屋敷へ
オヴィニットの懸命な努力によって辺境伯領に居場所を得た里藤はボールドに見送られながら辺境伯領の領主館へと向かっていた。移動手段は辺境伯所有の馬車、突然の厚遇に戸惑いつつもそこまで大きくはない馬車の中で里藤は対面に座るオヴィニットに質問した。
「オヴィニットさん、領主様はどこかお体が悪いので?」
「いえ、医師の診断によると過労気味ではありますが体に異常はないとのことです。ですが食だけが細っていってしまい……」
おいたわしやと涙ぐみながら、ハンカチで涙を拭うオヴィニットに里藤は少し引きながらも領主の食欲不振の理由を突き止めるため質問を続ける。
「こう、食欲不振になる前の領主様が口にしていたものはなにかわかったりしますか?」
「もちろんです。館に着きましたら今年に入ってから昨日までのメニュー表をお渡しします」
「……もしかして、領主様の食事って完全に管理されているんですか」
「当然でございます」
なにを当たり前のことをと、いった表情で訝しむオヴィニットの態度に頬を引きつらせつつ、領主の食欲不振はストレスが原因ではないかと里藤は思い始めた。里藤はここまで気を遣われると逆に息苦しいものであると自身の経験則から理解しているのだ。
里藤は過剰な領主への親愛を向けるオヴィニットから視線を逸らして、馬車の窓から空を見上げる。それにしても、よく澄み渡った空である。
◇
「こちらが厨房になります」
「へぇ……領主館だけあってなかなか広いですね」
領主館の厨房は里藤のいう通り、なかなかの広さであった。十二畳ほどの長方形の厨房は薪を積んである外への出入口の隣に竈が三つ並び、部屋の中央には四人で作業しても余裕がありそうなほどの作業台が鎮座している。外への出入口とは逆側に存在する邸宅内部への扉の横には地下の食糧庫へ出入りするための階段もあった。
里藤はえんじ色の大容量リュックサックを厨房の端へ下ろして、とりあえず調理器具と食材のチェックを始める。オヴィニットは献立表を執務室へ取りに向かって既にいない。夕食を時間通りに準備しさえすれば好きに厨房を使っていいとオヴィニットから伝えられたので、里藤は肩ならしに一品なにか作ろうと食材を地下食糧庫で確認したが……中身を見て絶望した。
困ったことに、簡単にだしが取れるものが一切ないのである。
昆布や鰹節、椎茸や煮干しなどの煮ることで比較的簡単に出汁が取れるものが食糧庫には存在しなかった。しかし、それ以外の食材は豊富で、食糧庫にあったのは新鮮なレタスやキャベツなどの葉物に人参や玉ねぎとじゃがいもといった根菜類、干してある魚の乾物に大きな植物の葉に包まれた一体どの動物のものかわからないブロック肉、下処理だけした丸々の鶏肉、金属の蓋つき鍋に並々入った牛乳に籠一杯に積まれた卵、そして少量のリンゴなどの一通りの料理ができるものが揃っていた。
里藤は嘆息し、調理に使う適量の食材だけを持ち出して地下食糧庫から厨房へ向かう階段を昇る。そして、作業台に食材を並べて食糧庫へ続く階段を覆う床を閉めた。これを行わないと作業中に落下してしまう危険が伴うからだ。面倒ではあるが、地下食糧庫がこうして密閉されるおかげで簡易的な冷蔵庫代わりになっているようなので文句は言えない。
さて、里藤が食糧庫から持ち出してきたのは鶏だと思われる丸々一匹分の鳥肉、綺麗に下処理をされているために別の水鳥かもしれないが里藤はあまり気にしてはいない。それに加えて人参と玉ねぎとセロリを作業台へ並べる。リュックから包丁巻きを取り出し、両刃の三徳包丁を手にしたとき、里藤は目に見える範囲にまな板がないことに気づいた。そもそも巨大な地下食糧庫に舞い上がっていたが、作業台の前にある見たこともない形状の蛇口が付いた水場の使い方や竈の燃料についてなにもオヴィニットから聞いていないのだ。
久しぶりの料理に興奮していてなにもわかっていないことを自覚した里藤は作業台の上に三徳包丁を置いて眉間を揉んだ。
「やらかしたな……」
「なにがです?」
里藤は不意にかけられた声に驚いて飛び上がる。早鐘を打つ心臓を押さえながら声が聞こえた厨房から外へ通じる扉を見ると、そこには胸にブレストプレートを装着した燃えるような短い赤毛の女性が腰に剣を携えて直立していた。
彼女は見慣れぬ人間が厨房にいることを不審に思ったのか、右手を剣の柄にかけて里藤の動きをつぶさに観察しながらいう。
「アナタは何者ですか、厨房には関係者以外は立ち入り禁止ですよ」
彼女は針より鋭い視線で里藤を貫く。彼女の言葉はオヴィニットから頼まれてこの場にいる里藤としてはたまったものではないが、部外者を警戒することは当然だと割り切ってぎこちない笑顔を作りながら下手に出る丁寧な言葉で答える。
「わかってます。私はオヴィニットさんに雇われました里藤と申します。本日よりしばらくの間、領主館の料理人を勤めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたしますね」
里藤の言葉に、わざとらしく手を顎に当てて彼女は笑った。
「あぁ、そういえば通達が来ていましたね。私は辺境伯付き従騎士のアマレ。厨房に入るということは、今日の夕飯は期待しても?」
「……さぁ? 私は雇われてここに来たばかりなのでなにをすればいいのかがよくわかっていないんですよね。領主様のお食事を用意するとは聞いているのですが」
里藤の言葉にアマレは「あぁ」と低い声でげんなりしながら、先ほどの里藤と同様に眉間を揉む。里藤が厨房にいることに納得はしたのか、右手は既に剣の柄から離れていた。
「オヴィニットさんったら結構そそっかしいから……私にわかる範囲なら教えてあげるけど」
「それでは、まずこの水場ってどうやって使うのでしょう。あとは竈の燃料はいずこで?」
「あー、そうよね。この魔道具って使い方を知らないとわかんないわよね。見ててね、こうやって使うの」
アマレが壁際に備えられた例の蛇口の前まで移動し、鶴首のように立ち上がり曲がっている蛇口を手前に引き倒す。すると、日本でよく見る家庭用の蛇口と遜色ない形になり、口先からは水が勢いよく飛び出した。
「どう? すごいでしょう。蛇口の可動で水の勢いが変わるから気をつけてね」
「なるほど、それで流しに深さがあるのですね」
確かに、やけに深いシンクになっているなと感じていた里藤はアマレの言葉に納得した。実際、普段は絶妙に使いにくいが大きな鍋などに水を入れる際には便利な造りである。
「まな板は……あったあった。はい、コスタディアさんのお古だけどこれを使いなよ」
「これはどうも……このまな板、ほこりをかぶっているようですが最後に使ったのはどれくらい前でしょうか?」
「うーん、お嬢様が貴族学校から冬季帰宅した時だから……三か月位前くらいかな」
里藤は頭がくらりとした。もしや、それだけの間、この厨房は全く使用されていなかったのではなかろうか。信じられないものを見たといった表情の里藤に慌ててフォローするように、アマレは両手をブンブン不利ながら否定のジェスチャーと共に口を開く。
「確かに厨房は使ってないけど、掃除とかはオヴィニットさんがやってたみたいだから安心して。戸棚にしまっていたものはほこりを被ってるかもしれないけど、鍋は私たち従士が綺麗に使ってたし、竈も手入れをしていたみたいだから割れたりなんてしてないよ」
「……それはよかったです。そういえば、アマレさんはなぜここに?」
里藤の言葉にアマレは大きな声で反応し、ハッとした表情でバタバタと厨房内にあった鍋の前に立つ。
「そうだ、訓練用の水を補給に来たんだった。ごめんねリトーさん、私もう行かなくちゃ!」
そういって容量が三〇リットルほどの寸胴鍋へ水場の蛇口から水を半分ほど注ぎ、それを軽々と持ち上げて厨房の外へと駆けて行った。
若い女性がひょいともつような重さじゃない寸胴を簡単に運び出していったアマレに呆然とする里藤。その背後から囁く声が里藤の耳に届く。
「アマレがお気に召しましたかな」
背筋を伸ばして前に飛びのいた里藤が振り返ると、そこにはオヴィニットが立っていた。
「ぬわっ。驚かさないでくださいよオヴィニットさん」
「ふっふっふ、申し訳ありません。老体にはない青春の輝きを感じてしまいましてつい」
好々爺然とした笑みで里藤をからかうオヴィニットは、里藤の不満げな表情を尻目にテキパキと広い作業台の上に色見の悪い紙の資料を並べていく。できあがった三つの資料の山をオヴィニットは指さす。
「こちら、辺境伯様がここ三か月間夕方の食事にて口にされたものを記載した資料になります」
そういって、まずは書類の一山を里藤に手渡した。
里藤は手渡されたそれをぺらりと一枚めくり内容を確認する。献立はジャガイモを蒸したものにフレッシュチーズ、トマトとレタスのサラダ。翌日はジャガイモを蒸したものにミルクスープ、フレッシュオニオンサラダ。翌日はジャガイモを蒸したものに――。
里藤は絶句した。
「あの、オヴィニットさん」
「なんでございましょう。まさか、食欲不振の原因がお分かりに!?」
「恐らくですが。とりあえず、もう資料は必要ないので片づけましょう。私の推測が間違っていなければ今夜の食事は全て平らげていただけるはずです。ですので……」
里藤は救いを見つけた信徒のように自らの両手を握ったオヴィニットへ一言。
「色々と私を雇う条件を聞かせてもらっていいですか? まだ、なにも労働条件とか一切聞いていないんですけど」
オヴィニットは至極当然な指摘に、酷く赤面した。
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