第19話 広島弁 2

   ◇


 そして問題の金曜日。

 なんと未だに次の人は決まっていない。部長いわく、社長がOKを出さないのだそうだ。

 どうするつもりなんだと思うが、それまで他の社員でなんとか回せ、ということなのだろう。頭が痛い。


 昨日、誰もいなくなった就業時間後のフロアで、声を抑えて部長が報告してきたのだ。


「それがの……社長の知り合いを呼びたいみたいなんじゃ」

「はあ? じゃあ求人を出しても意味ないじゃないですか」


 なんのために履歴書をチェックしたり面接したりしたんだ。この会社を志望した人に申し訳ないと思わないのか。すべて無駄な時間と手間だったなんて。


「それならとっととその知り合いを入れてくださいよ」

「いや……それがどうもな……」


 部長がさらに声量を落とす。


「……社長の……愛人なんじゃ」

「はああああ?」


 俺は天井を仰ぎ見る。

 最低だ。

 もう辞めたい。


「いや最初は本当に、求人はしとったんで? そのうち、その人が湧いて出ての。ほいでその人が来月頭から入りたい言うとるらしいんじゃ」

「知りませんよ、そんなこと」

「言うても、社長の決定じゃけえの」


 小さな会社だが社長が一代で築いた、と言えば聞こえはいいが、ものの見事なワンマン社長ではある。

 けれどまさか愛人を雇おうとするなんて。

 ため息をつく。もうどうでもよくなってきた。


 部長が決まり悪そうに、ぼそぼそと続ける。


「それまで元木さんに……て無理よのう」

「無理ですよ。俺もう、これ以上は言えませんよ」


 不倫による醜聞で会社を追い出されるように辞めていく元木さんの、代わりに入ってくるのが社長の愛人?

 なんの冗談だ。


「ほうよのう。ワシも言えん」

「でしょうね」

「だから二人でがんばろう」

「そうなりますよね」


 そうして二人して、大きくため息をついた。

 その愛人が仕事をちゃんとこなす人なのかどうかは、今は考えないようにしよう。これ以上は本当に頭が痛くなる。


 そして今日、またいつものように就業時間は過ぎていく。そして五時ぴったりに元木さんは立ち上がった。

 それからすうっと息を吸うと、声を張る。


「お疲れ様でした。お世話になりました」


 義理は果たそうと思ったのか挨拶すると、ぺこりと頭を下げる。


「お疲れ様でしたー」

「お疲れー」


 男性社員の中からそういう声が聞こえる。いつもと変わらない。

 今日が最後の日だというのに、何事もない。

 元木さんはなにを気にするふうでもなく、更衣室のほうに向かっていく。


 そして着替えて出てくると、フロアの入り口のほうでもじもじと立ち止まった。

 あれから昼休憩に一緒に電話番はしたが、特に今日のことには言及しなかった。

 というか、わざわざ元木さんの隣に理由もなく座るのもどうかと思って、自分のデスクで弁当を食べ電話を取った。


 くそ。終わらない。あと少しなのに。

 こんなことなら、ちゃんと待ち合わせ場所を決めておけばよかった。

 俺は顔を上げると、入り口付近に呼びかける。


「元木さん、ごめん、あと五分で終わらせるから、外で待っててもらえる?」

「は、はい」

「ごめん」


 元木さんが扉を開けて出て行くのを見届けると、腕時計を見る。あと五分。さっき電話が掛かってきたのが悪い。

 そんなことを思いながらなんとか終わらせ、ノートパソコンをシャットダウンさせる間に立ち上がる。


 そしてふと顔を上げると、そこにいる人間全員が、俺のほうに視線を向けていた。


「……なに?」

「いえ、あの……」


 一人の男性社員が口を開いた。


「課長、元木さん……」

「ああ、これから送別会するんだけど」


 数人が、ぽかんと口を開けた。なんだ、その顔は。


「送別会があるなんて、聞いとりませんけど……」


 そう訊いてきて、顔を見合わせて確認し合っている。

 イラッとする。

 誰も送別会を開催しようとしなかったのに、あるわけがない。そしてその状況に、皆、気付いていたのに放置したのだ。

 まあこんな雰囲気で送別会なんて開催されても、ありがた迷惑になりそうな気もする。楽しい催しにはならないことは間違いない。


「俺も聞いてない。いつまで経っても送別会の話が出なかったから、二人で行くことにした」


 俺の返答に、また皆が俺のほうに振り返った。

 本当は、送別会があろうがなかろうが誘ったわけだが、もうこれでいいだろう。


「は?」

「二人でって……え?」

「課長?」


 ふと視線を落とすとノートパソコンの画面は真っ暗になっていた。もどかしくパタンと閉じる。あと三分。


「まさか、狙っとるんですかあ?」


 半笑いで男性社員が訊いてきた。「なんかエロい」とか、のたまっていたヤツだった。


「そうだよ」


 イラッとして答えたその返事に、一瞬、フロアがしんとして。それから。


「えええええ!」


 いろんな人が奇声を上げた。

 うるさい。


「いや……いいんですか?」

「なにが」

「だって、元木さん……」


 そう言いかけて口ごもっている。

 他の男と付き合っていた女ですよ、とでも忠告したいのだろうか。不倫していた人ですよ、とでも?


 だんだんイライラが募ってきた。

 もう五分になろうとしている。


「あの年で、元カレいないほうが珍しいだろ」

「いや、元カレというか」

「不倫ですよ?」


 横から女性の声がした。あの一番年上の女性社員だった。

 なぜか見下したような眼をされている。


 俺はひとつため息をつくと、そちらに向き直る。

 もういい。

 どうなろうと知ったことか。


 俺は彼女の目をじっと見つめて、言葉を舌に乗せた。


「元木さんは騙されたという話なんだけど」

「でもそれは、ねえ?」


 そう返してきて、意地悪く笑う。

 そして近くの女性社員と顔を見合わせて、さらにくすくすと笑った。


 騙されちゃって、かわいそうに。男ってほら、バカだから。

 そう顔に書いてあった。


 自分の顔を鏡で見てみるといい、と言いたくなった。そんな表情をした女を、間違っても口説きたくはない。

 なるほど。誰と寝ようとどうでもいい。彼女たちのうちの誰とも恋には発展しそうにない。


「本当のところはどうかは知らないけど、弁護士もあっちの奥さんもそれで納得した」

「まあ、それは」

「それなのに、どうして部外者が未だにガタガタ言ってるんだ? 何様だ?」


 俺の問い掛けに、くすくすという笑い声が、消えた。

 女性たちはあからさまに眉をひそめて俺を見ている。どうやら俺の発言にご不満のご様子だ。


「あれからいったい何ヶ月経ったと思ってる。そんなに長い間、他人の醜聞が嬉しくて仕方ないのか? 人の家庭のことに首を突っ込むのが楽しくて仕方ないのか? まさか正義の執行人のつもりなのか?」


 その質問に答えられる者はいなかった。

 ぐるりと見回す。目を逸らし始める人間が出てきた。

 自分がやってきたことが他人からどう見えるのか、ようやくそれに考えが至ったのだろう。


 しかし俺も人のことは言えない。

 俺は常に傍観者で、元木さんのためになにもしていない。

 そういう人間が彼女を口説こうというのはおかしな話だよな、と頭の隅で考える。

 けれど俺の口は止まらなかった。


「しかも思いきり仕事に支障が出てる。一人の人間が辞めて、一人の人間を新しく雇い入れて教育をするのに、どれだけの時間と費用が掛かると思っているんだ。特に元木さんは真面目に仕事をしていた。元木さんほどちゃんとする人間が入ってくる保障はどこにあるんだ。今実際、いい人が見つからなくて困っている」


 誰もなにも発言しない。

 その場は俺の独壇場と化しつつあった。


「新しい人が来月頭から入ってくるけど、その人とは上手くやるんだよな?」


 新しい人がやっと入社するのか、という顔を皆がした。俺の話がようやく逸れるのか、と安心したような表情も見て取れた。


 しかし部長が焦ったように、頭の上で両腕を交差してバツを作る。

 俺がなにを語ろうとしているのかわかるのは、この場では部長だけだ。それ以上言うな、という意味だろう。

 まあいい。確かにそれを口にするのはいろいろと問題がある。


「ま、俺は給料を貰ってる側だから、誰が入社してこようがそれは別にいいけど、単純にお前らの態度が気に入らない」


 そう、俺も正しくはない。

 ただ単に、今、俺の鬱憤を晴らそうとしているだけにしかすぎない。


 こんな俺を見て、あやかママはなんと言うかな、と少し思う。


『好きなようにやりんさい。正しいとか正しくないとかどうでもええわ。面倒くさい』


 なんとなく、そんなことを口にする気がした。


 俺は荷物を持って出口に向かう。誰ももう俺を止めなかった。

 そして扉の前で振り向くと、俺はひとつ息を吸い込んだ。

 言っていることがわからないのならわかるように言ってやる、と広島弁を口にした。


ぶちすげえはがええムカつく


 フロアにいた人たちが息を呑んだのがわかった。


「では、お先に失礼します。待たせているので」


 それから扉を開けて出て、一歩を踏み出して、閉めた途端。


「な、なんなんよ、あれー!」

「ムカつくー!」


 ドアが閉まった瞬間、フロアの中で女性陣が叫ぶようにわめいた。

 その騒ぎが何秒かあって。

 そして。


「あああ、うるっせえ! 黙れぇー!」


 部長の一喝が響いた。


「ワシは、いらんこと言うなって言うたはずじゃ! それを守らんかったのはお前らじゃろうが!」


 その怒号に、またしてもフロアはしん、となってしまう。


「クソが! もう知らん! 拗らせるだけ拗らせよって! これからは、仕事中は全面的に私語禁止! はあもう緩うはやらん! あと元木さんの仕事はお前らで分担しろ! お前らのせいじゃけえの、責任取れ! ワシも木佐貫も一切手を出さん!」

「ええー!」

「えーじゃあるかい! あと言うとくが、新しゅう入ってくるんは社長の愛人じゃ!」

「は……はああああ?」


 ああ、キレている。部長自らバラしてしまった。俺は扉の前で額に手を当てて目を隠した。

 どうなっても知らないぞ。


「お前らの嫌いな不倫をしとるヤツじゃ! お前らはもちろん、元木さんと同じように扱うんよの? 社長にはよろしく言われとるんじゃが、お前らはやるんよの?」

「え……いや……」

「やらんのか! じゃあつまり、お前らは弱いものイジメをしよったいうことか!」

「いえそんな……」

「ああ? かばちか文句かワリャぁお前ら! ぶちまわすどボコボコにするぞ、こらぁ!」


 広島弁が怖い怖いと思っていたが。

 俺が今まで聞いていた広島弁は特に怖くない、と今知った。

 というか部長。

 人が変わっています。


「仕事中は全面的に私語禁止! 元木さんの仕事はお前らで分担! わかったんか! 返事は!」


 どうやら誰も今の部長に逆らう気はしなかったらしい。ぽつぽつと、「はい……」「わかりました……」という返事が聞こえる。


 俺は、ほっと息を吐く。

 今度、三次会でも四次会でも付き合えるだけ付き合おう、と思った。

 しかしこの会社、本当に大丈夫なのか、今のうちに俺も退職願を提出したほうがいいのではないか、と少し思った。

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