38.鏡のなかに映る
†
大会場は、港湾近くに設営された、鉄筋組みの巨大野外ステージだった。
砂利敷きの広場の片隅を、警備員さんたちの誘導に守られながら、ワゴンならぬ観光バスで進む。窓に掛けられたカーテンの隙間から、ちらっと外を見ると、遠めに見る路上はすでに人だかりでごった返していたし、バルバルとうるさいのは、あれ、多分テレビ局のヘリだろうな。
現実が迫ってきて、すこしだけ胸の奥に緊張がこごる。
「
私達を迎えに、Psyさんの(じゃなかった、
エレベーターから、華月さんを筆頭に降りてきた私達を目にしたとたん、彼はすごい勢いで駆け寄ってきて、真っ先に華月さんの頬をひっぱたいた。
「何をやってんだあんたは!」
早朝で、周りに人がいないからいいようなものの、物凄い怒声が反響した。
黙ってその平手打ちを受けた華月さんに、三井さんは顔を歪めたままポケットからハンカチに包んだ保冷剤を取り出して、さっき自分が叩いた頬にそれをばちんと押し付ける。わぁ、さすがマネージャー、用意周到……。
「僕が! 《
「――そうでしたね」
「あんただけが《WEST‐GO》を理解して愛してたような顔するな! 全部を台無しにするようなマネするんじゃないよ! 守るためじゃなくて破壊するために十代の子を利用するようなマネ、Psyさんが許すと思うのか⁉」
そこで、華月さんは「はは」と嗤った。
「――本当、耳が痛いですよ」
喉の奥で唸り声をあげてから、三井さんは「皆さん早く乗り込んでください。楽器は僕達スタッフで運び込みますから。いつもの曲に合わせたラインナップでいいんですよね?」と全員を見渡した。
「はい……それで結構です」
「了解です」
言うなり、バスの中から揃いの黒Tシャツを着たスタッフ(と思しき)人達がぞろぞろとバスから降りてきた。
「
「――寝室に入ってもらってます」
彼等を見送ると、三井さんは目の前の華月さんの肩を一度だけぐっと抱き寄せて、「よく耐えたな」と小声で言ってから、離れた。
「Psyの音楽は、みんなのものだ。だから、宮川さんを受け入れるかどうかの結論は、オーディエンスが決めるんだよ。その後、君がやれないというならば、それは君の決断だ。自由にするといい。でもな、《WEST‐GO》を、そういうものに育てようとしたのが、彼女の意志だと、僕は信じて譲らないからな」
バスからバックステージに降りた私達を出迎えたのは、スタッフさんたちの拍手と、海と薄曇りの空だった。
プレハブの仮設控室がたくさん並ぶ中、扉横に張られていたネームプレートを確認して、その内の一つに入る。ドレッサー前の椅子の上で三角すわりして唸りながら前後に揺れていた音希が立ち上がった。わー、泣きそうな顔してる。
ちらりと見れば、部屋の片隅ではチェロを片手に澄さんが椅子に座っていた。私達にむかってにこやかに微笑みながらうなずいてみせる。
立ち上がった音希は「みょおおおお!」と叫びながら抱き着いてきた。
「どうしよどうしよやっちゃったよおおお!」
背中をなでつつ頭をぽんぽんしてやると、「うええ」と泣き出した。
「はいはいだいじょぶだいじょぶ。自分で決めたんでしょ?」
「役者不足すぎなんわかってんだよもおおお! 吐きそう! マジで吐きそうなんだけど!」
「私も一緒にステージ立ってあげるから、泣かない。あんたはあんたのベストを尽くすの」
「でも、これほんといいのかな? 後継者とかハッタリかまして、お前なんかいらんわってなったら、あたしもうほんと立ち直れないんだけどおお!」
「それは、《WEST‐GO》にとってのサウンドとしてのイエス・ノーだけなんだから、それが音希の歌はだめですってアンサーってことじゃないじゃない?」
「それはそうだけどさああ⁉ はじめてぶちかます舞台がこれっておかしすぎない?」
「人生とチャンスはひとそれぞれだよ。踏ん張んな」
バチン、と音希の背中をひとつ叩く。これ、親父がよくやってくれたんだよね。舞台に立つ前に緊張してると、背中をひとつバン、て叩くの。それで、なぜだかいつもすごく憑き物が落ちたみたいになるんだ。
「失礼しまーす」
入出してきたスタッフさんたちが楽器を運び込んできた。
「あ、坂井さんは、控室隣に用意してありますので、そちらへ移ってくださいね」
スタッフさんに言われて「あ、はい」と音希から離れた。
「そちらで、華月さんがお待ちです」
そう言われて、「はい?」と思わず声を上げた。
「――なんでだよ」
後ろから物凄い顔でそう言ったのは、一緒に入って来てた義仁先輩だ。
義仁先輩は音希たちの楽屋にのこして、私一人で私用とネームプレートを張られていた控室にノックしてから入った。中にいた華月さんが、私の方を見て、薄く笑った。
「あの……」
「寝不足や、疲労はないですか?」
「あ、はい。ブース、占有しちゃってすいませんでした」
頭を下げると、華月さんは首を横に振った。
「外から聴いてました。すごかった」
「私の音は、使い物になりますか?」
「はい。Psyの音の核を、これ以上ないくらいひろっていただけていました」
それから、華月さんは、ドレッサー前の椅子を引いて目配せした。
「かけてください。メイクとセットをしますから」
「え」
「Psyの目許のメイク、見ましたか」
「はい」
「あれをやるのは、私の仕事なんです」
ああ、そういうことか。
「私でいいんですか? 音希にするんじゃなくて」
華月さんは、目を伏せて笑った。
「宮川さんは、違いますから」
促されるに従い、私はドレッサーに向かった。
鏡の奥に映る華月さんの胸元には、赤い十字架のネックレスが下がっていた。彼が今纏っている衣装には見覚えがあった。前に動画で見たものと同じ、深紅の衣装だった。だから、十字架は、あまり目立たない。
華月さんの、私の顔に触れる手はやさしかった。
きっと、ずっとこんな風にしてPsyをPsyにしていったんだろう。彼には、これしかPsyに触れる時間が与えられなかったんだろう。そう思うと、胸の奥がきしんだ。目を閉じてと言われて、指示に従う。右目の周りに、冷たく、硬く、細い筆の筋が走る。きっと右目だったのは、華月さんの見えない左目の対称だった。
「目をあけて」
鏡のなかに映る私は、髪のセットアップも済ませていて、なぜだろう、すごく泣きたくなった。
「ああ、やっぱり、よく似ている」
鏡の中の華月さんは、とても苦し気に笑っていた。
「――私、音希とは似てないはずなんですけどね」
「それはね、似ている本質が違うからですよ」
そう言ってから、華月さんは、ゆっくり頭を下げた。
「
「――はい」
「本当に、申し訳ないことをした」
何を言っているのか、瞬時に伝わって、私は膝の上で拳を握りしめた。
「やめてください。貴方が……悪いわけじゃない」
「それでも、我々の責任です」
泣いちゃだめだ。メイクが落ちるから。
「――義仁先輩がね」
そういうと、華月さんは少しだけ顔を上げた。
「アレクセイが……?」
「父のことを音希たちにバラした時に、言ったんです。「生きているものが先に進むために、許して欲しい」って」
ゆっくりと振り返り、鏡越しじゃない華月さんの顔を見上げた。
もうこの人は、怖い人じゃない。
十分に苦しんだ人だった。
「私達は、生きて、音楽を、やりましょう」
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