第3話 ッ
「ふむ。ということは、犯人は、少なくとも午後十時十八分の時点で殺害を成し遂げていたと見なせる」
「な、何故だ?」
いきなりの断定に、刑事は多少の動揺を見せた。腰を浮かせ気味にし、次の説明を待ち望んでいる。
「犯人がディスプレイの文字を消したのが、その時刻だからさ」
「……まだよく分からない」
「これから説明するから、黙って聞いておけばいい。犯人は、パソコンの画面に、自分の名前を入力されていることに気付いたんだ。死に行く者による伝言、ダイイングメッセージというやつだ。犯人は当然、その名前を消去するに決まっている」
「待ってくれ。名前を書き残されたら消すのは分かる。だが、被害者がダイイングメッセージを残したと、どうして言い切れるんだ?」
「それこそ、現場にあったパソコンの書きかけの文書を読めば、一目瞭然じゃないか」
天田は、あたかもそこに問題のパソコンがあるかのように話した。
「文書の最後は、どうなっていた?」
「ええっと、『密室トリッ』だな。小さなツで終わっている。多分、密室トリックと書こうとしていたのだろう……あっ、そうか」
天田の言いたいことをようやく察知できたらしく、刑事は再び目を輝かせた。三つか四つほど若返ったようだ。
「ローマ字入力で日本語を打ち込んでいたのなら、最後が小さなツで終わることはない。現場にあった文書は、TORIKKUと打ち込んで、クを消してあった訳か」
天田は我が意を得たりとばかりに、大きく首肯した。
「その通り! 保存が自動で行われたのなら、最後に文書に手が加えられたのは、十分前の十時十八分だ。そして被害者には、クだけを消す理由がない。それでは犯人には消す理由があるか? あるとすれば、それはクに続いて犯人を示唆する言葉が書かれた場合。名前をずばりと書いたかどうかは不明だが、犯人にとって非常に不都合な記述が、そこに書き足されたに違いない。悪運強く、ダイイングメッセージに気付いた犯人は、急いで文字を消した。急ぐ余り、消す必要のない『トリック』のクまで削除してしまったんだ」
「なるほど、絵が思い浮かぶようだ。犯人としては、一刻も早く、現場を立ち去りたいものだろうから、犯行時刻もその近辺になる」
「ややこしく考える必要はない。二十八日の夜十時十八分に、殺害現場にいることができた。これこそが、犯人の条件だよ」
天田の言を受け、刑事は容疑者三名のアリバイリストを検討した。
中見はヘアサロンで施術の真っ最中だから、アリバイ成立。
斉藤は午後十時に目撃されており、現場へは車で二時間を要するため、これまたアリバイ成立。
彼ら二人に比べ、有村はどうか。翌日午前0時に目撃されており、現場にとどまれるのは午後十時四十分が限度。二十二分の余裕がある。アリバイ不成立だ。
「有村吉男か。殺意の強さでは一番だろうから、おかしくはない」
「勘違いしてはいけないのは、有村吉男はアリバイが崩れただけで、犯人と決まったのではないということ。慎重に詰めることだね」
天田は自信に満ちた口ぶりで告げると、ソファから立ち上がった。
「天田さーん。雲行きが怪しいですぞ」
探偵事務所を再訪した刑事は、そこの主に恨めしげに声を掛けた。
「おや? どういうことかな。私の推理に何か穴があったとでも?」
「穴も穴、大穴です」
刑事の遠慮のない言い方に、天田は顔を赤くした。ふんぞり返っていたデスクの椅子を離れ、応接用のソファに移動してきた。テーブルを挟み、刑事と相対する。
「推理通り、文書の保存時刻を根拠に、有村吉男を重要参考人として引っ張りましたよ。しかし、一向に落ちない。証拠探しも、行き詰まった。そんな折、推理作家の斉藤龍輝が、有村に嫌疑を掛けた理由を聞きつけ、異議を唱えてきたんですよ、まったく」
「わざわざ他人のために? 出しゃばりな推理作家め……」
口の中でぶつくさ言った天田だったが、すぐにかぶりを振って、「ふーん、それはどんな異議で?」と聞き返した。
「『ダイイングメッセージが書かれたと、本当に言い切れるか』というんです。言い換えれば、小さなツが文章の最後になる理由は、それ以降の文字を犯人が消した場合以外にもあると」
「どんな場合があると言ってるんだ、作家先生は」
「いくつも挙げられましたよ。たとえば、単なるタイプミス。仮に、『密室トリック』と打ちたいのに、『密室トリッキ』になってしまったとする。当然、被害者はそこで手を止め、キを消す。消したちょうどそのとき、他の用事が入ったらどうするか。用事の重要度にもよるが、『トリック』と訂正するのを後回しにして、新たな用事に専念することもあるだろうとの理屈です」
「……」
天田は沈黙のままソファを立つと、その周囲をゆっくり一周した。元に戻って、やっと口を開く。
「どんな用事があると言うんだろう? 犯人の他に来訪者があったのか?」
「それは色々です。犯人以外の来訪者がいれば、名乗り出てくれてもいいのに何もないし、目撃証言も皆無なのは、そんな来訪者がいなかった可能性大でしょう。でも、何も来訪者じゃなくていい。電話かもしれないし、被害者は何か閃いたのかもしれない。テレビの内容に興味を抱き、デスクを離れただけなのかも」
「ということは、犯人自身が訪れたのかもしれないとも言える訳だ」
自信を取り戻したのか、笑顔になる天田。しかし、刑事の表情は暗い。
「それぐらい、我々も思い付きましたっ。仮に犯人の来訪を受けて、被害者が手を止めたんだとして、じゃあ犯行時刻はいつ? 犯人が現場を立ち去ったのはいつ? 推理を組み立てようにも、状況の解明につながらない。結局、自動保存の時刻を基準に、犯人が来訪したと見なすこと自体に無理があるんだっ」
「うう」
返事に窮した天田だったが、まだ自説への拘りを捨てられないでいた。
「被害者は十時十八分以降、文書に手を付けることなく、新たな用事にかかり切りになるなんて、あり得るだろうか? その直前か直後に殺害されたと見なすのが、蓋然性の高い選択であり、充分に有意な推理だと思うのだが」
「苦しいな。仮にそれを認めたとしても、容疑者は落ちやしませんよ。一旦、穴のあるとしれた網に、いつまでもかかり続ける獲物はいないってこと」
刑事は打ち切りを宣言するかのように、両手を打って音を立てた。
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