一晩寝室で一緒に過ごしたという事実さえあれば、王女の私は立派な傷物、これで結婚がならねば、国中の笑いものとなりますので……フロイデンシュタット家はその責任を取りなさい、ということなのです」
「殿下。貴女はそんな意図を承知した上で、その企みに乗ったのですか?」
「はい。私には国のため、強き王族を儲ける義務があります。ルートヴィヒ様という有望な種馬を、逃がすわけにはいかないですから」
あくまで冷静に、恥じらうでもなく戸惑いを浮かべるでもなく、まるで政務を処理しているかのように淡々と語る王女様に、俺は気圧されていた。侍従さんの言っていた「己の感情を抑えて……」というくだりが、一気に理解できてしまう。
「しかし、結婚は女性にとって人生最大のイベントです、それをこんな簡単に決めるなど」
俺が言い募ると、王女は少しだけ口角を上げた。それは喜びの感情はこもっていない、公式行事で民衆に向ける微笑と同じものだ。
「いずれにしろ、私の結婚は陛下……母上が国益を最大限に考えて決めるもの。自身で相手を選ぶことなど、できないのです。それを考えれば、婚約直前でも貴方を自分の目で見ることができた私は僥倖でした。少なくとも清潔で、誠実そうな男性だということは理解できましたので」
そうだよな。他国からの婿なんかだったら、初めて顔を合わせて生理的に合わなくたって、その時にはもう断れないところに進んでいるわけだし……そう考えると、このお姫様が可哀そうに思えてくる。
「そんな顔をされなくて結構です。私は王族としての責務と権限に誇りを持っていますから。陛下が選んだ配偶者とつがって後継者を産むことも、その一部なのです」
「はっ、おかしな反応を致しまして申し訳ございませんでした、殿下」
俺は素直に頭を下げる。変な同情を寄せることは、彼女が持っている王族としての誇りを、傷付けることになるだろうから。俺に出来ることは、彼女を困らせず、居心地のよい場所をつくってあげることくらいだろう。幸いなことに、清潔感だけは認めてもらえたようだから……ジーク兄さんの勧めで、王宮に上がる直前に湯浴みをしてきて本当に良かった。
「謝罪は受け取りました。ときに、貴方は私の婚約者……やがて配偶者になる人です。公式の場以外では、敬語はやめて素で話して下さいませんか? そして、殿下ではなくベアトリクス、いえ、ベアトと」
「はぁ……べ、ベアト……様」
「様は余計です」
「……ベアト」
「結構ですわ」
「なあ、ベア……ト。俺だけ素で話して、ベアトは敬語のままって、おかしくないか?」
「……そういえば、そうですわね」
そんな指摘をされたことが、彼女には新鮮だったらしい。しばらく鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていたけれど、やがてその頬が自然に緩み、薄ピンク色の唇から健康的な白い歯がのぞいた。感情のない陶器人形のようだった彼女が、初めて年頃の少女に見えた瞬間だった。
「ありがとう、ルートヴィヒ様。私も貴方の前では、よそ行きの言葉をやめる。あの……ルッツと呼んでも、いいか?」
「もちろん、嬉しいよ」
俺はベアトの手をとって、自分の両手で包み込んだ。彼女は少し頬を染めて、しばらく俺の体温を感じているようだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ベアトの寝室には、当然ながらベッドが一つだけ。さすがに仕組まれた初夜は勘弁して欲しい俺は、上衣を脱いで傍らのソファに身を沈める。
「あの……来ないのか?」
翡翠のような深碧の瞳に見つめられてそんなことをささやかれたら、いきなり決意が鈍ってしまいそうだ。俺は自分の脳内で暴れまわる猿と戦いつつ、辛うじて答える。
「ベアトは、魅力的だと思っている。だけど、するのは今日じゃないと思うんだ。きちんと、心が通い合ったところで、したいというか……」
珍しいことにベアトから、くすっというように控えめな笑い声が漏れた。
「ルッツは、意外にロマンチストなのだな」
「意外は余計だよ。身体に触れるなら、心にも触れたいって言うか……」
そう、なんか元世界昭和の価値観ってか道徳観ってか、そう言うものがまだ捨て切れないんだよ。
「ふうん……そんなルッツが種馬デビューで最高評価って、面白い」
「できれば種馬なんか、やりたくないんだよ。だけど貴族の義務だって言われて」
「まあ私も、王族の義務に縛られてるし、お互い様か」
気が付けばベアトの口調も、齢に似合った感じにこなれてきた。少しは仲良く……なれたのかな。そんな想いが漏れてしまっていたのだろうか、ベアトが突然言った。
「もっと仲良くなるために、一緒に寝よう」
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