1-4
翌日夜。いや、もう日付が変わっているので翌々日未明と言うべきか。
時刻は既に一時を回った。俺は新川と一緒に、大学構内をさまよっている。
「なあ新川、俺達はどこを目指してるんだ?」
新川の部屋を訪ねたのが午後六時。それから夕飯をすませたり、新川が準備を整えるのを待ったりして、出発したのが日付が変わる直前で、もう既に一時間以上歩きまわっている。
俺達が通うこの大学は、敷地面積自体はそんなに広くない。外周に沿ってまっすぐに歩けば、十五分弱で横断も縦断も可能なはずだ。ただし地面の起伏が比較的激しく、建物の並びに規則性はなく、道は入り組み、構内に小規模な森があったりして、面積の割に複雑な地形になっている。
もう一年ほどこの大学に通っているが、未だに油断すると構内で迷子になる可能性は否みきれない。敷地の外は徒歩十五分四方なのに、敷地の中を歩くと一時間かかっても通り抜けられなかったりする。
さっきから新川にくっついて歩きまわっているが、この易者の歩の進め方にはまったく規則性がない。気まぐれに道を曲がっているとしか思えない。おかげでもう方向感覚は失われつつあり、今どこにいるのかもよく分からない。
「どこを目指してるのかは私にもよく分からないんですよね」
「おい」
先導してる人間が目的地を分かっていないんじゃどうしようもない。
「学内に幾つか池があるのは知ってますね? その中のどれかが目的地になります。本来は水辺に出る存在ですからね」
「なんだ、曖昧だな。でもそれじゃあ、まっすぐ適当な池を目指せばいいじゃないか」
「話はそう簡単でもないんですよ。鵜坂くん、方違えって知ってますね?」
懐中時計で時間を確認しながら新川が言う。
「ああ、平安貴族の縛りプレイだろ?」
「縛りプレイって……」
日によって吉になる方位と凶になる方位があるから、移動するときは凶方位を避けよう、っていうのが方違えだった筈だ。例えば北東が凶方位だけど北東に用事がある場合、一旦東に移動してから北を目指す、みたいな面倒なことを平安貴族はやっていたらしい。実にやんごとないことだ。
「方違えって本質的には、神や鬼に出くわさないようにするための作法なんですよ」
「ふぅん?」
「それで我々は今、方違えの反対の事をしています」
辻にぶつかると、新川は躊躇なく右折を選んだ。
「凶方位に向かって動いてるってことか?」
「そういうことです。本来の陰陽道での方違えに加え、奇門遁甲やら占星術やらも盛り込んでやってるので、だいたい十分単位で方位の吉凶が変わりますが」
「なんでわざわざそんなことを?」
「勿論、鬼に出会うためですよ」
「俺は会いたくないんだが……」
「会わないことには事態解決の糸口がつかめないですからね。いざとなったらそのスコップで戦ってください」
俺が携えているのは、鉄でできたやたらに重いスコップだ。出発する時に新川から「はい、武器ですよ」と押し付けられたものである。
「スコップでなんとかなるのかよ」
「聞くところによれば、スコップというのは極めて優秀な白兵戦用の武器だそうですよ? 故障しないし、取り扱いは簡単だし」
「いやでも、相手は鬼なんだろ? スコップで鬼退治したなんて話、聞いたことないぞ」
「ふむ」
「ふむじゃなくて」
そんな会話を続けながらなおも暫く歩き続けていると、不意に新川が足を止めた。
「着いたようですね」
目を上げてみれば、俺達が立っているのは、池のほとりである。丸い池で、差し渡しは三十メートルくらいだろうか。
「こんな池があったのか……ここ、大学のどの辺だ?」
「えーと、中央図書館があそこに見えてますから、ここは敷地の南西の外れの方ですね」
周りに建物が建っている。南西の外れってことは、一番近くに見える建物が人文学部棟である筈だ。明かりのついている窓が幾つか見える。どうやらこんな時間になってもまだ活動している研究室があるようだ。
「ここが目的地なのか?」
「その筈です。私の占いが外れていなければ」
「でも、何も無いぞ?」
周りを見回しても、雪が積もった地面の上に、やはり雪の積もったベンチが幾つかあるだけだ。あとは街灯が立っていて、地面にほの暗い光を投げかけている。雪がそれを反射していて、視界に困るほど暗くはない。発光体が漂っていたり、牛の頭部を持った大男がいたりする様子はない。夜の大学はいたって静かだ。
「まあ少し、周りを調べてみましょうか」
新川はそう言って、池のほとりをゆっくり歩き始めた。仕方ないので、俺も何か変わった物がないか探すことにする。
二十分後。
「……いややっぱり、特に何も無いぞ」
歩き回って探索を試みたが、何も見つかりそうにない。ずっと下を見ながら歩いていたから首や腰が少し痛い。近くの雪にスコップを突き刺し、体を伸ばして休憩する。
「――あの、すみません」
「えひっ!?」
不意に声をかけられたのでたいそう驚いた。若い女性の声である。
声の方に振り向くと、赤ん坊を抱いた若い女の人が立っていた。ひどく顔色が悪く、この寒さなのに額には汗の玉が浮かんでいる。
「すみませんが、この子をちょっと抱っこしていてください」
「え、あ、はい」
「鵜坂くん!」
反射的に、差し出された赤ん坊を受け取ってしまった。新川が珍しく慌てたような声を出す。
「ありがとうございます……」
そう言い残して、女の人はフッと消えてしまった。
「うおぉ……」
明らかにこの世の物じゃない。やってしまった感がものすごい。
「あ~……」
新川は相変わらず微笑しているが、雰囲気としては困惑と諦念がないまぜになった感じの顔をしている。
「新川、どうしよう?」
「どうしましょうねぇ」
「赤ん坊投げ捨てればいいのか?」
腕の中の赤ん坊を見ると、声も立てずに静かに眠っている。妖怪の眷属とは思えない可愛らしい顔立ちをしている。乱暴に投げ捨てるのは大変気が引ける。
「ふぅむ」
新川も赤ん坊の顔を覗きこむ。
「……息をしてませんね」
「おいマジかよ死体かよ」
「死んではないですよ。あったかいでしょう?」
言われてみれば、大人よりも少し高いだろう体温が感じられる。
「生きてるけど息してないって、つまりどういうことだ?」
「さて、どういうことでしょうね。……しかし、今のは」
「今のは、なんだ?」
「鵜坂くんは気付きませんでしたか?」
「気付くって何に――うおっ」
「どうしました?」
「急に重くなりだした……」
「あ~……」
「これからどうなるんだ?」
ロクなことにならないだろう事はわかる。
「昨日、いやもう一昨日ですか。説明しそびれましたが、ウブメは牛鬼という妖怪の化身、または眷族とされる場合があります」
「牛鬼?」
「牛鬼という妖怪は地方ごとに異なる伝承を持ちます。ある地方では蓑火、ある地方では毬のような小動物。牛首人体の鬼だったり、逆に人首牛体だったり、鬼首を持った大蜘蛛の形だったり」
「うん? なんかどっかで聞いたような……」
「ええ、最近大学で目撃されている諸々ですね。これに出会うと即死するとか、病気になって死ぬとか、喰い殺されるとか」
「――」
「それでですね、ウブメを眷族としている牛鬼の話です。まず、夜の道端に赤ん坊を抱いた女性が立っていて、声をかけて来ます」
「今みたいにか?」
「そうです。で、赤ん坊を受け取ってしまうと赤ん坊が重くなり、被害者は動けなくなります」
「今みたいにか?」
「そうです。で、動けなくなったところを見すまして牛鬼本体が現れ、被害者を美味しく頂くという寸法です」
「なんでウブメは牛鬼に協力してるんだ?」
「さて。化身である場合は牛鬼が化けてるだけだから話は簡単ですが、眷族の場合はどうなんですかね? 牛鬼に喰い殺された妊産婦が、死後も利用されているのでは?」
「もしそうなら、この赤ん坊も被害者なのか……」
殺された挙句成仏できずに利用されているとしたら、あまりに救われない話だ。
「どれ……お、どうやら外せそうですよ、っととと」
「おいバカ、危ない危ない!」
俺の腕の中から、新川が赤ん坊を取り上げる。その途端に、体感では既に十キロくらいに達している赤ん坊の重みに負けて、新川はよろめく。筋力がないモヤシなんだからもっと気を付けるべきだ。慌てて赤ん坊を取りかえす。
「いや鵜坂くん、なんでもう一度抱っこするんです? そのまま手放せば解放されるでしょうに」
「言われてみればそうだな……なんか、放りだしちゃいけない気がして」
「ふむ。一、父性本能。二、牛鬼の呪縛的な何かで魅了されている。三、その他の理由。どれでしょうね?」
「呪縛って、牛鬼ってチャームも使うのか?」
鬼がチャーム使うなんて聞いたことがない。
「さあ?」
「さあ? っておまえ」
「なんせ、被害者はだいたい死んでるからサンプル少ないんですよ」
「おぉ……」
「う~ん。まあでも今回に限っては、手放さないのが正解かもしれませんね」
新川は、俺の腕の中の赤子の頬をつつきながら言う。赤ん坊は特に反応しない。
「なんだ、小判に変わるのか?」
「いえそういう呑気な話じゃなくてですね。鵜坂くん、さっきの女性を見て何か気付いたことはありませんか」
「さっきもそんなこと言ってたな。気付いた事って言われても……うん?」
改めて思い返してみると、なんだかどこかで見た顔な気がしてきた。どこで見た顔なのかは思い出せそうで思い出せない。
「どっかで見た気がするが、思い出せない。新川、分かってるなら教えてくれ」
「あいすみませんが、ちょっと教えてられないです」
「なんでだ?」
「本体がお出ましだからですよ。ほらあそこ」
新川が指さす方を見ると、池の真ん中辺りにブクブクと泡が立っている。次の刹那、その水面が急に盛り上がった。
「ほら鵜坂くん、あれが牛鬼ですよ。いや、牛鬼の形態の一種と言う方が妥当ですね」
普段と変わらぬ調子で新川はいうが、池の真ん中に姿を表したのは化け物としか言いようのないシロモノである。胴体はなるほど、大きな蜘蛛だ。脚も八本ある。顔は鬼のものである。口からは乱杭歯がのぞき、目は燐光を放っている。目にした瞬間、胃袋が引き絞られるような感覚を覚えた。捕食者の威圧感とでも言うべきものが突き付けられている気がする。まだこちらを捕捉してはいないようで、獲物を探すように辺りを見回している。こちらに気がつけば、おそらく一直線に駆け寄ってくるだろう。
易者なんて因果な稼業をやっている友人の傍にいると、怖いモノを見る機会もしばしばある。だから妖怪や幽霊という物にある程度耐性がある筈なんだが、目の前のバケモノは俺のささやかな恐怖体験なんて軽く吹き飛ばす程度に恐ろしい。今の俺は、生物としての本能レベルでの恐怖、つまり死への恐怖を感じている。
「ふむ。悲鳴を挙げなかった事は褒めてあげましょう」
新川は平然としている。
「正直に言うとな、怖すぎて声も出ない」
「おやおや。でもまあ、気付かれてないのでしばらくそのまま、大声は出さずにいてくださいね」
「なんで気付かれてないんだろうな? そんな遠いわけでもないのに」
「不意の遭遇戦を避けるために、お守りを用意して来ましたからね。大きな声を立てなければ、当面は気付かれません」
「そうか。それで、アレはなんだ」
「ですから牛鬼ですってば。さて鵜坂くん、逃げれそうですか?」
「いや無理だ、足が動かない」
恐怖で足が竦んでいると言うのもあるが、腕の中の赤ん坊の重さが物凄い。牛鬼が池から現れてから、重さの増え方が加速している気がする。足が地面にいくらかめり込んでいるような感覚がある。そのうち脛の骨が折れるかもしれない。とてもじゃないが、走って逃げるなんてことができる状況じゃない。それじゃあ赤ん坊を投げ捨てれば良いんじゃないかと思わないでもないのだが、意思に反して腕はより強く赤ん坊を抱き締めている。
「もうダメだ、おまえだけでも逃げろ」
「かっこいいですね。でも私に走って逃げるような体力は御座いません」
割と危機的状況であると言うのに、新川は牡蠣的根性を発揚する。
「こんなときぐらい無理でも走れ!」
「そもそも見捨てるくらいなら最初から連れて来ませんよ。逃げられないのだから仕方ない、ひとつ片付けることにしましょうかね」
事もなげに言う。
「片付けるったって、あんなもんと戦えるのか? 昔カブトムシと戦って負けてただろおまえ」
「あれは子供のころの話ですよ。今はカブトムシ相手なら判定勝ちに持ち込めます」
ショボい。何を威張っているのだ。
「そんなレベルじゃアレには勝てないだろ」
「まあ、無理でしょうね」
「じゃあどうすんだ」
「まずこうです」
新川は懐から何かの袋を取り出し、中身を地面にぶちまけた。
「なんだそれ」
「大豆です」
「成程、鬼には豆をぶつけるのか……いや、ぶつけなきゃダメだろ。なんでその辺にぶちまけたんだよ」
「アレは豆ぶつけたくらいじゃ倒せません。これでいいんです。で、次にこう」
俺がその辺の雪につき刺しておいたスコップを両手で引きぬいた新川は、それで傍らの街灯を思いっきり叩いた。
カァン!
甲高い金属音が四辺に響き渡る。当然、牛鬼もこちらに気づく。バケモノはニタァと嫌な笑みを顔に浮かべた。
「いや何してんだおまえ!?」
反動でよろめいている新川に思わず怒声を浴びせ掛ける。折角お守りとやらで気付かれずに済んでいたのに、台無しである。
「だって、こっちから池の中に突っ込んでくわけにはいかないでしょう? 寒いですし。まあいいから、鵜坂くんはその赤ちゃんをしっかり抱いていてください」
俺達がそんなやりとりをしている間に、牛鬼は一気に間合いを詰めてきた。諸君は水面を滑るように移動する蜘蛛を見た事があるだろうか? なければアメンボの移動をイメージしてほしい。あんな感じで、足を広げたまま水面を滑って迫って来た。大変恐ろしい。
池の縁に足をかけた牛鬼は、水面滑走の勢いのままこちらに駆け寄って来た。みんな承知の、蜘蛛の動きである。トラウマになるレベルで怖い。
足は動かせない。腕は相変わらず赤ん坊を放そうとはしない。ああ万事休す、もうこのまま喰い殺されるのか、ああまことに万事休すと胸の中で無暗に間投詞を連発しながら覚悟を決めたが、何故か牛鬼は足を止めた。すごい勢いで突っ込んで来ていたのに、慣性が存在しないかのようにピタッと止まった。何かと思えば、牛鬼は足元に散らばる大豆を凝視している。
「おお!? 豆って本当に鬼に効くんだな!」
「いえこれは、節分の豆とはちょっと原理が違いまして」
「うん?」
「こういうモノの性質として、洋の東西を問わず、豆粒みたいな細かい物が散らばっているとその数を数えずにはいられないらしいんですね」
「なんだその性質……ってことは、別に豆の御蔭で結界的な事になってるわけじゃないのか?」
「ええ、数え終わればまた突っ込んでくるでしょうね」
「他人事みたいにおまえ……どうする気だ?」
呑気に講義している場合ではなかろう。
「『石は流れる木の葉は沈む、牛は嘶く馬は吠える』」
俺にではなく、地面を這いまわって豆を数えている牛鬼に向かって新川は、よく分からない事を言い放った。
一瞬こちらに目をやり、ひどく残念そうな顔をして牛鬼の姿はスッと消えた。
「えっ!?」
「おお、よしよし。ちゃんと有効でしたね」
「なんだ今の」
「古くから伝承されている、牛鬼を退散させる呪文ですよ」
「え、あんな簡単に退散させられるのか?」
印を結ぶとか拍手を打つとか、そういう動作もない。新川はただ自然に、教科書の音読でもするかのような声で呪文を唱えただけである。
「いやぁ、呪文を唱えられるだけの時間を確保しなくてはならないので、成功させるのなかなか難しいんですよ。ごらんになって分かったと思うんですが、牛鬼は力も速さも凄いので」
「……おまえ、最初から俺を時間稼ぎの餌代わりに使う気だったのか?」
もし新川が一人で来ていたら、赤ん坊の重さに耐えきれずに崩れ落ちて呪文は唱えられなかっただろう。かと言って赤ん坊を受け取らなければ、牛鬼は現れなかっただろう。だから新川が一人で来るわけにはいかず、重量物を支えるだけの腕力のある人間を連れてくる必要があり、それが俺だったのではないだろうか。
「いやいやまさか。成り行き上こうなっただけですよ」
いつもの微笑で新川は答える。嘘くさい。追求しようと思ったら、
「おぎゃ……おぎゃあ! おぎゃあ!」
「うお!?」
「おお」
とんでもない大声で、腕の中の赤ん坊が泣きだした。
「な、なんだなんだ、お腹すいたのか!? それともおしめか!?」
「鵜坂くん落ち着いて。育児に慣れてないお父さんみたいになってますよ。これはただの泣き声じゃありません」
「じゃあなんだ?」
「生々の気に満ちたこれは、産声ですよ」
「え?」
「やはりこれはそういうことなんですかね。――おや、消えるようです」
どういうことかと問おうと思った機先を制して、新川は言う。つられて腕の中に目を落とせば、赤ん坊が徐々に透き通り始めている。見守っているとやがて、赤ん坊の姿も泣き声も完全に消え、辺りには夜の静寂が戻った。
「お疲れさまでした鵜坂くん。よくぞ最後まで立ち続けましたね。お見事お見事」
泣き声の余韻が消えた頃、新川が口を切った。
「いや、うん。なあ、今のは一体なんだったんだ?」
「そうですねぇ、流石に歩き疲れましたし、説明は明日ということで」
焦らしよる。
「なあ、これで解決したのか」
「いいえ、一時的に追い払っただけです。このまま放っておけばまた何度でも出るでしょうね。まだもう一仕事鵜坂くんには働いてもらわないとなりません。それも明日にしましょう。いや、もう今日でしたね。今日の昼過ぎに」
「まだ何かあるのか」
「ありますよ、スコップの活躍の機会が」
「なんだ、やっぱりあれと戦うのか?」
「バカ言っちゃいけません。スコップは地面を掘るためにあるんです」
「最初に武器って言ったのおまえじゃないか……」
「とにかく、今夜はこれで解散としましょう。もう時刻は二時の二十分です。明日はお昼ご飯を御馳走しますので、正午頃においでください」
占術クラブ活動報告(抄) 占部蕺 @dokudami_urabe
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