石造りスイートルーム
不法入国者認定された里藤のスイートルームは詰め所地下の天然石造りであった。床も壁も天井も全て石でできたそこは地中にあるだけあってひんやりとした空気を里藤へともたらしてくれている。
里藤が投獄されてざっと一時間程度、ボールドは気を利かせて包丁以外の荷物は牢屋へと運び入れてくれたが、暇つぶしの道具など荷物に備えていなかった里藤は、薄暗い闇の中でジッと天井を眺めて暇をつぶすことしかできなかった。
現代人の必携品ともいえるスマートフォンは、海外を飛び回る里藤にとって必要となる場面が少なかったために、レンタルショップで借りることが多く、里藤個人の物は所持していない。様々な土地を見て回る、いわゆるその日暮らしの生活をしている里藤にそんなものなど使う場面はほとんどなかったからである。
こんな訳の分からない状況になるならスマホを持てばよかったと、心底後悔している里藤の耳になにやら騒がしい声が届いたのはその直後だった。
「リトー、起きているかい」
闇の中でボールドの声が聞こえた。コツコツと恐らく二人分であろう足音が里藤に向かって近づいてくる。里藤はゆっくりと体を起こして、徐々に近づいてくる声と蝋燭であろう仄かな明かりへ一言。
「起きてるさ! メシを持ってきてくれたのかい」
里藤はよく通る声で食事の催促をした。牢の中にいるにもかかわらず平然とした声色の里藤に対してボールドは柔らかな声でケタケタと笑う。
「約束だからね。それに君に会いたがっているお客さんもいるんだ」薄暗闇の中、ボールドがいった。
「不法入国者に会いたいなんて珍しい人もいたもんだな」語尾があがり、笑いを噛み殺す里藤が皮肉を口にし「先に食事をしてもいいのか?」と続ける。
「当然だとも。いや、厳密には食事に用事があるのかな」
ボールドが牢の少し手前に立ち止まる。
「オヴィニット様、彼が件の不法入国者です」
片手に燭台を握り、もう片方には食事の盛られた金属製の盆を持ったボールドが闇の中から姿を見せながら背後にいる誰かに声をかける。里藤と話すときとは違う畏まった言葉運びからボールドにとって上司か、それとももっと上の立場の人間だろうと里藤はあたりをつけて居ずまいを直した。
里藤が注視したボールドの背後から現れたのは、ボールドより頭一つ分小さい身長の老人だった。オヴィニットと呼ばれたその老人はぴしゃんとした背筋でボールドの木綿であろう服とはまるで質の違うパリッとした執事服を身に纏っており、表面上は微笑んではいるが里藤を見定めるような視線を送る人物である。里藤は礼儀として先に挨拶をしておくべきだろうと口を開く。
「どうも、不法入国者の里藤です。職は世界を旅しながら料理すること、どうぞよろしくお願いします」
不審者が丁寧な挨拶をするとは露とは思っていなかったのか、オヴィニットと呼ばれた紳士は一瞬目を丸くしたが、すぐに立ち直って腰を曲げ返礼する。
「これはご丁寧に。私はファヘハット辺境伯様に御仕えしますオヴィニットと申します」オヴィニットは品のある笑いをする。「アナタのような不法入国者など初めてです」
「そんなに珍しいもんですかね」
「ええ、ファヘハット辺境伯領内で牢に入れられるものは基本的に政敵の間者ですので」
「平和なんですね」
里藤の間の抜けた返答に、オヴィニットはゆっくりと首を縦に振って肯定する。平和な村であることは間違いないと自信がある証拠だった。
「それで、辺境伯様の執事が何故こんなところに?」
「そうですね」一瞬ためを作って、オヴィニットは続けた。「簡単に申しますと、一種のスカウトでしょうか」
ジッと自らの目を見据えるオヴィニットに危険なものを感じた里藤は、会話をはぐらかすことに決めた。
「……よくわかりませんがね、オヴィニットさんにご迷惑をかけているってのは理解しました。食事をいただいても?」
里藤がちらりとボールドの持つ盆に視線をやると、ボールドとオヴィニットは顔を互いに向けあって一つ頷き、里藤の入っている牢屋のドアを開いて盆を差し入れる。
ウキウキと盆に載った皿の中身を覗き込む里藤だったが、その中身を見て一気に表情が曇る。
(うーん、貧相……)
里藤はギリギリのところで口には出さなかったが、皿の中は悲しい内容だった。小麦粉を練りそのまま焼いただけであろうロティもどきのパン、ドレッシングもなにもかかっていないレタスだけのサラダ、中央アジアでよく見られるクルトと同一のものであろう乳臭いボール状の白い物体、蝋燭の明かりに照らされても明らかに色の薄いワイン。量が足りないのは仕方がないとは思っていたが、それ以上にどうしようもないメニューのレパートリーに里藤は自然と表情が不満の方へと舵を切ってしまう。
そのような顔を社交界で揉まれてきたオヴィニットが見逃すわけがなく。
「お気に召しませんでしたか?」
先程よりも鋭い目つきで里藤にメニューの良し悪しを問うた。
里藤は誤魔化せないことを直観的に察知し、一つ咳払いをしてまるで授業を行うように声高らかにオヴィニットに告げた。
「はい、気に入りません」
きっぱりと言い切って、クルトもどきを口に入れてワインを飲む。案の定薄い味だったワインがカチカチのクルトもどきを多少は柔らかくしたが、それでも噛み潰せない。そこで里藤は行儀がよくないのは承知で、口に含んだワインだけを先に飲み干して飴玉のようにクルトもどきを舌で転がす。ワインで多少マシになった酸味と塩味が里藤の味蕾を刺激する。これはこれでいいかもしれないと、里藤はクルトもどきの評価を少し上方修正した。
そんな里藤の内心など知ってか知らずか、牢の冷たい地べたで胡坐を掻いて食事をとる彼と、同じ高さまで視線を合わせたオヴィニットが限界まで牢の鉄柵まで顔を近づけて囁くような声色で訊いた。
「どこが気に入りませんか」
真剣な表情のオヴィニットに里藤がフォークで盆全体を差して答える。
「このメニューでは純粋に量が足りず、栄養自体も補えていません」
「栄養、ですか?」
「……栄養をご存じない?」
言葉の後ろに「そんな立派な身なりをしているのに」と隠して里藤が訊いた。
「いいえ、不勉強で申し訳ありませんがご教授願えますか?」
素直に問うオヴィニットに、どこか矛盾を感じながらも里藤は頷き、オヴィニットへ栄養について教え始める。
「人の身体には大きく分けて必要なものが五つあります。タンパク質・脂質・糖質・ビタミン・ミネラルの五つです。これを五大栄養素といいます」
「五大栄養素?」
里藤は質問を重ねてくるオヴィニットに、答えるまで食事は落ち着いてできなさそうだと確信し、手に持ったフォークを盆に置いて、牢の柵へ寄っているオヴィニットの顔へ一歩近づく。
「五大栄養素のどれかが不足すると人は死にます。これらを防ぐためには食事を取るしかありません。ここまではいいですか?」
オヴィニットと何故かボールドが共に頷く。
「タンパク質は身体を作る筋肉に内臓、皮膚や血などを構成します。わかりやすく例えるならば、剣になる前の鉄だと思ってください」
ボールドが自らの剣に視線を向けた。
「続いて、脂質と糖質。これらは剣を制作するときに使用する燃料の薪になります。脂と糖がなければ人の身体を動かすことができません」
里藤はワインで唇を濡らした。
「最後に、ビタミンとミネラル。これは剣匠です。材料と環境を使い、身体を仕上げていく役割があります。故に、これらの全て、いずれかが不足すると人は死に至ります。ここまではよろしいでしょうか?」
二人は気づけば食い入るように里藤の講義を聞いていた。
「つまり、ここいらの食糧事情は知りかねますがね、こんな貧相な食事では成人男性一日分の栄養なんか賄えません」
里藤はそう言い切ってガブリと木製のカップに入ったワインを一気に飲み干す。里藤の心の内では見ず知らずの爺さんに栄養学の話をしているのだろうと既にばかばかしくなっているのだ。
口内で溶けてきて柔らかくなったクルトもどきをグッと飲み込み、里藤は一言ボールドにもの申す。
「ボールド、ワインのおかわりくれないか」
「あ、ああ。ちょっと待っていてくれ急いで持ってこよう」
ボールドは目の据わった里藤に気圧されるように唯一の光源を牢の外の床に置いてバタバタと牢のある地下から上層に向けての階段へと走っていく。
じりじりと蝋燭が溶ける小さな音だけが里藤とオヴィニットの間で響く。なんともいえない空気の中、我慢できずに口火を切ったのはオヴィニットだった。
「リトー様はなかなか博識でおられる。どこでその知識を身につけられたので?」
オヴィニットの疑問に、里藤は地面に寝そべりながら答える。
「学校です。俺の故郷には料理人を育てるための学び舎がありましてね、そこで金払って教えてもらったんですわ」
「ほう……この国の学び舎といえば王都にある貴族院ぐらいですが、リトー様はどちらのご出身でおられるので?」
貴族院、といった昨今聞かないような単語に里藤は反応したが、現状のほうが耳を疑う状況なので気にもせず答えることにした。
「……日本って国ですよ。最近は年に数回しか帰ってなかったけど、まぁ、飯は美味くていい国ですよ」
「お戻りになられないので?」
「戻りたいんですがね、いつの間にかここに来ちゃったもんで帰る方法が皆目見当つかないんです。オヴィニットさんはそんな話聞いたことないですか?」
「……いえ、残念ながら」
オヴィニットは一瞬硬直した。だが、すぐに柔和な笑みで否定の言葉を口にした。
ですよねぇと、呟いて里藤は平焼きパンを四分割してそのうちの一つを口に入れた。想像通りのパサついたパンで一気に口内の水分を持っていかれる。里藤がワインはまだかと考えながらパンを咀嚼していると、なにかを決心したかのようにオヴィニットが里藤を真っすぐ見据えて口を開く。
「リトー様、このままではしばらくの間、アナタは不法入国者として牢の中で過ごさねばならないでしょう」
里藤は軽く頷く。
「でしょうね。まぁ、当然のことかと」
「ある条件を飲んでいただければ、私から辺境伯様に上申して身分証をご用意させていただきます。いかがでしょうか」
突然の提案に里藤は警戒する。世界を旅してきた経験則の一つとして、こちらの利になる提案をする輩は大体無理難題を言ってくると知っている。
とはいえ、他に手もない里藤はオヴィニットへ続きをうながすことにした。
「条件とはいったい?」
「辺境伯様の料理番をしばらくの間お願いしたいと思っております……大きな声では言えないのですが、最近の辺境伯様は食事もまともにとっていただけず痩せるばかりで……そういった方への食事をリトー様はご存じではありませんか?」
「そりゃ知ってますがね」
難民キャンプでストレスから拒食症になった人々を思い出した里藤は、心当たりがあると肯定した。
「でしたら利害の一致というものです。早急に身分証を発行いたしますので、今晩からお願いできませんでしょうか」
切羽詰まった表情でオヴィニットが里藤に乞う。縋るようなその表情を見て断れるほど里藤は薄情ではなかった。
「わかりました。最善を尽くしましょう」
「ありがとうございます、では根回しをしてまいりますので失礼」
言うが早いか、オヴィニットは脱兎のごとく素早い動きで地下牢から飛び出していった。それと入れ替わりにボールドが戻ってくる。
ボールドは普段は見せない様子のオヴィニットの軽快な動きに動揺しながら里藤に問う。
「リトー、なにがあったんだ?」
「話せば長くなるが、簡単に言えば俺の釈放が決まったってことだ」
ボールドは頭上にクエスチョンマークを掲げ、里藤はその様子を見てワインを再び一気に飲み干した。
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