第2話 憑依した?

 自分の姿を見て固まっている俺に、自称兄だという少年が、声のトーンを優しく変えて、語りかける。


「なあルッツ、お前は先週馬から落ちて頭を強く打って、六日間意識を失っていたんだ。何も覚えていないというのは、そのショックが悪さしているのかもしれないね。ゆっくり休むといいよ、僕は父上と母上にお前が目覚めたことを知らせてくるからね」


 この少年、見た目が秀麗なだけでなく、どうやら頭脳も優秀らしい。普通なら慌てて取り乱すところだろうに、いち早く落ち着きを取り戻している。動転してしまっている俺より、精神的には大人なのかもな。


 彼が出て行って、俺はもう一度掛け布団をあごまで引き上げ、今の状況を考えてみる。


 なんだか俺の姿が西洋美少年になったことは、夢じゃなく事実のようだ。お約束だがほっぺたをつねってみたりしても、やっぱり痛いと確認できただけのこと。


「これはもしや……俺はこの子に、憑依してしまったと言うことか?」


 会社ではガチガチの保守派と言われた俺が、随分突飛なことを思いつくもんだ。まあ俺は、隠れラノベ好きだったから、そういうことに理解があるわけさ。息子がスマホで毎日読んでいたものだから、共通の話題つくりのつもりでちょっと読み始めたら、俺のほうがハマってしまったんだ。


 異世界転生や転移、そして憑依だって何でもあり、現実世界の制約から解き放たれた主人公が思いのままに第二の人生を満喫するストーリーは、定年直前のジジイにも十分楽しめるものだった。というより、理不尽なストレスがやたらと降りかかる五十代の俺が、ちょっとの間現実を忘れられる、そんな趣味だったのかな。


 それはともかくとして、これが夢じゃないということが確かだとすると、理由は分からないけどこの少年の身体に、俺の意識が憑依しているとしか考えようがない。この子にもともとあったオリジナルの人格がどうなったのか考えると胸が痛むが……おそらくは、憑依のきっかけとなったという落馬で生命を落とし、そこに俺がするっと入り込んだのだろうな。


 そう考えると、定年退職したばかりだった元の俺も……やっぱり死んでしまったのだろう。泥酔してそこら辺のベンチで変死とは、格好つかないことおびただしい。まあ、悲しむ人が少ないのは幸いか……長年俺を支えてくれた妻は二年前に先立って、家族といえばすでに独立した息子だけだからな。


 ということは、俺はこのルッツと呼ばれた少年として生きていかないといけないってことだ。言語は何とかなりそうな感じだが、俺はこの子が今まで家族や友人と過ごしてきた日々の記憶を、まったく覚えてないからなあ。おまけに、俺がたった今いるこの場所がどこかすらわからないんだぜ。壁や柱の造りを見るに、どうもヨーロッパ中世風だ。こんなごてっとした内装は、今の日本じゃあ地方の勘違い系リゾートホテルでも、お目にかかれない。こんな古風な建物が現役ってことは、やっぱりここは本物のヨーロッパなのかな。


「さっきの『お兄さん』に聞くしかないよなあ」


 あの少年は聡いようだったが、こんな荒唐無稽な憑依話を、どこまで説明したものか。そんな悩みに深くため息をついたその時、ばあんと凄い音を立てて、重厚な入口ドアがぶち開けられた。


「ルッツ! 目覚めたのね!」


 力強いアルトが響いたかと思うと、燃えるような真紅の長い髪をなびかせた女性が飛び込んできて、俺の頭をがっとその胸に抱き込んだ。なかなか結構な胸部装甲で、力も女性とは思えぬほど強く……うっ、息ができない。


「母上! ルッツが苦しがっていますっ!」


 さっきの少年が助け船を出してくれて、ようやく俺は窒息死から免れた。


「あ、ごめんなさい。ルッツが目覚めたって聞いたらもう、居ても立ってもいられなくて……本当に良かったわ。記憶が混乱してるらしいってジークから聞いてるけど……母さんのこと、わからない?」


 そう言ってはしばみ色の瞳を向けてくるこの「母さん」は、かなりの美人だ。目鼻立ちがはっきりしていて、表情には活気があふれている。すらりとした身体を中世風デザインのジャケットとパンツに包んだ、四十代にようやく差し掛かったかという年代の、魅力あふれる活動的な女性だ。


 だけど彼女のことを覚えているかと言われても、毛ほども思い出せない。かつてのルッツ少年の記憶は、こうして近親者が触れてきても蘇るものではないようだ。綺麗な女性に嘘をつくこともできなかろうと、俺は口を開く。


「ごめんなさい、全然、思い出せないんです」


「そう……うん、でも、大丈夫。ゆっくり休んで身体を治して、ルッツの好きな場所をゆっくり巡っていけば、思い出せるはず。いまは、のんびりすることよ」


「はい、ありがとう……ございます」


「じゃあ、ルッツのお世話は、ジークが指示を出して、アヒムお願いね。アルブレヒトも、もっとついていてあげなくちゃ!」


「そうだね。私もできるだけ様子を見に来ることにしよう」


 赤毛の「母さん」が、ちゃきちゃきと命じてゆく。ジークはさっきの少年だとして、深い礼で応える執事風の初老男性がアヒムさんなのだろう。最後に答えたアルブレヒトさん……というのが、ひょっとして俺の父親に当たる人なのだろうか。


「それじゃ、任せたからね!」


 大きく右手を振って「母さん」は部屋を出ていった。

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