37.お前の音なんか、



          †


 ツェーデーエーエフゲーアーハーツェーツェーハーアーゲーエフエーデーツェー


 練習の基本は、スケールのくり返し。これを、何十分も、何百回もやる。

 それからCメジャースケールを。


 ツェーエーデーエフエーゲーエフアーゲーツェーアーツェーアーデーツェー

 ツェーアーハーゲーアーエフゲーエーエフデーエーツェーデーアーツェー


 それから、音階を変えて、バッハのスケールを。


 ああ、気に入らない。

 指が動かない。


 もっと。もっと動け。Psyさんの音を、感性を、描いたものを再現しろ。理解しろ。音楽の意味を読み解け。


 借りたPsyさんのフレットレスのベースの指板を押す。そこに残っている呼吸を感じ取れ。


 一般的なエレキベースの弾き手は、ベースのボディを腰辺りにまで落として弾くけれど、Psyさんはコンバス弾きだったから、動画でもボディを立てて弾いてた。


 一緒だね。

 一緒だよ。

 私、あなたと一緒だ。


 私は《表現者たる音楽家プレイヤー》だから。そして、あなたは《創造者たる音楽家コンポーザー》だから。そう、あなたは生み出す人。あなたは、拾い上げたステルの心を、そして、たくさんの人たちの心を、あなたが見た世界を、大切に、けんめいに、手のひらですくい取って、そして形にしたよね。


 必ず。

 必ず私が再現する。

 よみがえらせるの。

 あなたを、私の中に。

 それをのが、私。


 夕べ、彩子と対面してから、ずっとブースに引き籠って弾き続けている。再現を支えるのは、地味で地道で、正確に繰り返した訓練だけ。どんな時だってブレのないクオリティで演奏するには、それしかない。それはもう絶対だ。


 でも、この半年まともに動かなかった腕と指と心は、明白に私の感覚を鈍らせていたから、それをどうしてもこの一晩で取り戻したかった。時間を空けてしまった結果は取り戻せないから、完璧にはできないに決まってるけど、それでも、やるんだ。やれるだけやるんだよ。


 過集中していると、音の中にダイブしているのとは真逆に、周囲の動きに対しても過敏になる。だから、ブースの扉のノブに外から触れられた気配も察知してしまって、ああううるさい邪魔だなと、頭の片隅に苛立いらだちがよぎる。


「――妙、ちょっと」


 義仁先輩だ。


「先輩、まだだめ」

「すまん、わかってる。今、音希さんが」

「アクションおこした?」


 手は止めない。音は、止めない。


「――ああ、動画出した。三井さんの声明付きで、公式から。自分が後継者候補として、「ジョン」じゃなくて大会場でライブやるから、客がイエス・ノーを決めろって。メンバーも大会場にこいって」

「やると思ってた」

「え」


 下れ。もっと滑らかに音をつなげるんだ。指、動け。


「音希だから。あんなの、黙って最後までやると思ってなかった」


 そうだ。歌は音希なんだ。音希の声で、歌で弾くんだ。そうだった、そっちにチューンナップもしていかないと。


「――先輩」

「あ、すまん、邪魔だよな。でも、多分もうちょっとしたらこっちに迎えのワゴンが」

「私の音」

「え」


 音をとめて、先輩の顔を見た。


 扉から差し込む朝日の逆光を、先輩は背負っている。白と黒のコントラストが際立って、先輩の輪郭をぼやけさせてしまう。


 それが、やっぱりとても親父に、似て見せていた。


「私、ちゃんと私の音で、弾けてる? 親父のコピーじゃなくて」


 一瞬、呼吸を止めてから、先輩は、多分ちょっと泣きそうな顔で「ははっ」と笑った。


「お前の音なんか、まだまだらくさんには及ばないよ。あの人を誰だと思ってんだ。俺のヒーローだぞ」


 だよね。

 そうだよね。

 目に浮かんだ涙を、もう誤魔化したり、隠したりしないでいい。

 親父の音は、ほんとうに、ほんとうに凄かったんだから。

 まだ似てるなんて、誰にも言わせない。


「見てなさいよ。絶対に超えてやるから」



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