カレーをどうぞ

 終刻の鐘が鳴り、いよいよカレーライスを提供するときがやってきた。

 まずはボヌムが食堂に到着し、自らの指定席に着席した。そして、傍に控えていたオヴィニットに訊く。


「今日の夕食がファヘハットの収入改善につながると聞いたが、おまえの目から見てどうだ?」

「問題ないかと」


 柔和な笑みで端的に告げるオヴィニットを見て、ボヌムは「そうか」と一言だけ返す。たかが料理で、とボヌムは前までならば侮っていたであろうが、里藤の提供する美食を味わってきたことでその嘲りは既に消失していた。

 数分ほどして夫人であるミリアと子息であるポステロスも食堂にやってきて「今日はなにかな」などと食事の内容に関しての会話を楽しんでいた。ついこの前まではあり得なかった光景である。

 変わりつつある食卓にボヌムが笑みをこぼしたところで、食堂の入り口から里藤とクアッドが現れる。クアッドの手には綺麗にヤスリ掛けされた横三十センチ、縦が五十センチの木板が握られている。

 クアッドはボヌムに近づき、「失礼します」といって木板を一枚渡す。ミリアとポステロスにも同じように手渡し、渡し終えるとそのまま里藤の横に控えた。


「ボヌム様方にクアッドがお渡ししたのはメニュー表です。そのメニュー表にはご注文いただける料理と解説を記載しています。注文が決まりましたらクアッドに申し付けください。それでは失礼します」


 一礼して里藤は食堂から退室した。状況がよく理解できないボヌムはとりあえずメニュー表と呼ばれた木の板を眺めた。メニュー表の上部には食堂メニューとリースムガル語で書かれており、その下にはズラッとセットメニュー、単品メニュー、ドリンクと個別にわかれた項目に品名と解説が載っていた。


「クアッドっ、僕はおこさまカレーセットがいい」


 メニューを見て、なにを食べようかと吟味していたボヌムの耳にポステロスの高い声が届く。おこさまカレーセット? と疑問に思ったボヌムがセットメニューの部分を見れば、確かにそれは存在した。セット内容はおこさまカレーとサラダにデザート、子供でも食べきれるように量を調節していますと但し書きがあった。


「かしこまりました。ミリアさまはお決まりでしょうか?」

「ええ。レディースセットとやらをちょうだい」

「かしこまりました。辛さとドリンクをお聞きします」

「そうね、ノーマルでいいわ。飲み物はリンゴジュースを」

「承知しました。ボヌム様は……」


 無言でボヌムは首を振った。政治の話は即断即決出来るが、食事のことになると妙に悩んでしまう癖がボヌムに定着しつつあった。

 何故か退室したクアッドを気にする余裕もなく、まったくメニューを決められないボヌムは、ついに禁断の手を使った。


「オヴィニットのオススメはどれだ」


 オヴィニットに訊いたのである。ミリアはその光景を見て盛大に溜息を吐いた。


 数分ほどして、ミミとクアッドがそれぞれ大きな盆をもって戻ってきた。そして、そのままクアッドはポステロス、ミミはミリアへと配膳する。


「お待たせしました。おこさまカレーセットです」


 目の前に置かれた食事に、ポステロスは目を大きく開き輝かせる。香辛料のいい匂いが部屋に充満し、ボヌムの腹が鳴った。


「冷めないうちにどうぞ」


 クアッドの言葉にポステロスは、木匙を使ってルーが多くかかっている部分のカレーライスを掬って口に運ぶ。ミリアもそれに倣った。


『美味しいっ』


 二人の声が重なった。ボヌムは二人が食べているものが宝石のように思えてきて、クアッドを呼びつけて注文をする。


「リトーセットを頼む」

「かしこまりました。辛さはどうなさいますか?」


 そういえばミリアは辛さを選んでいたなと、メニュー表の端にある辛さ表をボヌムは睨みつけた。辛くないほうから順に甘口・ノーマル・中辛・辛口・激辛と書かれており、ノーマルのところにはデフォルメ化された里藤がオススメと言っているマークがある。


「カレーとやらは辛いのか?」


 今更な疑問にクアッドが苦笑する。


「辛いですね。初めてならノーマルでいいと思います」

「基準がわからん。一番辛い激辛とやらはどんなものだ」

「デレクが泣きました。本当にやめたほうがいいです」


 いつものヘラヘラっとした愛想のいい青年の風貌を潜めて、クアッドは真剣な表情でボヌムに伝えた。デレクが泣いたという情報に、動揺を禁じ得ないボヌムはクアッドへ再び訊いた。


「それは本当か?」

「俺の役回りをウエイターというんですが、従士食堂にて練習がてら先にカレーを食べさせたんです。そしたら辛い物が好きなデレクが真っ赤なカレーライスを頬張った瞬間に泣き出しまして……」

「デレクは大丈夫なのか」

「いえ、こんなに辛い物は食べたことはないという喜びの涙でしたので問題はありません。ですが、ディミトリとアマレが少し貰って口にしたところ卒倒しました。アマレに至ってはまだ唇の腫れが引いてません」


 クアッドの言葉に、食事を続けていたポステロスとミリアも動きを止める。


「ちょっと食べてみたいわね」

「うん」


 ミリアが食べてみたいといい、ポステロスが同調した。クアッドはこりゃ引かねぇなと思ってひとつ提案する。


「では、リトーに一口分だけ用意するように言います」

「ありがとう。あ、このお肉もおかわりお願い」

「僕も欲しいな」

「承知しました。チキンティッカのおかわりですね。ボヌム様、辛さとドリンクはお決まりでしょうか」

「辛さはノーマルで、ドリンクはワインを頼む」


 クアッドは一礼し、流れるように三名分のメニューを回収して食堂から退室した。

 料理が来るまでの間、ボヌムはポステロスに話しかける。


「ポステロス。今日の夕食はどうだ」

「このカレーは素晴らしいね。色々な種類の香りがある野菜を混ぜ合わせているのかな? そのおかげで味に深みが出て単品でも美味しい。さらにこのライスとやらに混ぜて食べると辛みがマイルドになっていくらでも食べられそうだよ。付け合わせのサラダも丸みのあるソースで味付けされていてカレーの邪魔をしていない。おそらくソースにはウシシの乳が使われているね、カレーと同じ香りのものを使ってソースにしているからサラダ単品でも完結している。非常に質のいい取り合わせだよ」

「お、おお。喜んでいるようでなによりだ……」


 急に早口で語りだした我が子に少し引きつつ、同じようにミリアにも訊いた。


「美味しいわね」

「……それだけか?」

わたくしが完食すること自体が誉め言葉でしょう?」


 ミリアの言葉にそれもそうだとボヌムは納得した。蒸かしじゃがいもが食卓に上がっていた時は二口で食事をやめていたほどの女である。ミリアが口にしたものが美味しくなければ完食などしない性格であることは、長い伴侶生活の中で嫌というほどわからされていた。

 どうもウチの家族は癖が強いと辟易していると、クアッドが三度食堂へ現れてボヌムの元に食事を運ぶ。


「リトーセットです」


 銀盆に載った小皿たちの取り合わせを見たボヌムは、図らずして口の端から涎が垂れる。

 中央には小ぶりな二つの深皿があり、その中には赤銅色と黄土色のカレーが注がれている。そのカレーが入った深皿の周りには黄色に染まり綺麗に半球状に盛られたライス、大きな一枚の物を三分割にしたナン、タンドールで焼かれたチキンティッカにタンドリーチキンとシシカバブ、そしてケバブソースがかかったサラダが盛られていた。


「あと、こちらが例のものです」


 スッとクアッドが銀盆の横にこのまえも使ったディップ皿を置いた。それには一口分のライスと真っ赤に染まったカレーが存在していた。

 異常な存在感を示すそれから目を背け、ボヌムはリトーセットを味わい始めた。


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