33.「うっそやろおおおお⁉」


          †


 先輩の腰にがっちりとつかまりながら、私は小さく悲鳴を飲み込んだ。


 先輩の愛車は、400㏄のワインレッドのバイク。私達はそれにタンデムしている。ぶっ飛ばせるだけ飛ばす先輩の背中にしがみ付くだけで必死だった。大体タンデムばかりかバイクに乗るのなんて初めてなんだから。


 身体にかかるGは、正直厳しい。だけれど、今どうしても言っておきたいことがあった。


「先輩!」

「何⁉」


 口を開くだけで、ばたばたと空気が咽喉のどの奥に搦む。少しだけむせてから、力一杯叫んだ。


「私! 引っ掛かってたことがあって! それにさっき気が付いたんだけど!」

「え⁉」

「私、声! 低いほうでしょう⁉」

「あ⁉ ちょっと待て!」


 叫んでから、先輩はバイクの速度を落として、路側帯のところで停車した。半身だけで乗車したまま振りかえる。どるっどるっとエンジンが喚いていた。


「なんだった?」

「私、声低いでしょ? だから、Psyさんの歌って、基本的には歌いやすいのね」

「ああ、だな。俺も音域合うから」

「でね、片岡さんが言ってたんだけど、シャウト部分って華月さんが歌ってたんだって」

「は? マジで?」

「うん、マジで。つまりねPsyって音域がすごく低いのよ。でね、Psyの音域だと【evanescent】は無理なの」

「は?」

の、あの曲だけ」

 義仁先輩が、怪訝そうに右へ小首をかしげながらバイザーを上げた。

「どういうことだ?」

「【evanescent】の楽譜だけ、主旋律がト音記号で書いてあった」

「あっ……?」

 はっとした目で私を見る義仁先輩に、私は頷いて見せた。

 あの日、Psyさんの書斎で、音希が言っていた。


(「うわサイアク。あたしこんな逆Cが二つも並んだみたいな記号知らないんだけど」)


「《WEST‐GO》の他の譜面、ボーカルパートって、

「……そう、いうことか」


 義仁先輩は、しばらく思案顔でうつむいていた。口許を手でおおい、じっと、アスファルトの一点を凝視している。


「――妙」

「はい」


 先輩と私は、意見の合致したのを、そこで確認し合った。



「……やっとわかったよ。Psyさんの本当の意思が」



 先輩は、ゆっくりと顔をうつむけながら、バイザーをかたんと下げた。その直前に見た義仁先輩の顔は、泣きだしそうにも、うれしそうにも見えた。


 そう。やっぱりあれは、Psyが歌うための歌じゃなかった。


 【evanescent】のスコアを見た時、私は、何かをおぼえていた。他の《WEST‐GO》のスコアとは何かが違うと。

 そう。あのスコアだけ、Psyの。


 Psyは高音域の歌が歌えない。だけど、私の部屋にいた時、〈姫〉は、とても綺麗なハイトーンで「G線上のアリア」を口ずさんでいた。


 それはつまり、彼女達は、人格によって音域が――もっと言うなら、声そのものが異なるということ。私がそう確証を得られたのは、書斎でPsyさんの動画を見た時に聞いた声と、〈姫〉の声がまるきり違ったから。


 つまり、あの【evanescent】は、ステルのための楽曲ってこと。

 あれこそが、Psyからの遺書。ステルへの、それから皆への。

 『Last will For Ster』



 ――と。



「妙、行くぞ」

「はい」

「黙ってしっかり掴まってろよ!」


 途端、身体の右側に極端な重力がかかり、私は咽喉を嗄らす勢いで悲鳴を上げた。


          †


「――なあ、おと

「ん?」


 深夜に近い刻限。メンバーが姿を現さないことを受けて、三井みついからの謝罪とともに、とおると音希はいったん自宅へ戻る事となった。


 ライブハウスの裏口から出た直後、信号待ちの傍ら、チェロを片手に隣で立つ兄に呼ばれて音希は振りかえる。


「どした? 兄貴」


 喉の乾燥防止に棒つきキャンディーを口に加えていた音希は、視線を向けた先で兄がいつものごとく、飄々とした顔でスマホをスワイプしているのをとらえた。うつむき加減に小首をかしげる兄は、男版自分と言った感じで、その表情がうっすらと笑っているのが、何故か不気味に思えて、嫌な予感をさそわれた。


「なんかあった?」

「これ、えらいことになってる」

「は?」


 「見てみ」と差し出されたスマホの画面に映っていたのは、動画サイトのとあるチャンネルだった。深夜の交差点だというのに、繁華街というだけあって、周囲にはまだまだ人通りがある。暗がりの中、ほぼ黒い画面の中、タイトルだけが白く浮いていた。


「ナニコレ、はないん?」

「音声情報だけみたいなんだけど、聞いてみ」

「んん?」


 兄の差し出すスマホに音希は耳をよせた。



『唐突な話でお困りになられたことでしょう。ご迷惑をおかけいたしました。申し訳ありません』


 『ああ、――え』


『すでにお聞き及びかも知れませんが、私は《WEST‐GO》というバンドのギタリスト兼リーダーで、華月かげつと申します。実は、メンバーの一人であるPsyという者が――急死しました』

『事情がありまして、世間にはその事実を公表することができないのですが、活動停止を明確に世間に知らしめて終了させることは、かねてよりのPsyの意思でした。我々は、その意思を全うしたいのです』


 『……り?』


『Psyの代理として、テレビ放映のステージに立っていただけませんか?』


 『代――――すか』


『はい。最終の出演は、もともとライブハウスからテレビ中継と動画配信を同時に行う予定でしたので、その場にいるのは身内だけです。Psyをよく知る芸能人や、関係者と直接顔を合わせるような大きな支障はありません。もちろん生番組だというリスクはありますが』



「ちょ……兄貴、これ……」


 音希の全身がやにわに硬直する。全身に鳥肌が立ち、ついで冷や汗が噴き出した。おずおずと兄の顔を見上げる。見下ろす兄の顔は、なぜだか、とてもにこやかだった。


「動画配信サイトでさらされてる。もう拡散されすぎて、収集なんかつかないぞ、これ」

「うっそやろおおおお⁉」


 深夜の繁華街、きたえにきたえた腹の底から上げた音希の叫び声が、ビルのはざまに、こだました。




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