31.ねぇ、わたしは、



 ステルに名を呼ばれ、ほんの少し、げつの手の力が緩んだ。しかめられていた男の眉が、いっそう険しくなる。


「何をしているんですか、あなたは。いや、何をしていたんですか、今まで」


 その問いに、ステルは静かに嗤った。


「わたしがどこでなにをしていても、あなたにとってはどうでもいいことでしょう」

「ステル」

「ああ、でも、そうね。わたしステルはどうでもよくても、Psyの身体は、どうでもよくはないわよね」


 ぐっとつまる華月の手の力がさらにゆるんだ。ステルは溜息を吐き、ゆっくりとその手を解かせた。


「決着を、つけにきたのよ」


 華月の目が、またほんの少しすがめられる。


「何の決着だと言うのですか」

「弱すぎた自分との、決着をつけによ」


 ステルの言葉を受け、華月は床に散らばった紙を見下ろした。内の幾枚かが表を向いている。印字された詩は、華月にも見覚えのある、Psyの手によるものだ。

 華月の表情が、闇の底でもそうと知れるほど歪む。


「馬鹿なことを……。今更それを破り捨てたところで、Psyの歌はなかったことにはならない」

「わかってる。もう外に出てしまったものに関しては仕方がないわ。――だけどね、「これ」を、あなたが所有していていい理由も、ないんじゃない?」


 華月の唇が、ぴくりと震える。それを確かめた上で、ステルは極上の微笑を浮かべた。


「あなたのこの部屋に、あの子の居場所をつくって、あの子の全てを囲い込んだつもりになって、それで――」


 ぱさり、と、また一枚譜面が床に落ちた。



洋平ようへいから奪い取って、わたしの存在を消してしまいたかったんでしょう?」



 しんと、室内に痛いくらいの沈黙が満ちる。

 華月の刺すような視線が、ステルの目を射抜いた。


「ステル……」

「あの子を奪ったわたしが、憎い?」

「――……。」

「わたしのほうが死ねばよかった。君はそう思っているでしょう? でも、あの子を失ったのは、わたしだって同じなのよ」

「ステル……」

「「何をしていたのか」って? 何を今更。――先にわたしの存在を否定したのは、あなたのくせに」

「――……。」


 言葉をつまらせた華月に、ふと、いい知れぬ怒りが湧いた。


「だってそうでしょ? 華月。わたし、ずっと思っていたよ。今、君はわたしをステルと呼んだ。君はわたしがステルだとわかっていた。そうよ。わたしはPsyじゃない。ステルよ。だけど、どうだった? Psyが消えてしまった後、皆、わたしのことを彩子って呼ぶのよ。君もよ。君もわたしを彩子って呼んでた。でも、あなた、本当はそうは思ってなかったじゃない。Psyがもういないなんて受け入れられないから、だから、君は彩子を受け入れない」


 華月は絶句し、拳を固めた。


「ステル」


 握りしめられた拳が、ふるえる。


「あなたも――本当にPsyの存在を、消してしまうつもりなんですか?」


 ステルは顔をゆがめてかぶりをふった。


「わたしが望んだわけじゃない。消したかったわけがあるか! 誰もPsyがいなくなることなんか望んでいやしない。わたしステルとPsyと、どちらが残るべきだったかなんて明白じゃない! でも、もうPsyはいないんだよ!」

「ステル……」

「どうして、わたしにこんなことを言わせるの……!」


 嗚咽が、もれた。


「そうだよ。皆がPsyを必要としてた。君にとってだって、大切なのはPsyだけだ。わたしなんか必要なかった。だけどね、わたしにとってだってPsyはかけがえがない存在だった。それは、Psyを手に入れられなかった君こそが、一番よくわかっているはずでしょう?」


 図星に、華月の目が苦痛に歪んだ。


「Psyがいる限り、わたしはわたしを自由にできなかった。そしてわたしがいる限り、Psyもまた自由にはなれなかった。わたし達は縄張り争いに明け暮れていたようなものだよ。互いの間に境界線を張って、少しでもその陣地を広げようと躍起になって。でも、最後の最後ではお互いに相手を失えないこともわかってた。だけど結局は同じだった。Psyが死んでも何も変わりやしない。――蛇の生殺しだよ。わたしはわたしが何者なのか永劫にわからない。だって、君達《WEST‐GO》の人間は、そして君達のオーディエンスは、ずっとPsyの存在をわたしの中に見続ける。わたしがわたしだけのものになることはない。

 ――ねぇ、わたしは、一体誰なの?」


          †


 義仁よしひと先輩が、テーブルの上に投げ出していた鍵とスマホを取り上げた。


みょう、一緒に来てくれ」

「一緒にって、どこに」

「今から華月さんのマンションにいく」

「え、華月、さんの? どこ?」

「え、どこって……」と義仁先輩は怪訝な眼差しでとおるさんを見た。

「お前達、行ったことあるんだろ?」

「ああ、一室丸々スタジオみたいなマンションは、行ったけど」

「え、マンションて、あれ、Psyさんのマンションじゃ――」


 とたん、義仁先輩の顔が歪んだ。


「ああ、そう思ってたか……あそこは、華月さんの持ち物だよ。彩子が住んでたのは――佐久間さんのマンションだ」

「え、と、え?」


 待って。

 ちょっと待って?


「それ、佐久間さんと、〈姫〉が……? 一緒に?」


 あの、何度も行って、二人で演奏したマンションに、〈姫〉が住んでたってこと?

 まって、ほんとまって。

 それって、つまり、そういうこと?


 私の視線の混乱を受けて、義仁先輩は明らかに「しまった」という表情を浮かべていたけど、でも、ちらっとスマホに目を落として「時間がないから」と答えるのを放棄した。ひどい。


「この機を逃がしたら、また厄介なことになるかも知れないから。澄」


 義仁先輩が視線を向けると、澄さんはもう承知しているらしく、普段は見せない険しい目で、こくりとうなずいた。


「いいよ、わかってる。俺と音希おときはこっちにいればいいんだな」

「すまん」


 澄さんは「ふふふ」と笑って、なんだか、すごく切なそうに目をすがめてから、ぱん、と先輩の肩を叩いた。


「いつもとは立場が逆転したみたいだな」

「たまにはいいだろ。いつもはこっちがお前に待たされてるんだ。存分に待ち惚けてろ」

「どれほどで済む?」

「わからない。できるだけ本番には間に合うようにするつもりだ。お前としても板を踏み外すのは本意じゃないだろう?」

「当たり前だ」

「でもはっきり言ってどう転ぶかわかんないんだよなー」

「「わかんない」、じゃないよ。万が一踏み外したら、お前が責任とってくれるんだな」

「なんでそうなるんだよ」

「ほらほら。そんな無駄口叩いてる場合じゃないんだろ? 急ぐんでしょ?」

「叩かせてんのは誰だよ!」


 笑いながら二人は拳と拳をこつんと叩き合わせた。



「行ってくる」




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