第2話 初めての登山

「ねぇ美月、今度一緒に夏山登山にチャレンジしてみないか?」

「え?登山?でも私、登山の経験ないから、自信がないな・・・・・・」

「大丈夫だよ。僕がサポートするから、安心して」

「でも、私なんか足手まといになるだけだよ・・・・・・」

「それならば心配はいらないよ。君に合わせた無理のない登山計画にするから」

「そこまで言ってくれるなら・・・・・・チャレンジしてみようかな、夏登山」

「うん。僕は君に見せたいものがあるんだ」

 同じ大学の学部で知り合った穂高。その名の通り山をこよなく愛する彼は、子供の頃から日本有数の山々を制覇してきたつわものだ。

 山岳系の雑誌に紹介されるほど彼は有名な登山家でもあった。

 その穂高が一緒とあれば怖いものは何もない。

「それじゃあ、楽しみにしているね。早速、体力造りに励まなくちゃ」

「うん一緒に頑張ろう」

 穂高はそんな美月を見つめ微笑んだ。



「美月、その登山服とてもよく似合っているよ」

 穂高はあまりにもまじまじと見つめ真剣にそう言うものだから、気恥ずかしさに身を捩る美月だった。

 初登山に合わせておしゃれな登山服を選んだ美月。気づいてもらえて嬉しかった。

「どう?これで私も山ガールの一員になれるかな」

 美月はその場でくるりと回って見せた。

「うん、うん。とても可愛い山ガールだよ。ただ、悪い虫がつかないように見張らないといけないな」

 穂高の言葉に美月は頬を桃色に染め、はにかみながら微笑んだ。

「では、早速出発しようか」

「うん」

 登山としてはやや遅めの出発だ。

 今回の初登山はゆっくり山頂を目指し、昼下がりの午後には山頂に到着し事前に予約した山小屋で一泊する計画だった。

 登山道入り口で数人の見知らぬ登山客とすれ違った。

「おはようございます!」

「おはようございます」

 穂高はすれ違う見知らぬ人達と顔を見合わせ爽やかな挨拶を交わした。

 山のマナーだ。見知らぬ者でも同じ仲間であるというような感覚が登山にはある。

 山での挨拶は万一の時の目撃情報に繋がるとも言われている。

 互いに山の情報を交換したり、トラブルがあったら助け合ったり。

 それは、少し昔の古き良き日本では当たり前に見られた習慣、相互扶助的な精神がそこにはあった。

 昨今の社会では希薄となりつつある人との繋がりの大切さを、登山から学んだ瞬間だった。

 そういえば、穂高は日常生活においても当たり前のように自ら挨拶を行い、誰とでも分け隔てなく言葉を交わしていたのを思い出した。

 今回、穂高の偉大さに改めて気づかされた美月は、感慨にひたる瞬間でもあった。

 穂高と出会えてよかった、そう思った美月の胸はほっこりと温かなものを感じた。

「ねぇ穂高・・・・・・」

「どうした?美月」

「今日ここに、私を連れてきてくれてありがとう」

「美月?登山はこれからだぞ。音を上げなければいいんだが・・・・・・」

 不安げな表情で美月を見つめる穂高を見て美月は微笑んだ。



 二人が目指す山の登山ルートには六つのルートがあり、今回穂高が計画した登山ルートは山頂までの登山距離が最も短く途中施設が整っている初心者向き。その中でも 人気のルートを選んだ。

 とはいっても登山初心者の美月には困難な道のりと思われた。

「美月、大丈夫か?少し休もうか?」

「うん、ありがとう。でもまだ大丈夫」

 先を歩く穂高は美月を気にかけ幾度となく言葉かけを行う。

「ここから先は急こう配で、岩場が多いから足元に気をつけて。何かあったら遠慮しないで言ってくれていいから」

「うん」

 時折手を指し伸ばしては支えてくれる穂高。そんな優しい穂高のたくましい後ろ姿に目を細め見つめる美月。頬に熱を帯びていくのを感じた。



 正午をまわる頃、途中山小屋の外に設置されたベンチに腰掛けて休憩をとった。

 二人は持参したスポーツ飲料で喉を潤す。

 喉を鳴らして飲む美月。

「はぁ~!美味しい!こんなにおいしく感じたのは生まれて初めてかもしれない」

「そんな一気に飲んで大丈夫か」

 そんな子供のような美月を陽だまりのようなあたたかな眼差しで見守る穂高。

 美月はふと、これまで歩いてきた登山道に目を向けた。

 まだまだ下から大勢の登山者が蟻のように列を成し、山頂目指して登ってくるのが見えた。

「私達、いつの間にかもうこんなところまで登ってきたんだね」

 美月は、そこから広々とした視界を一望した。

 眼下には青々と生い茂る広大な森が、その少し先には活気づく街が広がり、遥か彼方には水平線まで続く碧い海を望めた。

 まるで心が浄化されていくようなその絶景に、思わず吐息を零す美月。

 そこへ登山道を吹き抜ける爽やかな風が、美月の火照った頬をそっと撫でた。

 それは、奥深い森で時間をかけ濾過された清らかな水の雫のような、黄緑色の清々しい木々の葉や、真夏の大草原に咲き乱れる草花が風にうねり生命の躍動を感じさせる、すっきりと爽やかな夏山の風。

 ――ああ、なんて心地いいのだろう・・・・・・

 それはこれまでに体験したことのない程の心地よさだった。

 風が運ぶ夏山の香りを追いかけるように、目を瞑ったまま蒼空に向かってゆっくり顔を上げる美月。

 その刹那、穂高の心臓がドキリと音をたて跳ね上がる。

 揺れる長い睫毛、白く澄んだ肌に火照った頬、桜色に艶めく唇は妙にあだっぽくて・・・・・・。

 まるでキスをねだるような、そんな隙だらけの美月に魅せられくぎ付けとなる穂高。よからぬ妄想を抱いた穂高は、胸を高鳴らせた。

 突如美月がパチリと目を開いたため、至近距離で目が合った。

 ハッとした穂高はわかり易いくらい頬を紅潮させ、美月から不自然に視線を逸らした。

「穂高?どうかしたの?」

「い、否、別に・・・・・・どうもしない・・・・・・ただ・・・・・・」

「ただ?」

 様子のおかしな穂高を心配した面持ちで覗き込む美月。

 ――あまりにも君が魅力的だったから・・・・・・君とキスしたその先を妄想してしまったなんて言えるわけがないだろ・・・・・・

 件の彼女からの痛いツッコミに狼狽える穂高。

「さ、さあ、そろそろ出発してみないか」

 眉根を下げながら咄嗟に出た言葉で何とかお茶を濁した穂高だが、胸の鼓動がおさまるまでにはしばしの時間を要した。



「せーのっ!」

 二人は手をとり合い、揃って最後の一歩を踏み出した。

 唯一無二、日本一の山の頂に立つ二人。

 そこから眺める世界は何故かとても小さく、いとも簡単に壊れてしまいそうなくらい儚く感じた。

 広大な地球規模の絶景を眺めていると、胸に抱えていた悩み事なんてとてもちっぽけに感じて、最早どうでもよくなってしまうくらい。

 初めての登山を最愛の穂高と挑み、その登頂の達成感に胸がいっぱいとなった美月は感無量になった。

 紺碧の空に光り輝く夏の太陽が、眼下に広がる雲海に乱反射し美月の潤んだ瞳をより一層キラキラと輝かせ、とても眩しく見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る