第3話 物わかりのいい兄さん

 たぶん俺の父なのであろうアルブレヒトさんも、同じく忙しいのかそそくさと出ていき、残ったのは執事のアヒムさんと、ジークと呼ばれた……俺の兄だという少年。ジーク兄さんは俺の様子から何か察するところがあったらしく、アヒムさんに俺に与える食事だの飲み物だのを指示して退出を命ずると、ベッド脇の椅子に品よく座って、茶色の視線を真っすぐ俺に向けた。


「ルッツ。いや、たぶん君はルッツであって……ルッツではないのだろうね。言いにくいことかもしれないが、よければ僕に事情を話してくれないかな。大丈夫、中味がだれであろうと、ルッツの姿である君を、悪いようにはしないから」


 うわっ、やっぱりバレていたか。この身体に意識だけ憑依しているとわかっていたらもう少し取り繕えたと思うが、最初にこの少年の前で見せた反応が、怪しすぎたからなあ。そしてこのジークと言う兄さんは相当切れる頭脳を持っているようだし、「こいつは弟じゃない」って気付かれちゃうのは、仕方ない。


 しばらく逡巡した俺だけど、結局選択肢は二つしかない……徹底的にトボけ倒すか、全部ぶっちゃけて、彼に頼るか。哀れなルッツ君の記憶が今後俺に降ってくることは期待できないし、一人も味方がいない状態で一生トボけ続けるのは、きつすぎる。ならばジーク兄さんを、信じてみようか。


「そう、俺は君の言う、ルッツ君ではない。この身体に入る前は、マエダ・キョウヘイという名前だった。ああ、ファーストネームはキョウヘイの方だよ」


「家名が前に来るのか……はるか東方では、そんな名前の付け方をすると言うけど……」


 はるか東方って? いや、いくらヨーロッパ人でも、中国とか日本とか学校で習うだろ。ましてやこんな聡明そうな少年なのだ、学びに手を抜いているようには思えないのだが。


「俺は日本人だ。日本は、もちろんわかるよな?」


「ニホン? そんな領地は知らないぞ? 少なくとも地図には載っていないな」


 そう言ってジーク兄さんが壁を指さす。そこに世界地図が貼られているのを見た俺は、一瞬で絶望した。古めかしいデザインの地図にはアメリカ大陸が存在せず、もちろんと言うべきかオーストラリアも南極も記されていない。ユーラシア大陸にちょっとだけ似た大きな島と、アフリカにちょっと似た島がつながっているだけの世界。すがるような思いで大陸の東端を探しても、そこには日本らしき島は、見当たらない。


 おかしい、ここはヨーロッパではなかったのか。日本で死んだ俺の精神が、ヨーロッパのどこかで運悪く死んだ少年の身体に憑依したということではなかったのか?


 俺の脳内に、最悪のケースが浮かぶ。もしやこれは、ラノベで言うところの「異世界」なのではないか?


「あの、ちょっと聞いていいかな。俺たちがいるこの国は、なんていう国なのかな?」


 それを聞いたジーク少年の顔に「やっぱり」というような表情が浮かぶ。だが彼は余分なことは口にせず、ただ俺の質問に答えてくれた。


「この国は、ベルゼンブリュック。西隣がリエージュ公国、東にはポズナン王国、北には……敵対するリュブリアーナ帝国があるね」


 ああ、やっぱりだ……俺の頭にある世界地図に、彼の挙げた国は、ひとつもない。ここは、俺の知らない世界なのだ。


「あ、キョウヘイ? 大……丈夫かな?」


 気が付けばジーク兄さんが、心配そうな視線を俺に向けている。いかん、六十年も生きてきたはずの俺が、こんな少年に気を使わせているなんて。動揺する気持ちを抑え、声が震えないようにゆっくりと答える。


「ありがとう、想像もしなかったことが起こって、ちょっと混乱しているだけだよ。どうやら俺は、この世界の人間では、なかったみたいだね」


 そして俺は、ジーク兄さんが混乱しないようにできるだけ順々に、ここまでの経緯を話していった。違う世界の日本と言う国で六十年間暮らし、家族もいたこと。酒をしこたま飲んで外のベンチで寝込んだ後、目覚めたらもう、ここにいたこと。


「とても常識から考えたらありえない話だけど、信じるしかないよね。記憶喪失のことはともかく、目覚めた後の人格は、明らかにルッツのものではなかったから。そうか……キョウヘイの話を受け入れると、ルッツの精神はもう、失われてしまったのだろうな。母さんが悲しむだろうけど、仕方ない」


 まつ毛の長い秀麗な目を伏せつつも、あくまで理性的な考えを口にするジーク兄さん。随分大人っぽい思考をする少年だけど、いくつなんだろう。俺は十三歳だっていうから、十五くらいなのかな。


「今の話を聞く限り、キョウヘイはこの世界で生きて行くことを考えるべきだよね。そして僕は、キョウヘイをルッツ……弟として受け入れないといけないよね」


「多分……そうなるのだろうなあ」


「なら、これから先は君をルッツと呼ぶことにする。そして、君が異世界の人間だってことを、できるだけまわりの人に悟らせないようにしたいね」


「そのほうがいいんだろうね。記憶のことは、戻らなかったと言ってなんとかなるかもしれないけど……この世界の習慣や文化は、俺の暮らしてきたところとずいぶん違うみたいだ。いっぱいボロが出そうだなあ」


「その辺は、僕が教えてあげるよ。可愛い弟のためにね」


 ジーク兄さんが、いたずらっぽい表情で笑う。大好きだったであろう弟を失って内心は穏やかでないだろうに……本当に、理性的で優しい少年だよなあ。


「ありがとう……よろしく、兄さん」


 俺たち二人はどちらからともなく、笑いあった。


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