32.しあわせに



          †


「――ねぇ、わたしは、一体誰なの?」


 ステルの言葉に、華月は何も言葉を返せなかった。

 返せるはずもなかった。


 華月の本心は、すでにステルの口から明らかにされている。一片の誤りも、誤解もなかった。彼は確かにPsyをPsyのまま、取り戻したかった。いや、もうそれが叶わない願いだということはわかっていた。それでも、思い切れなかった。だから。


「あなたは、本当に、残酷だ」


 そう言うと、ゆっくりと扉へ向かった。かちゃりと、開く。

 その背中を視線で追っていたステルの目が、ゆっくりと、おおきく開かれていった。開け放たれた扉の向こうに、三つの影があった。


「お嬢――彩子さいこ


 びくりと、ふるえた。

 声。

 自分の名を呼ぶ、その声。

 タタラと片岡の二人に、肩を支えられて入って来た男の変わり果てたその姿に、かたかたと震え出す。


 見る影もなく、やせ衰えた男のシルエットに、どうしようもない絶望と、どうしようもない恋しさが零れて、「はっ」と吐息をもらした。


洋平ようへい……どうして……病院は?」

「華月くんが、連絡をくれたんだ。お前が、いなくなったって」


 佐久間が、片岡達から離れた。ゆっくりと、ステルの方へ進む。その手が、震える手が、ステルに伸びる。


 いや。その手が、指先が求めて伸ばしたのは、ステルではなかった。

 彩子だった。


 佐久間は、そっと彩子の頬に指先で触れる。そのまま髪をいてあごに指先をはわせた。


 冷たかった。


 佐久間の指先が離れる。彼の親指が一瞬、彩子の唇に触れた。乾いた感触がそこに残る。


「ねえ、どうして今更……こんな、」


 ふふ、と佐久間は自嘲をこぼす。


「俺が、ゆるせないか、お嬢」


 答えを返せず立ちすくむ彩子の前で、佐久間は静かに微笑む。


「俺のことは、憎んでくれていい。どうせ、もうすぐお前の前からもいなくなるんだから」


 彩子の顔が歪む。込み上げた涙が頬を伝い落ちてゆく。震える両手を持ち上げて、佐久間の襟元を掴んだ。必死に。


「そんな勝手なことを……っ! どうして、どうしてあんたがっ……」


 引きれたような音で息を吸い上げ、彩子は佐久間にすがった。


「おかしいじゃないか。わたしがあんたを置いて行くはずだったのに、なんであんたが先にいくんだよ」

「すまない」


 男は静かに謝罪を口にした。


「――俺には、もう、お前を抱く資格も腕もない」


 彩子の指が、襟から外れた。

 佐久間の目が、彩子を見下ろす。静かに、ただ静かに。


「お嬢。お前も俺を拒絶するばかりだった。俺たちの間にあったのは所詮、破綻だけだ。最初から最後まで、互いに互いを見ていないことにするしかなかった、紛い物の破綻だけだ」


 静かに、その目が、沼のようににごる。


「お前は、望んでいたのに認めなかったものな――俺におとしめられることを」


 全身に粟が立った。


 はっ、と、声にならない息が、引きつれたように彩子の肺の中で痙攣する。腹の内側からくる震え。怒り。若しくは衝撃。この男に自己の存在を軽んじられること。それでいて執拗に求められること。身代わりでしかないこと。復讐の捌け口でしかないこと。その何もかもが、彩子も望んで成立していたと、佐久間は言ったのだ。


 そして、その言葉がこれ程までに胸に刺さるのは、きっと、佐久間の言葉が間違いではないからだ。


 蹂躙じゅうりんの愉悦。虐げられる安堵。

 冷たく鋭く、深く奥にまでもぐりこむ、あの、世間から孤絶する悦び。

 それを、彩子の本心は、完全には否定できない。

 暴力よりも甚だしい、他者の心をえぐる言葉を吐いたというのに、佐久間は悲しい目をして彩子を見つめている。それきりだ。


 ふいに怒りが込み上げる。

 なんて、なんて勝手な。

 滲むような暗い憎悪が沸く。 


「赦さない」


 小さな呟きが、彩子の唇からもれる。

 彩子の華奢な指先が、今度こそ佐久間の喉元にかかる。ぐっと、力がこもる。佐久間はただ、黙って彩子の目を見つめる。

 静かに、ただ静かに、室内に沈黙が満ちてゆく。


「すまない」

「だめよ。絶対にあんたのことなんか赦さない。わたしを置いて行って、自分だけ楽になるなんて絶対に認めない」


 はたり、と佐久間の胸に一滴が堕ちる。


「あんたのせいで、あの人は死んだのに」

「わかっている」

「あんたのせいで」


 唇が震える。


「――あんたが、わたしと引き合わせたりしたから……!」


 佐久間の目が、静かに彩子を見つめる。


「こんなことになるんだったら……っ」


 喉にかけていた手を外し、その襟を掴んだ。


「罪悪感なんか持つんだったら、最初からしないでよっ……!」


「彩子……」


「あんたにとって、わたしは何だったの。なんでわたしがあんたの過去への報復に使われなきゃなんなかったのよ」


 佐久間は、ただ静かに彩子を見つめる。

 答えるべき唇は、閉ざされたままだ。

 泣く女と、見下ろす男の向こう側に、見守る三人の姿がある。


「すまない、彩子。それでも」


 濁った佐久間の目に浮かんだ涙が、


「俺には、お前じゃなきゃ、だめだった」


 ぱたぱたと、床に零れ落ちて、


「赦さなくていい。憎んでくれていいから、それでも、どうか」


 彩子の手が、佐久間の両頬を包んだ。


「どうか、しあわせに」


 その姿に、華月と片岡が、各々の場所で、視線をそらした。


「お前には、しあわせに、生きていてほしい」


 彩子の慟哭が、室内にひびく。溺れるように、佐久間の身体にしがみつく。そしてその身体を、佐久間はそのやせ衰えた腕で、残された力を振り絞るようにして、かき抱いた。



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