定年後は異世界で種馬生活

街のぶーらんじぇりー

第一章 定年おじさんは天才種馬

第1話 若返った?

「ルッツ! ルッツ!」


「ううん……」


 う〜ん、頭が痛い。俺は、例えて言えば豚骨ラーメンのスープみたいにどろどろ濁った眠りの中から、ようやっと意識を取り戻した。


 なぜだか俺は、覚えのない重厚な造りのベッドに寝ていて……銀の髪と茶色の瞳を持つ、やたらと整った顔をした十代半ばの外人少年に揺さぶられていた。この子が誰なのかさっぱり分からないが、その表情を見れば、彼が本当に俺のことを心配してくれているのがよくわかる。見ず知らずの日本人にこれほど気を使ってくれるとは、感心なことだ。欧米人はそれほど好きではなかった俺だけど、こんないい子がいるのなら、少し考えを改めねばならないか。


 いや、とりあえずそれは置いておこう。問題は俺がどうして、こんなとこに寝かされているかだよな。


 俺は昨日、めでたく定年退職の日を迎えた。まあ、めでたく……というよりは、ついに来てしまったかという感じではある。大学を出て、昭和の最後の最後で今の会社にぎりぎり滑り込んで以来、もう四十年弱ほど経っている。もはや朝早くに眠たいまぶたをこすりつつ電車に乗って会社へ向かうことが、あたかも呼吸をするように生活の当たり前になっているのも、無理ないことだ。これからは会社と関係ないところで生きていく意味を見つけていかなければならないと思うと、若干の戸惑いを感じないわけにもいかないが、それはまあ追々考えればいいだろう。


 そんなわけで昨晩は、部下だった奴らと日付けが変わるまで、羽目を外して飲み歩いたんだ。会社の中では派閥とか、親分子分を作ることをしてこなかった俺だが、それでも気にいって別れを惜しんでくれる若い連中が、結構な数いたらしい。自分の子供より若い、可愛い女性に泣かれたのにはちょっと参ったが、いい思い出になった。


 家まで送るという若者たちの親切な申し出を丁寧に断り、千鳥足で帰る途中ふと身体の重さを覚え、たまたまそこにあった木のベンチに座り込んだらやたらと気持ちよく、ちょっとだけ目をつぶったところまでは、記憶にある。そのまま寝入ってしまったんだろうと思うのだが、それならなぜ今の俺はこんなまともなベッドに寝ているんだろう。親切な誰かが運んでくれたのだろうか? だけど俺はそれほど痩せてないぞ、大人が二人がかりでもなけりゃかつぐなんて無理だし、そこまで大っぴらに運ばれたら、なんぼ俺が酔っ払っていたって、気が付くはずなんだがな。


「ルッツ!」


 だけど、さっきからこの少年、俺のことをなんだかかっこいい横文字で呼んでるじゃないか。それもなんだかドイツ風のネーミングだ。俺も海外に出張したときは「キョウと呼んでくれ」と言って回っていたが、こんなゲルマン系ネームとは、縁がなかったはずなんだ。


「あ、ハロー? うん、英語じゃない? こんにちは、どうも……通じてるかな?」


 少し驚いた顔をする少年だが、俺の言っていることは理解できているらしい。良かった、実のところ、俺は英語がとっても苦手なんだ。部長になるとTO◯IC七百点取るのが義務って会社から言われたときは、気が遠くなったもんだった。


「君がどなただかわからないけど、多分寝込んでた俺を、助けてくれたんだよね。本当にありがとう、このお礼は改めて必ずしよう」


 俺の返答を聞くうちに、なぜだか少年の表情が最初は怪訝に、そのうち奇妙なものを見るように……そして最後は、絶望したように変わる。


「ルッツ! お前、記憶が……無くなったのか?」


 いや、記憶はあるんだよ。少なくとも、酔っ払ってあのベンチに座り込むまでは。


「僕がわからないのか? ずっと一緒に育ってきた……お前の兄さんだぞ?」

 

 うん、わからないんだ……ん? この少年、今なんて言った?


「兄さん、だって?」


「おいルッツ、本当に、覚えてないのか……?」


「いや大体、君のような少年が、俺みたいなジジイの兄さんだなんて言われてもなあ」


 少年が、驚きとも呆れともつかない、微妙な反応をする。う〜ん、俺は真面目に答えたつもりなのだが。


「ジジイだって? ルッツ、お前は一体、何を言ってるんだ? よく自分の姿を見てみろよ、どう見たって、十三歳の子供じゃないか」


 そう言われて、少年の指差す先の壁にかかる、やや装飾過剰な鏡を何気なく見た俺は、驚きに固まってしまった。なぜって、そこに映った自分らしき姿が、まごうかたなき十代前半の、せいぜい中学生くらいのものであったのだから。


 容姿の変化は、若返っただけのものではなかった。髪はサラサラの銀色を呈し、目はエメラルドのような深く濃い碧色だ。これってどう見ても、百二十パーセント外人の格好だよな?


 そして、その顔立ちもやたらと無駄に美しい。すっきりした顎のライン、キュッと細く高い鼻筋、コンパクトな桜色の唇。切れ長の目に、秀麗な細眉。まるで、十代の頃姉貴から借りてよく読んだ、少女マンガのヒーローみたいじゃないか。


「これが……俺だって?」


 おい、一体俺の身に、何が起こったって言うんだ?

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