夜食-1
領主を含めた夕食の提供がつつがなく終わった里藤は、領主館内の外れにある入浴設備で命の洗濯を行っていた。そう、入浴である。
水と薪が潤沢な辺境伯領では健康のために入浴が推奨されている。辺境伯のお膝元であるモトルの町には湯屋が立ち並んでいるし、多少広い個々人の家には風呂が備えられていることも多い。そんな領主館の風呂が広く大きいのは至極当然であり、無駄を嫌う領主のボヌムが配下に同じ浴槽を使うことを許すのは当たり前のことだった。
クアッドに連れられて領主館のどの部屋よりも大きな風呂場にやってきた里藤は洗体を手早く行い、浴槽に飛び込んだ。最後にいたヨハネスブルグではシャワーばかりで湯船につかることが久しぶりなのもあって、里藤自身、身体がゲルのように溶ける心地よさを感じていた。
「ぐぅ……生き返るぜぇ……」
「一日の終わりはこれだよなぁ」
里藤がクアッドと横並びで湯の中に溶けていると、浴室の引き戸がガラガラと鳴り誰かが入室してきた。筋骨隆々の体、その肉体の右肩から左わき腹にかけて走る一本の線を見るに従士の一人で間違いないだろう。彼は里藤が初めて見た人物であった。
「デレクか。ディミトリは?」
「兄貴は領兵のアホが町で喧嘩を起こして警備兵に迷惑かけたから、代わりに頭下げに行ってる」
「ははっ、我らがリーダーは損な役回りだねぇ」
言葉少なにデレクと呼ばれた男は、浴室に二つある洗い場の一つにドカリと座ってヘチマたわしのようなスポンジを少し濡らしてその浅黒い肌をゴシゴシと力強くこすり始める。
クアッドは自発的に里藤のことを尋ねてこないデレクのことを「見ての通り無口な奴なんだ」と里藤に説明して、デレクに大きな声で里藤を紹介する。
「デレク、紹介しとくぜ。こいつはリトー、さっき食った晩飯をこしらえてくれた奴だ。リトー、あのゴツいのはデレク。基本的にポステロス坊ちゃんの警護を担当している従士だ。男の従士は俺とデレク以外にこいつの兄貴、ディミトリってのがいるが、そいつが従士のトップで領兵と従士の全体をまとめてるんだ」
クアッドの言葉に里藤は指を折って数えて訊いた。
「ん? ってことはだ、従士は五人いるって話だからディミトリさんにあったら全員か?」
「そうだ。おまえの知ってる伝令役が多いアマレ、没落貴族の娘から従士になった奥様付きのエルイーザ、俺含めた男従士三人の計五人が領都に控える従士だな。他にも辺境伯領には従士はいるんだが、海寄りの辺境伯領第二都市であるトルベックで代官を支えていたり、モトル大森林の淵で管理をしていたりで領都にいることはほとんどないから覚えとく必要はないぜ」
クアッドの言葉に適材適所という四字熟語が里藤の頭に浮かぶ。
「なるほどな。効率的な配置だ」
「ボヌム様は無駄が嫌いだからな。特に最近は金が入り用だから、必要のないものを省こうと努力している」
「……だというのに、料理人を雇うとは思わなかった」
そういって、体を洗い終えたデレクが浴槽へ浸かる。その体躯によって湯が浴槽外に溢れ、大きな音を立て排水溝へ飛び込んでいく。
「そういや、リトーって給金いくらもらってんだ?」
「月に銀貨七十の日払いだったかな。日割りで銀貨二枚とちょっとってところか」
湯で顔を洗いながら里藤が答えた。
「なにっ!?」
「嘘だろおい!」
里藤の発言にクアッドとデレクが酷く動揺する。何故動揺したかは里藤は理解できていないが、話の流れで給料のことだと判断したのでクアッドに尋ねる。
「日割りで銀貨二枚ちょっとは高いのか?」
「高いなんてもんじゃない! 熟練の従士でも日割りで銀貨一枚だぞ!?」
「とんでもない厚遇だな」
「おまえの話だよ!」
しらっとした態度でまるで他人事のように言う里藤の肩を揺らすクアッド。シェイクされて気分が悪くなってきた里藤を救ったのはデレクであった。
「しかし、あの食事を毎日食べられるとなると、確かに囲っておきたいのもわかる」
「……だけどよぉ。俺なんて四年勤めて月に銀貨二十枚だぜ? やっぱ悔しいじゃねぇか」
「その差は技術の差だろう。リトーの技術にはその値打ちがあるとオヴィニット様が判断され、それを下回るということは俺もおまえも半人前だということだ」
「普段口を開かねぇくせに喋ったら正論ばっかかよおまえっ」
「正論を突きつけられて動揺するのは事実だってことだぞ」
「おまえも追い討ちかけてんじゃねーよリトーっ」
もうあがると叫んで肩を怒らせながらクアッドは退室する。残されたのはデレクと里藤のみ、友達の友達とカラオケに行って間をつなぐ友達がトイレに行った時のような微妙な空気が二人の間に流れる。
「あー、デレクさん。お兄さんは夕飯食べてないんですよね?」
「……ああ、夕飯の時には報告が入って町へ向かったからな。我らが昼に食べたロティサンドとやらも口にしていないはずだ」
余ったものをクアッドが口にしてアマレに蹴とばされていたからなと、デレクは笑いを噛み殺していった。
「それでは風呂から上がったら食事を用意しておきましょう。帰ってきたら厨房に来るように伝えていただけますか?」
「いいのか?」
「当然です。俺の仕事は皆さんの食事を作ることですから」
そういって里藤は湯船から立ち上がって脱衣所に向かう。その背中をデレクは柔らかい目つきで見つめるのであった。
◇
「で? なにを作るんだ?」
「いや、なんでいるんだおまえは」
「俺も食いたいから」
「……正直でよろしい。だが、代わりに調理を手伝ってもらう」
里藤はテテーンと効果音がなりそうな勢いで、作業台に置いてある大きめの木製コップとそのコップに密着する蓋をクアッドに渡す。
コップの中にはクリームシチューを作るさいに三リットルほど余った牛乳の内、五百ミリリットルほどが注がれていて、それを不思議そうに見つめるクアッドが訊く。
「牛乳だよな?」
「そうだ。ただの牛乳だ」
「これをどうすんだ?」
「振れ。蓋を押さえて上下に激しく」
「振る」
カパリと蓋をはめてカクテルを作るときのミキシングじみた動きで上下にコップを激しく振った。
それを見て里藤はうんうんと頷き、食材の準備を始める。
「中から音が鳴りだしたら教えてくれ」
「わかった。リトーはこれからなにを作るんだ?」
「ヴァレーヌィク。小麦粉の皮で餡を包んで茹でる料理だな」
ヴァレーヌィク、ウクライナの伝統料理であるこれは世界各地に存在する穀物の皮で餡を包むタイプの料理の一つ。これは広義的にはダンプリングという調理法に含まれる。
ダンプリングは日本であれば餃子、中国ならばワンタン、イタリアであればラビオリ、中央アジアではヒンカリといったように各地に散見されるそれは、人類史に深く根付いている調理法であり、油を使わずに茹であげるため夜がとっぷりふけた後の食事でも胃に来ることはないはずだと考えて里藤はこの料理に決めたのだ。
里藤はまず小鍋に水を張り、ペティナイフでするすると皮を剥いたじゃがいもを五個入れて茹で始める。
「じゃがいも料理なのか?」
「じゃがいもは中身だな。これにカッテージチーズと塩を加えて皮で閉じる感じだな」
里藤はクアッドの質問に丁寧に返して、いちいち地下貯蔵庫からもってくるのが面倒になったので、調理場の隅に移動してきた小麦粉が入った樽から適量を掬い取ってボウルに移す。それとは別のボウルに水と卵を合わせ入れて完全に混ぜ合わせ、小麦粉の入ったボウルに戻って塩を入れ、こちらも完全に混ぜ合わせる。そしてこのボウルの中身たちを一緒にして一纏めにする。綺麗にしている作業台の上に打ち粉をして里藤は力強くこね始めた。
「おぉ、パンみたいなことするんだな」
「小麦粉料理は大体こねるもんだからな」
生地が綺麗に纏まり、表面が滑らかになったらボウルに戻して濡れ布巾をボウルを覆うようにかけて放置する。
次はフィリングの用意である。茹でて柔らかくなったじゃがいもを取り出してボウルに入れる。そして同じ鍋を軽く濯ぎ、牛乳を入れ、薪を抜いて火力を弱火にしてじっくりと沸騰する直前まで煮る。
牛乳が準備できるまでの間、じゃがいもをめん棒の端でマッシュポテトにし塩を入れると順調に進みすぎたせいか、手が空いたので里藤は洗い物に移った。
「リトーって手際がいいよな。何年料理人やってんだ?」
「さて、包丁握って二十年は越えてるな」
リトーは二十六歳である。つまり小学生になるころにはバリバリに包丁を使っていたのだ。
「二十年だとっ? 俺たちが剣握って訓練しだした倍の年じゃん。そりゃ金も倍はもらうわな」
「ちなみにオヴィニットさんは知らない情報なので純粋に腕前だけを評価してもらっている」
「その事実を言うのは傷つくからやめろ」
ゲラゲラと笑って、ヘチマたわしでボウルを洗いながらクアッドをからかう里藤だったが、厨房の外部通用口に人が立った気配がしたのでそちらを向いた。
そこには先ほどのデレクを一回りスケールダウンしたような男性が立っており、その後ろには私服に着替えたデレクが控えていた。
「やぁ、クアッド。コップを振ってどうしたんだい?」
「人の顔見てまずそれかよ。リトーに料理を食わせてもらうために働いてんだよ」
「おや、では僕も働かなければいけないのかな?」
風呂に入ったばかりだというのに汗を再び掻いているクアッドをクスクスと笑う青年が柔和な笑みで訊いた。デレクが首を横に振って答える。
「兄者はまだ食事をとっていないから大丈夫だろう。紹介する。彼がリトー、夕飯のクリームシチューは最高だった」
「里藤です、よろしく。もうちょっと調理時間がかかるので座って待ってください」
厨房内へ一歩踏み込んだデレクが里藤のことを紹介し、里藤がそれに返事をして部屋の隅にある椅子に座って待つようにうながす。ディミトリは笑顔で「ありがとう」と言ってその椅子に着席した。洗い物がちょうど終わった里藤はコップに水を注いで椅子に座っているディミトリに渡した。
「僕はディミトリ、デレクの兄をやっている。兵の不始末とはいえ、君にこんな遅くまで仕事をしてもらって申し訳ない」
「いえいえ、腹を空かせたまま眠るなんて俺の料理人根性にかけて許せませんのでお気になさらず。それに申し訳ないですがクリームシチューはもうないので……」
「そうか、少し楽しみにしていたんだが」
ディミトリの残念そうな顔を見て、里藤とデレクはシャカシャカとコップを振っている男に視線を飛ばす。
里藤が余るであろう量を取っておいたのに食い意地を張って腹いっぱいにクリームシチューを食らい尽くしたのがクアッドである。てっきり人数を聞いてディミトリは外で食事をしてくるものだと勘違いした里藤にも負い目はあるが、ディミトリがクリームシチューを食べることができなかった原因の大部分はクアッドが占めているのだ。
そのことをデレクが言葉少なにディミトリに告げる。
「……ふーん、明日の訓練楽しみだねクアッド」
そういって、ディミトリは酷く美しい笑みを浮かべた。
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