第21話 流川へ 2
◇
結局、通りすがりの居酒屋に入ることになった。
店員さんに小さな個室に案内され、向かい合って座る。店員さんが近くでひざまずいて、「お先にお飲み物よろしいでしょうか」と訊いてくると、課長がこちらに顔を向けた。
「飲み物、なににする?」
「私は、
「じゃあ、生ふたつ」
「ありがとうございます」
注文を聞いた店員さんは、その場を立ち去っていく。
店員さんがいなくなってから、課長は面白そうに口を開いた。
「その、たちまち、も最初はわからなかったなあ。急げってことかと思って」
「ああ、そう言われるとそうですね」
私は目の前に置いてあったメニューブックを手に取って、パラパラとページをめくる。
一ページ丸々牡蠣のページがあって、げんなりした。
課長は私の表情を見ていたのか、小さく笑いながら、自分のメニューブックを繰っている。
「なんでもどうぞ。送別会だし。適当に好きなもの頼んで」
課長がそう促す。ということは、奢りということだろうか。
いや、お会計のときに割り勘にしてもらおう。
課長はもしかしたら、本当は口説くだとかそういう気はまったくなくて、送別会すら開かれない私を哀れに思って、茶化しながら誘ってくれたのかもしれない。
だとしたら申し訳ないし。
「じゃあ、好きなもの頼みますね。課長は食べられんものはありますか」
「いや、特にはないな」
「ほいじゃあ」
私は目に付いたものを挙げていく。
「小いわしのお刺身と、鶏皮の味噌煮と、あっ、穴子の天ぷら」
そしてメニューブックをくるっと回すと、牡蠣のページを開いて課長の前に差し出した。
「私は食べられんですけど、課長は牡蠣を頼んだらええですよ。カキフライでも生ガキでも」
課長はしばらく固まって、それからぷっと噴き出した。
「……なんか、可笑しかったですか?」
「いや、広島の人って広島のものを食べさせたがるよね。ものの見事にご当地メニューばかりだ」
「美味しいですもん。美味しいものは食べさせたいじゃないですか」
「まあね。美味しいよ」
「お待たせしましたー」
店員さんが生ビールの入ったジョッキとお通しを二つずつ持ってきて、いったん話は中断となった。
それらを受け取り、さきほど決めた注文品を店員さんに読み上げていく。課長は結局、生ガキを頼んでいた。
店員さんが立ち去ってから、私たちはジョッキを持って浮かせる。
「じゃあ」
「乾杯」
軽くジョッキを触れ合わせ、それを飲む。
なんだかそれで、終わったんだな、という気分になった。
一口飲んで、ジョッキをいったんコースターの上に戻す。それから、ふう、と一息ついた。
「お疲れ様」
前からそんな労いを掛けられて、顔を上げる。
課長はこちらをまっすぐに見て、そして再度、口を開いた。
「お疲れ様。よく、がんばったと思うよ」
ふいに込み上げてくるものがあって、私はきゅっと唇を結ぶ。
少し、気を抜いていた。不覚にもみっともないところを見せてしまいそうになる。
課長の言葉になにか返したかったけれど、口を開くとなにかが弾けてしまいそうで、私は固まってしまった。
結局、自分がしでかしたことからも、自分に向けられる視線からも、逃げることを選択した。そのこと自体はやっぱり、胸を張ってがんばったと誇れるようなことではないと思う。
でも、その決断を下すのは勇気が必要だったし、それまで私に向けられる悪意に耐えることもつらかった。
そのことに対して労いの言葉を掛けるだなんて、不意打ちだ。
「小いわしの刺身、お持ちしましたー」
そんな声とともに個室の扉がガラッと開けられる。課長側が開いたので、彼がそれを受け取った。
それから刺身の乗った皿をテーブルの真ん中に置くと、付いてきた小皿に刺身醤油を注いでいる。
「ありがとうございます」
私がそう礼を述べると、課長は苦笑する。
「料理を置くたびにいちいち礼を言ってたら大変だぞ」
「あ、いえ……」
「無礼講無礼講。といっても、もう上司じゃなくなるけど」
そう口にしながら、刺身醤油の入った小皿をこちらに差し出してくる。
「……でも、ありがとうございます」
私は小皿を受け取りながら、再びそうお礼を口にした。
◇
私がジョッキの半分まで飲んだところで、課長はすべて飲み干して、店員さんを呼んでいた。
スーツの前は開けてネクタイも少し緩めている。お酒が少し入って、くつろいできた様子だ。
課長は私のジョッキを指差しながら、訊いた。
「遠慮してる?」
「しとりませんよ」
「ならいいけど」
ほどなく二杯目のビールが運ばれてきて、課長はそれに口をつける。
特に会社の話題をすることもない。
けれど話題が尽きるようなこともなくて。
私は今まで、課長がこんなふうに話がしやすい人だったとは知らなかった。
「課長は、大学から広島だって言うちゃったですよね」
「うん」
その頃には、お互い、かなり口の滑りがよくなっていたように思う。
「なんで地元に帰らんかったんです?」
「ああ、それは、怒らないで聞いてくれよ」
「怒るようなことなんですか」
「まあ、『広島焼き』に怒ってたし」
そう返してきて笑う。やっぱり少し、意地悪な人だ。
私が唇を尖らせると、またくつくつと笑う。
そして、ぽつりと話し出した。
「そうだな、……友だちとか……恩師とかがこっちにできたから、というのもあるんだけど」
少し言い淀んだのは、『友だちとか』に、彼女、が入っているからではないかな、という気がした。
別に隠さなくったっていいのに、と思う。
課長は続ける。
「俺はね、広島のコンパクトなところが気に入っているんだ」
「コンパクト……」
「うん。なんというかね、大都会でもなく田舎でもない、そういう中途半端さが好きなんだよね」
「はあ……」
中途半端。確かにそれは、人によっては怒る評価なのかもしれない。
けれど私も、広島のそういう中途半端さが好きだというのはわかる。
「コンパクトだから、なんでもあるんだ。こういう繁華街やオフィス街や商店街がぎゅっと詰まっていて、歩いて行きたいところにいける。店が少ないわけじゃなくて全国的に有名な店舗もきちんと揃ってる」
私は課長の話に、うんうん、とうなずいて同意する。
それに安心したように課長はさらに続けた。
「ちょっと郊外に行けば大型店が並んでいる。車で行けるところにスキー場もあってゴルフ場もあって海水浴場もあって観光地もあって、全部日帰りで行ける」
「なるほど」
「あと、プロスポーツがたくさんあるのがいいよね」
「ああ」
「学生時代は友だちの車でいろんなところに行ったよ」
そう言って足を崩して、少し過去を懐かしむような、そんな目をしていた。
学生時代。車。となると。
「西は
「そうそう。車の免許を取ったら、まずはそこに行くのがお決まりなんだってね」
伴天連はお化け屋敷のような喫茶店で、山賊は大きな食事処だ。山賊は山口県なのだが、広島から近い場所にある。私もどちらも行った。
……当時の彼氏に連れられて、だけど。
「彼女と、行っちゃったんですか」
思わず、するりと口からそんな質問が滑り出た。
少し驚いたように、課長がこちらに振り向く。
それから小さく笑った。
「うん、まあ。行ったこともあるよ」
「その人とは……」
「もうずいぶん前に別れてるけど」
「どうして」
「聞くねえ」
そう返して片方の口の端を上げる。
酔いが回ってきてしまったのだろうか。確かに突っ込みすぎだ。
警戒、してしまっているのだろうか。
私が最近付き合っていた人には、妻がいたから。最初は気付かなかったから。
「まあ、口説こうって男が彼女持ちかどうかは気になるよね」
軽く、課長はそう口にした。本当に軽い口調だった。だから少し、ほっとする。
というか、口説くというのは本気なのだろうか。やっぱりからかわれているのだろうか。
私がいちいち、考えすぎなんだろうか。
私がぐちゃぐちゃと考えている間に、課長はさらりと話し始める。
「大学卒業間近に付き合い始めて、五年くらい一緒にいたけど振られてね」
「振られちゃったんですか」
ここまで聞いてしまったのだから、もういいか、という気分になってさらに突っ込んでみる。
すると課長はビールをまた一口飲むと、頬杖をついた。
「その、ちゃった、っていうのも最初は戸惑ったなあ」
「ああ……すみません」
この場合、ちゃった、というのはしてしまった、という意味ではない。敬語のつもりなんだけれど、確かにわかりにくいかもしれない。
「いや、今はもうわかるよ」
課長はひらひらと手を振る。
「振られたのは、まあきっかけは、誕生日を忘れていたからなんだけど」
「ああ」
「それまでもいろいろ、しでかしていたんだろうとは思うよ」
「へえ……」
「元木さんなら、どうする?」
「えっ」
急にこちらに話を振られて、驚いてそんな声が出た。
「どうする? 二年も連続で誕生日を忘れられていたら」
課長はこちらをじっと見て、私の答えを待っている。課長も酔っているのかな、という気がしたが、あまり顔に出ないのかよくわからない。
私はその質問に、うーん、と考える。
「五年、付き合っとったんですよね」
「うん」
「じゃったら、三年目の頃には、一ヶ月くらい前から催促しとると思います」
私がそう答えると、課長はしばし動きを止め。
そして、噴き出した。
「あー、そうなんだ。元木さんはそうかあ。一ヶ月ね」
「あの?」
「ごめんごめん、催促されるほうがいいなあ、と思って。そうか、一ヶ月か」
そう言いながら、肩を震わせて笑っている。
そんなにツボに入るようなことを言っただろうか。とてもそうは思えないのだけれど。一ヶ月がどうしてそんなに面白いのか。
やっぱり課長も酔っているに違いない。ジョッキは空になりかけている。
「飲み物、どうします?」
「あー、じゃあ日本酒にしようかな。元木さんは?」
私のジョッキも空になっていた。
「私、チューハイにします」
「じゃあ頼もう。食べ物のほうは?」
「そうですねえ。唐揚げとか串とかいっときます?」
「そうだね」
「あっ、ホルモンの天ぷら忘れとりました」
「やっぱりまたご当地メニューだ」
そんなふうに盛り上がりながら追加注文をして、また二人で笑い合う。
そうして楽しいまま、時間は過ぎていった。
楽しいお酒なんて、久しぶりだな、と思った。
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