35.『最後の手紙』
†
「まったく……」
対して、床に転がったままの
大人の男の人が二人。殴った方と、殴られた方。
どこかしら、ひりひりした空気がブース内に充満していた。
と、義仁先輩が振り返る。薄暗いなかで、白い顔が浮かび上がって見えた。ひたり、と足が動く。カーペットの上を白い足が踏み進む。一歩、また一歩。ズボンのすそが揺れる。強いパーマをあてた、薄茶色の髪がゆれる。眼差しに浮かぶ光は、強い。
先輩が向かったのは、ブースの片隅にたたずむユッカ・エレファンティペスの前だった。その傍にしゃがみ込み、その葉脈に指を
「――華月。お前の状況や、立場が複雑なのも、
義仁先輩の言葉に、華月さんが発したのは失笑だった。カーペットの上で彼は、力なく片膝を立てて、自嘲に満ちた顔で「わかっている、か」と零した。
「私がどれほど無様かを、みんな知っていると、そう言うわけですか」
「――俺達は、そこまで無情じゃない」
義仁先輩は華月さんに背中を向けたまま、そう言った。
「でもな、だからって破壊衝動に走るのはだめだろうが。あんな情報流して、ラストライブを失敗で終わらせる気か?」
そこまで言って、先輩は、「――いや、そうか」と顔をわずかに上げた。
「お前の事だ。そもそも、そのつもりで
「なんやて?」
片岡さんの声に、タタラさんが「あ」と声を漏らす。
義仁先輩は「はああ」と頭をぐじゃぐじゃにかき混ぜながら「そうだよ、お前そういう男だわ」と苦虫を噛みつぶしたような声で言った。
「Psyさんがいない以上、結局君の思っていた
その言葉に、華月さんは、ゆっくりと顔を歪めると、両手でその顔をおおった。
「Psyの身体は――」
今まで私が聞いたことのない、しらない、
「Psyの身体は、確かに
私の隣で、ぎりっと音がした。タタラさんが
そうか。
これは、彼等全員の言葉なんだ。
華月さんが長い溜息を吐いた。
「もう、どんなに願っても、求めても叶わない。Psyに言葉を届けることも、彼女に名を呼んでもらうことすら、できない。活動も続けられない」
義仁先輩は、ユッカの前でうつむいたまま拳を握りしめた。
「君らにとっては、Psyさんが主体だからな……死んだというのが、実質で本質なのだというのは、心情的には十分にわかるよ」
「だけどな、」と先輩は立ち上がった。
「それでPsyさんが浮かばれなくなったんじゃ、どうしようもないだろ。そういう人に、見てられないって帰ってこさせるようなマネするなよ」
「え?」
《WEST‐GO》の三人が顔を上げた。先輩が「
「例の
「あ……はい、戻しました」
「華月。書斎の鍵を」
それから、先輩の指示に従って、私は書斎から例の封筒を持ち出し、それを華月さんに手渡した。立ち上がって受け取った彼の表情は、とても苦しそうだった。
「これは」
「妙のところで、Psyさんが書いた物だ」
「ちょ、ちょっと待って」とタタラさんが両手を胸の前に上げた。
「それ一体どういうこと? あなたステルと――」
愕然とした顔でタタラさんは私を見る。答えたのは、私でなく先輩だ。
「
「えっ」
声を挙げた片岡さんに、私は黙ってうなずいて見せた。
「知らなかったの。多分、私がずっと一緒にいたのはステルのほうだったと思うんだけど、それを用意した時の彼女は、きっと、Psyさんのほうだった」
あの時の、低い声と、強い眼差しを思い出す。
真相を知った今なら分かる。〈姫〉とは違うと感じた直観は間違ってなかった。
華月さんは、封筒の表を見てから、中身を取り出した。片岡さんとタタラさんが駆け寄り、三人並んで【evanescent】の譜面に目を通してゆく。
最後まで見終わったあと、華月さんの手の中で、くしゃりと小さな音がした。
「私はまだ生きています、あなたもまだ生きていますよ――か」
顔を伏せた華月さんの肩に、片岡さんがぽんと手を乗せた。震える華月さんの身体全体が、音もなく慟哭しているのがわかった。
ぎゅっと、両手を握りしめて、彼等を見つめた。しっかり、見ておかなきゃと、そう思った。
「あの時、彼女、言ってたんです。もう全部、終わったって。『最後の手紙』だから、ちゃんと受け取ってほしいって、迷わないで、あなたを生きてほしい。最初で最後のお願いだから、って」
とたん、ははっと華月さんが笑った。
「酷いことを言うなぁほんとに……!」
華月さんの静かな言葉に、ああ、やっぱり。と思った。
やっぱり、この人が一番Psyを愛してた。
改めて、そう思い知らされて、浮かびかけた涙を零したくなくて、私はぎゅっと目蓋を伏せた。
でも、このまま気持ちのまま沈んでちゃだめなんだ。今はこの人達含めてやらなきゃいけないことがある。そう、そのラストライブだよ。
板踏み外しなんか絶対あっちゃだめだ。親父だって言ってたもん。舞台に穴はあけちゃいけない。あれは「皆で作り上げる空間なんだ」からって。
気持ちを切り替える。
「――でもとにかく今は、ラストライブをどうにかしなきゃですよね? 音希と澄さん、三井さんから言われて、今、家で缶詰になっちゃってるみたいだし」
何でもないことのようにいい、先輩に目を向けた。先輩ならやるべきことのために動くべきだって言ってくれると思ったから。つまり賛同してくれる期待を込めて。
だから、その時になって、私はやっと先輩の様子がおかしいのに気付いた。
義仁先輩は、私の背後の一点を凝視していた。私の後ろにあるのは防音室の扉しかない。だから、ふりかえった。
闇の底に浮かぶ、白い人影。
一瞬で、咽喉の奥が水気を失った。
――〈姫〉が、ステルが、いや、
暗いリビングを背に、彩子の姿だけが浮かび上がるように白い。ほのかな純白の発光を、まるで月の光のように皮膚から発散させている。
「〈姫〉――……。」
白い白い彼女の身体が、闇の底、まるで異物のように無言で立ち尽くしている。
彼女は静かな眼差しで私を見ている。そして、こちらへ向けて、ゆっくりと一歩を踏み出してきた。光の燐粉を散らしながら、静かな足取りで、死の世界から、こちらの世界へ。
一歩、一歩。
私は、戻ってきた彼女と向かい合った。
初めて出逢った河川敷の空間のように白々としたものではなく、生きた存在としての
ああ。
今になってようやくわかった。
どうして、わたしが彩子をひろったのか。
わたしには、彼女の心が、痛いほどわかるのだ。
――私の中にも、別の人間がいる。
それは、親父だった。母さんによって、佐久間さんによって、私は親父の代わりにされた。だけど、それが他人のせいであろうとどうだろうと、私は、私だけは、私が私であることを見失ってはならなかったんだ。
炎が。
青い炎が。
心の奥底に、一点だけともった炎がある。
彩子は、さみしそうに微笑みながら、ゆっくりと頷いた。
「ねぇ、あなたは、一体誰?」
――そして、私は、一体誰なの?
決まってる。
「私は、私だ」
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