7.遺書

30.母に会いたかった。





 カードキーを差し込み、ドアのノブを、かちゃりとひねる。冷たく無機質な音と共に、扉を開く。


 ノブを引き、見慣れた部屋に脚を踏み入れる。そして、大きく息を吸い込んだ。


 今宵は、満月。

 藍色の薄闇へ、ひどく明るい光が投げかけられている夜だ。


 カーテンを開け放ってあるのか、リビングには冷たい光が充満している。薄紙がふわり、と覆い被さるかのような色彩は、それに見合うだけの寒さをもたらしていた。もう五月も半ばなのに。


 すべるようにフローリングを歩き、リビングを通り過ぎる。白いアオザイをゆらして。


 そして、見慣れた扉の前に立ち尽くす。


 この向こう側に、わたしが――いや、わたしとPsyサイが生きて刻んできた全ての記録が残されている。見てきたもの、聞いてきたもの。感じたもの。そして――切り捨ててきたもの。


 袖から、ちゃらりとキーホルダーを下げた。そしてその先端についている銀の鍵を指先に捕まえ、錠に差し込み、かっちゃん、と回す。その刹那、膚肌をぞっと這いあがったものがあった。それをこらえて、室内に踏み入る。


 それは、あまりに凶暴過ぎるわたしという存在の本質――いや、本質の一部――だ。

 隠し切れない感情が、この部屋の内側に、まだ充満している。


 それは迷いだった。怒りだった。哀しみでもあった。快楽でさえあった。それは無関係な他人の前にだって容赦なく暴れ出ようとする。


 それは、わたしが切り捨てたものだった。

 そして、Psyがひろい集めたものだった。


 見慣れたラック。そこまで歩を進め、一冊のファイリングケースを抜き取った。ぱらぱらとながめるだけでも、そこから立ち昇るものがある。この部屋に充満しているものは、全てこの中に収められているのだ。


 ――これを記したのは、Psy。


 これは、Psyが記した、わたしの心の記録。Psyが、わたしのことを思って、命を削るようにしたためてくれた、Psyが見たわたしという世界の景色。

 わたしが拒絶した、わたしという存在を証すために。


 そう考えて、自嘲した。


「やっぱり、全部わたしのせいだったのかも知れないわね」


 わたし達は、自身という存在をつかみとるために躍起やっきになっていた。ここにいると、ここに生きているのだと、他者から承認されることを、必死で求めていた。そして、気付いた時には、もう遅かった。


 わたし達のどうしようもないエゴを撒き散らし続けた結果、かけがえのない人を死に至らしめてしまった。


 溜息がこぼれおちる。

 そっと、目を伏せた。



 生まれ育った村は、自然に囲まれていて、美しく、しかしどうしようもないほど閉鎖的だった。

 十河そごうの家での暮らしは、生活としては何不自由なかったと思う。

 早逝した父の顔は写真でしか知らない。

 母が傍にいなかったのは――男と出奔したからだと聞かされていた。

 だから、らくと出会って、その実態は、十河が母から子どもを取り上げて追い出したというものだったのだと知らされて、ああ、そういうことだったのかと、やっと理解した。

 母は、わたし達を望んで捨てたわけではなかったのだと。

 うれしかった。

 だから、母に会いたかった。


 ねぇ、母さん、聞いて。

 あなたがいなくなって、わたしは、きっと、わたしとして生きる道も失ってしまったんだよ。

 それでね、見かねたあの人が、村から連れだしてくれたの。

 あの人、父さんも、楽さんもいなくなって、さみしかったのね。

 わたし、気付いてた。

 あの人にとっても、わたしは、懐かしい思い出の身代わりでしかなかったんだなって。

 でも、わたしには、あの人しかいなかったから。

 だから、離れられなかった。

 だめな関係だってわかってた。

 でも、離れられなかった。

 でも、だめね。やっぱり、わたしは父さんたちの身代わりに過ぎないから。

 わたし達のせいで、あの人に楽さんまで失わせてしまって。

 だからもう、一緒にいられなくて。

 Psyも壊れて、消えてしまって。


 だからね、

 わたし、彼から逃げたの。

 わたし達のせいで壊してしまったものを、これ以上見ていられなくて。


 ぱらぱらと、ファイルをめくる。


「ほんと、馬鹿みたいよね。全部全部、わたし達がこうして喚き散らしたせいなんだもの。そのせいで、こんなことに……」


 虚空に向け、失ってしまったPsyに対し呟く。

 そうじゃない? もう、こんなに大量の狂気を残しておく理由なんて、ないでしょう?


「ねぇPsy……あなただって、もう、見知らぬ誰かの狂気に愛されたくなんか、ないでしょう?」


 ファイルの中から紙を抜き取った。そして束にしたその上部を両手でつかむ。


 微笑みを浮かべて縦に引き裂こうとした直前だった。はっと気配に気付き、そちらに目をむける。とたん、闇の底から手が伸びてきた。


 白い。骨張った。

 ぞっとするほど美しい手。


「っ」


 息を呑んだ。その手は、自分の手首を、ひどく強い力でいましめてきたから。


 ばさばさと紙片が舞い落ちる。フローリングをすべり、闇の底で幾つもの白く四角い入口が、ぽっかりと口を開ける。


 骨がきしむほどの力強さで手首がつかまれている。こんなに美しい手の主を、自分は彼以外に知らない。美しい手と言っても、それは色々あるけれど、これほどまでに冷たくて、これほどまでに繊細な、鞣革なめしがわのような肌は他にない。

捕まれた手首を凝視していると、闇の底から、ぼうっと、男の顔が浮かんだ。



「――



 男の声に、目を見張る。

 今。

 いま、この男は、わたしのことをステルと呼んだ。

 そうか。

 

 


 わらいが、零れ落ちる。

 ねぇ、Psy聞こえる? 彼はやっぱり、あなたとわたしは違うんだって思ってるみたい。もう、あなたはここに存在しないのに、そうだとわかっていて、なお彼は、わたしを彩子さいこだとは認めない。


 あなたが消えても、あなたとわたしは、ひとつにはならないって。

 あなたじゃないから。


 彩子を認めてしまったら、本当に永遠にPsyは喪われてしまうから、だから、彼にとって、ステルはステルのままでなくてはならなかった。ステルとPsyは別物でなくてはならなかった。


 わたしが、わたしになることを、彼は絶対に認めない。


 


 しずかに、長く、息を吐き出した。


 冷たくて、そしてどこか、少年のままで停滞してしまっているような人だと、何時か思った。だからこそ、彼とPsyは、二人で音楽を作れたんだろう。きっと本当は、二人きりでずっといたかったんだろう。


 わたしという存在を、消せるなら消してしまいたかったに違いない。永遠に。

 ねぇ、そうでしょ?


「――げつ


 薄闇の中に浮かぶ男の名を呼んで、しずかに、長く、息を吸い込んだ。




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