25.本名



          †


 と、突然、それまでの緊迫感を台無しにするようなスマホの着信音が、すぐそばで鳴り響いた。音希おときと二人して「うおっ」と声をあげる。


 何とも歯切れの良すぎる「フニクリ・フニクラ」。私の着信音とは違うし、おとの着信音もシンプルなベル音だ。みれば「んんん」と寝起きの目を細めたとおるさんが、自分のカバンのなかをまさぐっていた。そんな本気で寝てたんだ、澄さんたら……。


「兄貴、早くでないと切れるよ」

「わかってるよぉ」


 着信音が余計に焦らせるのか、それともまだ寝ぼけているのか、澄さんは、がさごそと鞄の底を漁っている。音希は「あれ」と一緒に澄さんのカバンの中を覗きこんだ。


「めずらしいね。ヨシヒトさん5ベルも鳴らして出なきゃ、いつも電話切っちゃうのに」

「え?」


 予想もしなかった人の名前が出たところで、音希はくいっと親指を立てて澄さん、及びスマホを指し示す。


「あの着信音、ヨシヒトさん専用になってんの。ちなみに設定したのはヨシヒトさん本人ね」


 いやセンス……。ていうか、ヒマ? ヒマなの? あの人。


「妙はヨシヒトさんとは会ったことあるんだよね? ライブの日、ここ来る前、あの人も兄貴と一緒に爾志にしに行ってたって聞いてるけど」

「あ、うん。会ってる」


 その「ヨシヒトさん」とはそれ以降も何度か顔をあわせてて、なんならつい一昨日は(どさくさにまぎれて)抱き締められましたとかそういうことは……まぁ、今言わなくてもいいか。何となく、ややこしいことになりそうだし……。と思って、黙ってまっていたら、ようやく澄さんはスマホを探しあてたようだった。


 通話ボタンを押し、「もしもし?」と勢い込んで受話器に声を通した澄さんは、何だか微妙な表情をしていた。


『――澄』


 スマホの向こう側から聞こえた声は、確かにヨシヒト先輩のものだった。


「ヨシヒトだな?」

『ああ』

「どうしたんだ」

『今、ハウス地下にいるんだろう? 今日、リハーサルするって言ってたよな』

「ああ。だけど、まだげつさん達が来てなくて――」


 言いかけた澄さんを、ヨシヒト先輩の声が『わかってる』とさえぎった。


『そこに妙がいるだろう。変わってくれ』

「ヨシヒト?」


 さすがに怪訝に思ったらしい澄さんは、ちらりと私のほうを見やり、再びスマホのほうへと視線を戻した。


「どういうことだ? 何があった」

『説明は後だ。とにかく変わってくれ』


 有無を言わさぬ口調は、しっかりともれ聞こえている。再び澄さんが視線をくれた時、私は迷わず首を縦にした。


「――わかった。ヨシヒト、スピーカーにするから、そのまま話せ」


 澄さんは、自分のスマホを三人の真ん中に差し出した。目配せしながら頷いて見せる。


「妙ちゃん、いいよ、話して」

「はい、ありがとうございます。――あの、妙です、ヨシヒト先輩」

『急にすまん。洋平ようへいさんがどこに行ったか知らないか?』

「――は? え? よ、え?」

『洋平さんだよ。佐久間さくま 洋平ようへいさん』


 え、まって。なんでヨシヒト先輩の口から急に佐久間さんの名前が出てくるの?


『妙、なあ、聞こえてるか? もしもし?』

「あっ、あ、はい、聞こえてます。え、ちょ、私、いま佐久間さんがどこにいるかは、しらない……」


 はいビックリしすぎたんだと思いますが、急に日本語不自由な人になるのやめて私!


『じゃあ、最近は会ってないか?』

「あ、いえ、会いました、昨日」

『昨日⁉』

「はい。先輩と会ったあと、ちょっと色々あって、電話したらウチに来てくれて……」

『その時、何かなかったか? あの人何か言ってなかった?』

「あ」


 ――という不自然な私の発音の後に続いた、不自然な無言の間は、明らかに何かありましたと告げていて。


『あったんだな?』

「……はい」

『澄』

「ん?」

『今から俺もそっち行くから、ハウス内に顔パスできるようにしといてくれ』

「ええ?」

『華月さんたちも今いないんだろ? まず間違いなく、全部が原因だ』

「は? え、誰って?」

『そっちに行って説明する。切るぞ』


 と、言うが早いか、ドルルン、という、何かの排気音が通話口から飛び出て、そして切れた。


「なんなんだ、あいつ……」


 珍しく眉間にしわを寄せながら、自分の手のなかのスマホに視線を落としていた澄さんが、そのままの顔で私に目を向ける。


「妙ちゃん、なんか心当たりある?」

「いえ、あの……」


 ない、ことはない。あると言えばある。だけど、え? ヨシヒト先輩、なんて言ってた? 華月さんたちがリハーサルに来てないのと、佐久間さんが行方不明なの、原因一緒って言ってなかった? え? ていうか佐久間さんなんで行方不明? そんで、なんで佐久間さんと先輩が? え? 知り合い?


 どういうこと?


 頭がまとまらず、思わずフレットをぎゅっとつかんでいると、横から音希が「サイコって……」と口元を手でおおった。


「音希? どうしたの?」


 音希の表情もまた険しくなっている。澄さんもそれに気付いて小首を傾げた。


 周囲は喧噪けんそうに満ちている。誰かの怒声が聞こえた。突然鳴り響く音楽。舞台の上に楽器を持った人間はいない。録音を流して照明やカメラワークを確認してるんだ。サイコ。最近も聞いた。誰だった。誰が言っていた。


「――あ」


 佐久間さんだ。

 佐久間さんが言ってた。サイコはここにいたのかって。


 音希の視線が、ステージに投げかけられた。



「サイコって、Psyサイの本名だよ。十河そごう 彩子さいこ……」




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