優美 Ⅲ

第20話 流川へ 1

 私がフロアを出たあと、中がしんとしたので、思わず立ち止まった。

 私と一緒にいないほうがいいと課長には警告したけれど、まさに危惧していた通りになっているのではないか。

 私はもう来なくなるので構わないけれど、いや本当は嫌だけれど、課長はこれからも会社に来るのだから変な評判が広がらなければいいのに、と思う。


 本当は少し、嬉しかった。

 いつもは行われる送別会が開催されないことで、お前は要らない、と皆に思われたようで悲しかった。

 たった二人だけれど、ちゃんと送別会が行われるのが嬉しかった。


 ……いや、口説きたい、とか言われたのだっけ。でもそれも本気かどうかわからない。

 とにかく声を掛けてくれたのが嬉しかった。


 しばらく扉の前で立ち止まっていると、ふいに中から「えええええ!」という叫び声にも似た大合唱が聞こえた。

 いったいなにが起こっているのだろう、とハラハラとして耳をそばだてる。

 すると聞こえた。


「どうして部外者が未だにガタガタ言ってるんだ? 何様だ?」


 私は動きを止める。私のことを話しているのに違いない。

 課長の声に怒気が含まれている。

 怒ってくれている。私のことで。


 スカしている、だなんて評価されていて、いつもどこか冷めたような人で。広島弁だらけの会社の中で、課長は異質の存在だった。

 必要以上に迎合しようとはしないが、だからといって波風を立てるようなこともない。

 そういう人のはずなのに。


「あれからいったい何ヶ月経ったと思ってる。そんなに長い間、他人の醜聞が嬉しくて仕方ないのか? 人の家庭のことに首を突っ込むのが楽しくて仕方ないのか? まさか正義の執行人のつもりなのか?」


 私が言いたかったことを、言ってくれている。

 後ろめたくて言い返せなかったことを、言ってくれている。

 フロアはしん、となっている。そしてこちらに向かってくる足音が聞こえたかと思うと、扉の向こう側、すぐそこで。


「ぶちはがええ」


 課長の口から広島弁が飛び出した。初めて聞いた。

 私は慌ててドアから離れて駆け出した。そして角を曲がったところで軽く息を整えながら立ち止まる。

 けれど、なかなか来ないな、と思っていると。


「ああ? かばちかワリャぁ! ぶちまわすど、こらぁ!」


 こんなに遠くなっているのに部長の怒号が響き渡って私の耳にまで届いた。どうして部長まで? いったい中でなにが起こっているのだろう。


 私は角から顔を覗かせた。

 課長は廊下に出て、ドアを見つめて口の端を上げている。

 そして少しして小さくため息をつくと、こちらに振り向いた。

 目が合ってしまって、もう隠れることもできずに私は小さく会釈した。


「ごめん、五分って約束したのに」


 腕時計を見てそう謝罪しながら、こちらに早足で歩いてくる。


「い、いえ、大丈夫です」


 課長がこちらにたどり着いて、そしてそのまま二人で並んで歩き出す。

 中での騒ぎなどなかったかのように、課長は自然に口を開いた。


「どこか、行きたいところとかある?」

「いえ、特には」

「じゃあ中央通り側に行こうか。会社のヤツらも愚痴吐きに出るかもしれないから」


 苦笑しながらそんなことを返してくる。

 いつも会社で使っている居酒屋は弥生町寄りにある。なるべく遠くにしようということだ。


「ちょっと歩くけど。タクシー使う?」

「いえ、大丈夫です」


 答えながら歩みを進める。

 会社を出て、アスファルトの上を二人で歩く。

 さきほどの社内での騒ぎのことを訊いてみたいが、なんとなく憚られた。

 まあこれからお酒が入るのだし、そのときに話の流れで訊ける雰囲気になったら訊いてみよう。


「なにか食べたいものとかある?」

「いえ、特には」

「じゃあ適当に居酒屋に入ろうか。俺、そんなに店は知らないんだけど」

「はい、どこでも大丈夫です」

「どうしようかな」


 ビル群を眺めながら、課長がなにかを考えている。たぶん、今まで行ったことのあるお店を頭の中でリストアップしているのだろう。

 課長の横顔を見上げながら、さっきから私の発言は主体性がないな、とぼんやり考える。

 全部お任せして、全部言わせて。私がもし、ここに行きたいというお店があれば、すんなり決まっただろうに。

 けれど私も、そんなに店は知らない。

 うーん、と考えていたとき、はた、と思い出した。


「あの、課長」

「うん?」


 私の声に、課長が振り向く。


「私、実は行きたいところがあるんですけど」

「へえ、どこ?」

「新天地公園の近くなんですけど、ただ、二次会で使うようなお店で」

「そう。じゃあそこは二次会にして。その近くで店を探そうか」

「ええですか」

「もちろん、いいよ」


 そう肯定してにっこりと微笑むから、私はほっと息を吐いた。

 ひとまずそうして、歩く方向は完全に決まった。


 そして中央通りに向かって、他愛ない話をしながら二人で歩を進める。

 二人きり、というのは初めてなので、なんだか変な感じだ。

 しかも今までまったく意識していなかった人なのに、唐突に「口説きたい」などと告白されて、どう反応していいものやら迷っている。

 もしかしたら今までも、そんなふうに見ていてくれたのだろうか。

 いや、今までまったくその気配は感じ取れなかった。私が鈍いだけなのだろうか。それにしても。


「なにか食べられないものとかある?」


 ふいに訊かれて顔を上げる。

 食べられないもの、と問われるとひとつしかない。


「実は、牡蠣が食べられんのんですよ」


 苦笑しながらそう答えると、ええ? と驚いたように課長がこちらに振り向く。


「広島の人なのに?」

「はい、一度、あたったことがあって。それ以来」

「へえー。俺は好きだけど」


 牡蠣は広島の名産だ。日本一の生産量を誇っている。生まれも育ちも広島の私が牡蠣が食べられない、というのもおかしな話だけれど、食べられないものは仕方ない。

 というか牡蠣が食べられないというのは、会社での飲み会のたびに訊かれて何度か話題にしたことがある。

 会社の人たちがよく使う居酒屋には何種類か牡蠣メニューがあって、勧められて遠慮すると「ええー美味しいのに」と残念がられてしまうのだ。そのたび、「中ったことがあって」と説明していた。

 その場には課長もいたのではないかと思う。


 いや、確かにいたことがある。そのときもやっぱり「広島の人なのに?」と訊かれた。

 ということは、やはり興味を持って私の話を聞いたことはないのではないだろうか。


「じゃあ海産系の店じゃないほうがいいのかな」

「あ、いえ……」


 牡蠣がダメなだけで、普通のお刺身とかは大好きだ。牡蠣はたいていは単品なので、それさえ頼まなければ済む話だ。

 そう口を開こうとしたが、課長は先に話し始めた。


「新天地公園のほうに行くのなら、『お好み村』がすぐ近くだな」

「あ、ほうですね」


 『お好み村』は、ひとつのビルに二十店舗以上のお好み焼き店が入っている観光名所だ。

 観光名所とはいえ、別に観光客だけが行くところでもなく、普通に私も入ることがある。

 中に入って、ずらりと並ぶお店の中から、どの店にしようかと選ぶのも楽しいところだ。


 お好み焼きか。まあ一次会にお好み焼きというのもいいかな、と考えた次の瞬間。


「それなら、広島焼きっていう手もあるけど」


 私はその発言に、思わず足を止めた。

 先に二、三歩歩いた課長が、それに気付いて立ち止まってこちらに振り向く。


「どうかした?」


 課長は小首を傾げてこちらを見ている。

 ああ、過剰反応してしまった。

 けれどまあいいか。そのまま言ってしまおう。


「『広島焼き』なんてものはありません」


 私は口を尖らせてそう異議を唱えてみる。

 それはいけない。広島に住む者として、それはアウトだ。

 課長は、ああ、と声を漏らして、喉の奥でくつくつと笑った。


「あのう」

「ああ、ごめんごめん。可愛いな、と思って」

「かわっ……」


 唐突に褒められて、頬が熱くなった。

 私は止めていた足を再び動かす。照れ隠しの意味もあった。


「そんなお世辞で誤魔化されんのんです。『広島焼き』なんてものはないんです」

「知ってる知ってる。学生の頃、そうやって友だちをからかってたんだよ。それで、その癖が出た」


 小さく笑いながら、課長が私を追ってくる。私は足を止めはしなかった。


「ひどい! お好み焼きで、からかわんといてください! 県民にとっちゃあ大事なことなんです!」

「わかったわかった。もう言わないから」

「ホンマですか」

「ホント」


 そう言われて、私は早足を止めて、ゆっくりと歩く。課長も私の歩幅に合わせてきた。


「いやあ、元木さんは『広島焼き』が許せない派かあ」

「許せる人は、あんまりおらんと思います」

「わかった、肝に銘じておく」


 そう口にして、殊勝にも胸に手を当てて頭を下げる。

 私はそれを見て、ため息交じりに問うた。


「はあ何年広島におってんですか」

「大学からだから、十二年かな。でもその、はあ、っていうのは未だによくわからない。もう、って意味かと思ったけど、はあもう、って言うし」


 私は、むう、と唇を尖らせる。


はあもうもうすでにやれんやっていられない


 わざとそう返してみる。課長はまたくつくつと笑った。


「まあ、なんとなくはわかるけどね」

「課長、けっこう意地悪なんですね」

「好きな子は、からかいたくなる心理かな」


 さらりと口にする。逆に真剣みが感じられない。

 やっぱりからかわれているだけなのだろうか。


「まさか、もう飲んどってんですか」

「いや、一滴も」


 口の端を上げて、そう返事してくる。

 からかわれているような感じは否めないけれど。

 もう会社を辞めることですっきりして解放感があるからだろうか。

 なんだか私は、この他愛ない時間が楽しくて仕方なかったのだった。

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