第3話 山小屋での出来事

 無事山頂に予定よりも早く到達することができた二人は、山頂の山小屋へ向かった。

 この山小屋での宿泊は、一部屋に数人の知らない者同士が並んで一組の布団に二人づつ包まり雑魚寝するスタイルだった。

 穂高は慣れない美月に配慮し端を陣取った。

 初めて本格的な山小屋に宿泊する美月。

 見知らぬ人達と一部屋に所狭しと並んで寝ることも、一期一会の出会いとしてこれも一つの経験だと思う美月。

 だが、まさか穂高と同じ布団に包まって寝ることになるなんて思ってもみなかった美月は、心の準備ができていなかった。



 山小屋の消灯は早い。夕食を終えると二十時には就寝となる。

「美月、夜中に一度起きる予定だからそれまでゆっくり休むとしよう」

「う、うん・・・・・・」

 美月は言いようのない緊張感に包まれた。

 ――どうしよう。穂高と一つの布団で寝るなんて・・・・・・

   ボディシートで身体を拭くことくらいしかできなかったから。

   穂高はどう思っているのだろう。



 他の登山者のいびきが聞こえてくるなか、穂高と密着した状態で一つの布団に包まる美月は、過度の緊張に眠るどころではなかった。

 穂高の様子が気になったが、そちらを見ることすらできない。

 ただ目を閉じているのが精一杯だった。

 夏といっても標高の高いこの山頂では寒暖差が激しく、深夜から早朝かけて零度まで冷え込む。

 突如、穂高の腕が美月の身体にまわされた。

 あまりの驚きに思わず息を呑む美月。

 寝返りを打った穂高は、端で眠る美月の身体が冷えないようにと彼女の腰に腕をそっとまわしその身体を引き寄せた。

 そのまま穂高の腕に抱え込まれた美月。

 心臓の鼓動はスピードを増していくばかり。

 穂高に鼓動が聞こえてしまうのではないかと思えば思うほど意識してしまい、気持ちは沸騰していった。



 ややあって、穂高の規則正しい寝息が聞こえてきた。

 美月はそっと顔を向けると、穂高は再び眠りについたようだった。

 その様子に安堵した美月は「ふぅ」と吐息を漏らす。

 緊張感から解放された美月は初めての登山の疲労も相まって、いつの間にか意識を落した。

 再び目を開けると穂高の顔が至近距離に迫り、ハッとした美月は慌てて離れようとするが、穂高の腕に繋がれた美月は身動きが取れない。

 困った挙げ句、隣でぐっすりと眠る穂高を見つめた。



 長身で端正な顔立ちの穂高はどこにいても目立っていた。

 誰にでも変わらない態度で接する穂高。そんな優しい彼のことを、好きにならない女の子なんているのだろうか。

 穂高はいつだって女の子たちの取り巻きの中にいた。

 内気な美月は、少し離れたところから穂高を見つめることしかできなかった。

 何人かの女の子たちは穂高に告白したらしいが、皆振られてしまったらしい。

 誰しもが認める高嶺の花的な女子でさえも、見事に振られてしまったのだ。

 どうやら彼には意中の女性がいるらしい。誰しもがそう思っていた。

 ある時、よからぬ噂がたつようになった。

 穂高は男にしか興味がないのではないかと。

 そんな噂が広まると女の子たちは皆、穂高から離れていったようにも思えた。

 噂を信じるなんてバカバカしい。

 自分に脈無し、そう思った彼女たちはそれまでの態度を一変させ引きの速いことといったら。なんて現金な人達なのだろうと思ったくらいだ。

 だが、密かに想いを寄せ片恋慕の美月にとって、人だかりが減った分穂高を見やすくなった。

 穂高に意中の女性がいようがいまいが、美月には関係なかった。

 ただ穂高に気づかれないようにこっそり見つめるだけ、それだけでよかった。

 噂を流してくれた者たちに美月はむしろ感謝したいくらいだった。



 そんな美月にも春が訪れた。

 同じ大学の別学部の男子に告白されたのだ。

 まさにその告白されている真っ只中の出来事だった。

 決して悪い印象の男子ではなかったが、穂高を推しとしている美月には、彼意外の男子にときめきを感じず、興味すら湧かなかった。

 ただ、相手の男子を傷つけないように、なんて答えたらいいものかと逡巡していた正にその時。

 突如美月の前に、穂高が現れた。彼は相手の男子にこう言った。

「美月にはもう彼氏がいる。悪いが諦めてくれ」と。

 それを聞いた美月の口から思わず出た言葉は「は?」であった。

 美月は突然の穂高の登場と、その返しに驚きの眼で彼を見つめた。

「それは本当ですか?」

 美月は告白してきた男子にそう問われると言葉に詰まったが、これは断る理由になると思った彼女に悪魔が囁いた。

 ――ええい、この際だからのっかってしまえ!

「えっと・・・・・・そ、そうですね、はい・・・・・・」

「そうですか・・・・・・で、相手は誰ですか?」

 なかなか往生際の悪い男子というか、明らかに嘘がバレバレだったに違いない。

 焦った美月は正直に言おうと腹を括った。

「ごめんなさい・・・・・・本当は、彼なんて・・・・・・」

 と言ったところで穂高が会話をさえぎった。

「へー。美月の彼氏を目の前にして相手が誰か問うなんて、君なかなか勇気があるな」

「え?」

 その刹那、穂高の言葉を理解できなかった美月は、数秒遅れで「ああ・・・」と事の状況を理解した。

 穂高は、返事に困る私を見かねて助け舟を出してくれたのだ。

 本当に彼は優しいのだと実感した瞬間だった。あとでお礼を言わなくては。そう思った。

穂高の言葉をすっかり真に受てしまった男子は、血相を変えてその場から立ち去った。

 少し気の毒に思いながらも、その光景があまりにも可笑しくて思わず「ふふふ」と声を漏らしてしまった。

「あの・・・・・・助けてくださりありがとうございました。嘘も方便ですよね」

「嘘か・・・・・・まぁ、嘘から出たまことってことで。では改めて。僕と付き合ってくれないか」

 穂高は爽やかな笑顔を浮かべてそう言った。

「へ?」

 美月は大きな瞳を瞬き、間抜けな表情で答えた。

 穂高は悪びれた様子もなく、無垢な表情でにこにこと美月を見つめていた。

「あの、こんなことを言うのもなんですが・・・・・・穂高さんには意中の女性がいらっしゃるのではないのですか?」

「いるよ。僕は、ずっと君のことが好きだった」

 その刹那、美月は卒倒した。



 美月は、声を出さずに思い出し笑いを浮かべた。

「大好きだよ・・・・・・穂高・・・・・・こんな私のことを好きになってくれてありがとう」

 美月は眠る穂高に小さな声で囁いた。



 ややあって、二人の間に置かれた美月の手を穂高がそっと握りしめた。

 不意を突かれた美月の心臓が跳ね上がり、ドキドキと張りつめていく。

 あまりにも唐突な出来事に、目を開けるタイミングすら逃してしまった美月は、そのまま寝たふりをした。

 するとふわりとあたたかく柔らかなものが、美月の唇にそっと触れた気がした。

 ――今のは・・・・・・

 目を開けることができず状況を確認できない美月は、そのまま寝たふりをしてやり過ごしたが、頭の中は酷く混乱していた。

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