39.「すみません」
†
私の腕時計の針は、すでに午前十時半を指している。テレビ放送は午後五時を廻ってからだけれど、ライブそのものの開演時間は午後三時。楽器の最終点検とゲネプロ、及び音響確認なんかをメンバー自身でクリアするのにギリギリの時間だ。
野外特設ステージという特性から、ここで音出しをしていけば外で待っている観客にも音は届くことになる。音希の声も聞こえていくだろう。それはきっと、またSNSで拡散してゆく。そうして、世界中に届く。
聴け。聴いてみろ。
音希の歌を。
本気を出した音希の歌は、誰かの歌声に寄せに行く時の歌とは段違いなんだから。
バックステージからステージに上がる前、音希の楽屋に全員集合した。《WEST‐GO》の皆と、私、義仁先輩、音希、それから澄さんと、三井さん。
顔ぶれがそろうなり、華月さんが「三井さん」と名を呼んだ。
「申し訳ないけれど、今から段取りの組換えをします」
「は?」
華月さんの唐突な物言いで、三井さんが物凄く高い声を上げた。意図を組んだ片岡さん、タタラさん、私と先輩は苦笑する。まあ、混乱するのは当然の話だよね。華月さんは、ちらりと私達全員の顔を見てから、「妙さん」と手を差し出した。頷いて、手にしていた封筒の中から
「え、何それ」
ぽかんと口を開けた音希に、華月さんが
「なにこれ、エヴァ……?」
「【
華月さんの答えに、音希がはっと息を吞む。それから食い入るように見入った。
「え、これ、これだけト音記号なんだ?」
「はい。本来、Psy自身が歌う予定で作っていない楽曲だからです。これを、最後にやりたいと思います。宮川さん、あなたの歌で」
「は⁉」
わあ、物凄い顔……。きょときょととその場に居合わせた全員の顔を見まわす。返されるのは、苦笑と首肯だ。それで音希の顔色がどんどん悪くなってゆく。
「マジで……これ、本番でやるの……? あたしが? 今日?」
華月さんがにこやかに笑った。
「そうです。後継者に名乗りを上げるんでしょう? これくらい、クリアしてもらわないとね」
「わああ……」
「納得させてください。貴女の歌で、我々と、オーディエンスを」
「そんな殺生な……」
「音希」
隣から穏やかな声で澄さんが名前を呼ぶ。
「それくらいの暗譜、30分もあれば、できるよな? お前、自分でやるって名乗り上げたもんな?」
「あっ! くっそ兄貴……っ! ちくしょうやってやるよ!」
悲痛な叫び声をあげたあと、口をパクパクさせながら、それでも音希はあっという間に譜面に意識を没入させていった。やだわぁ、このお兄様、ハッパかけるのがお上手だこと。
「さーて、俺等もおぼえなあかんなぁ」
片岡さんの言葉に、タタラさんが「久々に腕がなるわねぇ」と笑う。
「Psyの直前
「【apple】だよ、アレ、マジでふざけんなって二人で叫んだじゃないよ」
「ああ――――思い出した!」
どことなく嬉しそうに顔を苦笑で歪める片岡さんとタタラさんは、やっぱり嬉しいんだろうな。また、Psyの音楽に会えたんだから。
そんな後ろから、澄さんと義仁先輩の小声のやり取りが聞こえてきた。
「悪い澄。遅くなった」
「いや、大丈夫。十分早かったよ」
「しかし、音希さん、思い切ったな」
「一応三井さんも合意だし。勝手にやったってことにはならないから、セーフセーフ」
「マネージメントのお墨付きかぁ……強いなぁ」
「そもそも、あんな自己主張激しい人間に、代理だの影武者だのってやらせるのが無茶なんだって。いつ「こんなことやってられるかー!」って言い出すかなって思ってたけど、ウチに返ってから菊音にハッパかけられてね」
「ああ、菊音さんかぁ……さすがだなぁ」
「これは、最終的にはメンバーさん達次第だろうけど、あいつ自身は継承ポジションにつく腹くくったってことでいいと思うよ。あいつ、Psyさんのこと大好きだからな」
「ふふ」と笑ってから、義仁先輩は「ちょっと」と一人控室を出て行った。
その背中を見送ってから、目の前で繰り広げられている四人の譜面確認会を、私はぼんやりと眺めた。ほんと、もう違和感ないな、音希がそこにいるのが。
「あ、妙ちゃん」
片岡さんがひょいと顔を上げる。
「自分も
というので、私は胸の前にちょろっと手を上げた。
「だいじょうぶ。私、弾けます。もうおぼえてる」
「は?」
「私、暗譜得意なの」
「あー、言うてたなあ、さすがや……」
「あっ!」
しまった、重大なことに気が付いた。
「でも私、今コントラバス持ってない……それ、コンバス指定だった……」
「あ、ほんとだ。弓記号入ってる」
音希の言葉に、「あ」と全員が絶句した時。
「あるよ」
唐突に背後から声がした。
全員で振り返る。
「こんなこともあろうかと、俺さっき調律しといたから。ソロ弦で良かったんだよな?
声の正体は、戻ってきた義仁先輩だった。手に持っていたのは、濃い紅茶色のボディが美しい、オリエントのストリングベース――。
「すいませんけど、こんなこともあろうかと、三井さんにお願いして、マンションから運んでもらうよう、手配してもらいました」
澄さんが、
――とんでもないところで、予測もできないどんでん返しをやらかす人だった。そう言えば最初聞いた時は信じられなかったのだけれど、澄さん達帰国組、凱旋ライブで、パッフェルベルの「カノン」を弾いてる最中に突然全員で「カエルの歌」に移行するという、離れ技と呼ぶには非常識過ぎるマネをやらかしたって聞いてる。
いや、というより、これは義仁先輩の企みか?
まあ何でもいいか。ありがたいから。
「私、使わせてもらって、構いませんか?」
駄目押しで確認する私に、タタラさんは噴き出した。華月さんも片岡さんも嬉しそうに苦笑してた。
「当然でしょう。貴女以外に誰がやれるっていうんですか」
それから華月さんは、三井さんのほうへと向き直り、「ということです」と微笑んだ。三井さんは溜息をつき、「わかりました」と頭を縦にして見せる。
「今から局のほうへ連絡します。曲目追加変更とだけ伝えれば構いませんね?」
それだけのことがどれだけ大変かなんて、少し想像すれば馬鹿でもわかる。なのに、三井さんはにこやかにそれを請け負ってくれた。
「すみません」
義仁先輩は真っ直ぐに頭を下げ、駆けて行った三井さんを見送った。
私は前髪をかき揚げて、義仁先輩の側に駆け寄り弦を受け取った。弓に少しだけ触れて、ヤニの付きを確認する。
さすがだ。申し分ない。
「妙――」
義仁先輩に、私はようやっと真っ直ぐな視線を送ることができた。
「つまり先輩、ある程度、こうなる予測は付いてたってこと?」
「――うん、まあ」
「ありがとうございます。これで全力でやれる」
ネックを左腕でつかみ、「よいっ」と持ち上げた。
「あの、妙?」
怪訝そうな表情になった先輩に、もう少しばかり弦を持ち上げて見せる。
「調律したの、先輩なのね? 今したんでしょ?」
「そう、だけど――」
「じゃあ、安心して弾ける」
「え」
「「音」聴いたから。先輩の耳と腕には、全面的に信頼おいてるの」
義仁先輩は、切なそうに顔を歪めて笑った。私は、笑って頷いてから、音希のほうに向き直った。
「じゃあ、今日は、あたしと音希がPsyさんだよ」
譜面に視線を向けたまま、音希はにやりと笑った。
「ああ、わかってる」
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