26.あんたが泣くのか
†
「いやだから顔パスできるようにしとけって言ったろ俺⁉」
顔を合わせるなり、開口一番そうがなり立てたヨシヒト先輩の気持ちは、まあわからなくもない。
でも、『そっちに行って説明する』と言って彼が電話を切ってから、ライブハウスに到着するまでに要した時間はおよそ十五分。いや早いよ。そして、
「だって、そんな近くにいると思ってなかったんだよー」
と、どうどうと
からの、楽屋に四人でひっこんでから、およそ十分が経過したのが今になる。
「まったくもうっ……!」
ラーメン頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜて盛大な溜息をついてから、「んっ」とヨシヒト先輩は顔を上げると、私達をじっと見据えた。
その視線や表情に、はじめてあった時の印象は、もうなかった。
こんなに真っ直ぐに視線を向ける人だったなんて、思わなかった。
「で、
ヨシヒト先輩からの質問に、三人そろって首を横にふる。
「ないな」と答えたのは澄さんだ。「三井さんからも、何も言われてないよ」
「状況から見ても、あの人は
「そうなのか」
「ああ。――妙」
ちらりと向けられた視線にどきりとしつつも「はい」と返事を返す。
背筋が、ざわめいた。
今の先輩は、口調もそうだけれど、態度や気配が全然ちがった。あの、だらだらした彼ではなくて、一枚被っていた殻を脱いで本質を
直感で悟った。本物の先輩はこっちだ――。
「確認させてほしい。佐久間さんと、何を話した」
もう、隠してはおけない。
ぎゅっと、フレットを握った。
「私、しばらく前に、ある女性と出会って、それから、その人と二人で暮らしてました」
「は⁉」
音希がすごい顔で私を見ているのがわかったけど、顔を向けられなかった。
「ミョウ、二人って、どういうこと? お、お父さんの話はさっき聞いたけど、なに? お母さんは?」
「音希」
ヨシヒト先輩の隣に立っていた澄さんが声をかける。
「ちょっと黙って。妙ちゃんにしゃべらせてあげて」
「う」
つまった音希の気配が、更に私の背中を騒めかせる。どくどくと心臓が痛い。
「その、佐久間さんがうちにきて、その時に、佐久間さんが、彼女が残していったものを見つけて、それが、Psyの譜面の書き損じで……」
「ちょっ、妙、佐久間さんて、それも誰」
「音希、しっ」
宮川兄妹のやりとりの向こう側で、口元を覆って聞いていたヨシヒト先輩が「そういうことか」と眉間にしわをよせた。
「妙、それ、譜面、まちがいなくPsy さんの筆跡だったんだな?」
「はい。私、見間違えないので」
「タイトルは」
「【
「これまでに出てない譜面だな」
音希が「あたしも、そんな曲しらない」と横から付け加える。
「でも、あれは間違いなくPsyさんの筆跡でした」
腹をくくろう。
「あの、私、Psyさんのマンションからスコアのファイル間違って持って帰ってしまって、それを返しに行った時に、その中に同じ譜面が入ってたんです。それは完成した譜面で、それで、その譜面を入れていた封筒に、「『
ヨシヒト先輩の目が、ぱちり、と瞬いた。
「
それから、私達三人をじっとゆっくり見渡してから、「ここから先は、他言無用でお願いしたいんだけど、いいな? 澄」
「了解。音希は」
「う、はい。黙ります」
音希がジェスチャーでお口チャックして見せる。
「妙は――先に謝らせてもらう。すまない」
「え」
「お前の事情を話さないと、もう先に進められないんだ」
「せんぱ」
「望まないから、知られたくないから隠してたんだとわかってる。だけど、生きているものが先に進むために、許して欲しい」
先輩は、ゆっくりと息を吐きだしながら、近くのパイプ椅子に座った。そして、顔を上げた。
「妙。改めて自己紹介する。俺の名前は
「――え」
先輩の顔を見た。返されたのは、とても静かな首肯だった。
思わず澄さんの方を見てしまう。でも、彼は首を横にふるだけだった。音希は「だからそれ誰だよ」と眉根をひそめるばかりだ。
再び先輩のほうへと顔を向けた。彼は、やはりとても静かな眼差しをしていた。
ふと、この場に関係ない疑問が、こころの内で鎌首をもたげた。
――この人、どうして弦を止めてしまったんだろう?
これまで彼が見せてきただらだらした姿は、本来の彼とは違ったんだってことは、もう気付いている。ううん、あの河原で、もう気付いてた。
動作、言動、雰囲気。そんなものをいくらいい加減に見せようと振る舞ったって、最終的には人格をごまかすなんてできない。だから、楽器を続ける気力がなかったから止めたというのは、あれは嘘だ。
先輩は、ちゃんとバスが弾ける人だ。この人には実力がある。弾ける力があれば、気力うんぬんなんか、関係なく弾いてしまうものなのだ。だから、実力不足以外に、何か弾かなくなる原因があるとしたら、それは、心が空っぽになってしまった時ぐらいなのだ。
それは「弾かない」、ではなく、「弾けない」、だ。
弦を弾くことに限らない。なにかしらの表現をする人というのは、その活動を行う精神的な
どれぐらいの間、義仁先輩の目を見ていただろうか。やがて先輩のほうが先に視線をはずした。すっと心持ち斜め下に落とされる、あの真っ直ぐな視線が反れた。たったそれだけで、表情が闇に隠れるくらい彼の存在は遠退いた。
ひどく距離が開いた気がした。
突然、ひとりでそこに存在しているような気になる。
パイプ椅子に座っているわたしの身体と、足の裏が接している床とが、なぜだかひどく遠い。距離感にあてられて、座っているのに、くらくらと
頭がぼおっとする。薄ぼんやりと、遠くから自分を眺めているような、そんな気分になる。
白々とした眠気が――私の目蓋をむりやり閉じさせようとしてくる。
だけど、それを制したのは、やっぱり先輩……
「妙。俺達、
言われてみて、確かにそう感じたことを思い出す。河川敷で先輩と二人きりになった時だ。あの時、私はひどく不安な既視感におちいって、それで――。
「お前、憶えているはずなんだよ。だって、お前、俺に言ったじゃん」
義仁先輩が、泣き出しそうに顔を歪めた。
「あんたが泣くのか――って」
「うそ」
呟いてから、口元をおおった。
思い出した。
思い出してしまった。
白と黒のコントラストは、際立ちすぎると、ひとの輪郭をぼやけさせてしまうのかも知れない。ずいずいずっころばし。茶碗の割れる音。
佐久間さんに肩を抱かれていた男の人。ううん、泣いていたのは、佐久間さんもだった。あれは、あれは――、
「先輩、もしかして半年前、髪黒かった?」
「ああ」
そうか、
あれは、
あれが、
――先輩だったのか。
ようやく、合点がいった。
「うん……おも、おもい出しました……」
そうだ。私、この人は何時も、私が過去の記憶を
「喪に服して、あの時だけは髪を黒くしてみたんだよ」
義仁先輩は、視線を逸らしたまま、ぎしりと椅子を鳴らした。
「俺は、お前が隠していることを知っているって、もうお前に言ったんだよ」
静かな
「――父親を殺されて傷付かない子供なんていないんだぞ」
首筋に電撃が走り、私は義仁先輩の顔を凝視した。
先輩の目は、私がこれまで無視し続けてきた私自身を、底の底まで、完全に見通していた。
それに耐えきれなくて、私は、両手で顔を覆った。
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