6.佳境  

23.白い花




 すうっとした香りが、鼻腔から喉へとすべりおちた。

 次の刹那、ぱんっ、と軽い物音がして、頬に熱がはしった。


 そこでやっと、自分が佐久間さくまさんに肩をつかまれて、ゆさぶられながら、名前を呼ばれ続けていたんだと気付いた。佐久間さんの、すっかり細くなってしまった手首をつかむ。


「ごめん……佐久間さ、も、いい」

「正気に戻ったか」


 少しだけ怒ったような声音は、心配をかけてしまった証拠だった。それでも佐久間さんは安堵の溜息をもらしてから笑ってくれた。


「うん、ごめん、うん。――目、さめた」


 佐久間さんは、溜息をつくと、さっき叩いた私の頬をなでて「悪かった」と小声で言った。


 久しぶりに会う佐久間さんの顔色は――前よりも、もっとずっと悪くなっていた。

 目の下のくまは色濃くなり、頬もすっかりそげて、全身が痩せてしまっている。


 ふわりと、なにかをごまかすかのような、冷たい香りがとどいた。そうだ、さっき私の意識を引き戻したのは、この、佐久間さんのオードトワレの香りだ。


「佐久間さん、あたし、電話、したんだよね」

「そうだよ、何呆けてんの」


 溜息を吐きながら、佐久間さんは私の前に座った。


「ごめんなさい、身体、しんどいのに……」

「そんなこと、こんな時に気にするな」

「病院は?」


 佐久間さんは、笑って、でも答えなかった。代わりに、


「何があった」


 と、質問で返してきた。

 でも、私も佐久間さんの質問には、答えられなかった。


 だって〈姫〉との関係をどう説明したらいい? 河川敷で女の子をひろったけど、今朝気が付いたらいなくなっててショックを受けてるなんて、そんなこと聞かされても、意味がわからないでしょう?


 黙った私に、佐久間さんは、くるりと背を向けた。中年と呼んで差し支えない男の人の脚がフローリングを横切っていく。戻って来た佐久間さんの手の中には、缶ジュースが一本あった。うちには、そんなストックなかったから、それも持ってきてくれたものらしい。


 私の側で片膝をつくと、ぶしっ、と音を立ててプルタブを開けて手渡してくれた。


「ほら」


 私の手の中に、見慣れた赤い缶が落とされる。プルタブ、開封してくれててよかった。気付いていなかったけれど、私、指先がふるえて、力が入らなくなってた。そのふるえを隠しながら、缶を口に近づける。


 こくり、と一口飲みこんで、息をついた。


「そんなとこにずっといたんだったら冷えただろう。立てそうか」


 黙ったまま首を横に振る。本当に、全てが億劫おっくうだった。


「仕方ないな。毛布とってくる」


 佐久間さんは、また立ち上がると、今度は私の部屋へ行った。


 床にへたり込んだままジュースを飲み続けていると、ばたばたと足音が響いてきた。


 顔を上げると、佐久間さんの表情が、心なしかさっきより固い。


「妙」

「なに?」

「お前、この部屋、さっきまで他に誰かいたか」

「え、と、どうして」

「これ、お前が書いたんじゃないよな」


 佐久間さんが差し出したものを見て、私は思わず息をのんだ。

 それは、書き損じのスコアだった。


「これ……」


 受け取って、見る。

 間違いない、これ、


【evanescent】だ。


「……なんで、ここにこんなものが」

「妙、ほんとうに、何があった」

「――え?」

「これ、この筆跡は……」


 そこまで言ってから、佐久間さんは顔を背けてせた。


「佐久間さん大丈夫?」

「ああ、それはいいから」


 眉間にしわを寄せて、口元を肘の内側で覆いながら佐久間さんは私に片手を向けて近寄るのを制した。


「妙、答えてくれないか。ここに、女が、いたろう」

「――なんで」


 なんでそんなことが、わかるの。


「これを書ける人間は、この世に一人しかいないからだ」

「ひとりしか、いない」

「ああ。何か、思い出すことは、ないか?」

「思い出す、って言われても」


 そんな急には何も思いつかな――


「あ」


 思わず息が止まる。

「どうした」


 私は、思わず口元を抑えてうつむいた。


「あれ、あのスコア、もしかしなくても、やっぱり最初はファイルに入ってなかったんだ」

「ファイル?」

「ここに、持って帰って来たから、それを、〈姫〉が見付けて、それで、〈姫〉がスコアを書いて、中に、いれた?」

「妙?」

「それならわかる、わかるけど、じゃあ、『Last will For Ster』って何? 【evanescent】って……」

「『Lastラスト willウィル Forフォー Sterステル』……」


 佐久間さんが、怪訝そうな声でそう呟いたことだけが、やけにはっきりと耳にとどいた。だけど、その言葉を発した直後、佐久間さんは「ああ」とすごい溜息をついて、両手でその顔を覆ってしまった。



「そうか、サイコはここにいたのか……」



「え」


 横から佐久間さんの顔を見た。指の隙間から、すこしだけ顔が見える。

 その顔は、苦い笑みで歪んでいた。


「ああ、本当に俺が馬鹿だ。お前、あの日【支配】弾いたって言ってたもんな。なんでその時に気付かなかったんだろうな」


 ゆっくりと、佐久間さんが立ち上がる。


「妙、すまん、帰る。近くにいるのはわかったから、探しに行かないと」


 言いながら、佐久間さんは玄関へ向かっていく。


「探すって、誰を」


 背中に呼びかけても、佐久間さんは振りかえらなかった。ただ一言、ぽつりとこう言い残して、出て行った。



「あいつを護ってくれて、ありがとう」


          †


 遠くに、海がみえる。


 ばたばたと風にあおられて、白いアオザイの裾がはためいた。


 巻き上げられた前髪をおさえて、その遠い彼方を見るけれど、夜の闇の中に沈んだ海は、ただただ、のったりと、黒い。


 果たして、どこまでが海で、どこからが空なのか。


 その境目を、はっきりと見極めることはできそうにない。時折、船のあかりらしきものがまたたき、たらたらと音を立てて進んでゆくくらいだ。


 いい加減にしよう、と、視線を海から逸らし、自らのそばにたたずむ物に目を向ける。


 ふうと、吐息が零れ落ちた。



 ――後悔していたことを、知っている。



 大地に打ち込まれた杭のような墓石を、〈姫〉と呼ばれていた女はひとり、見つめた。


 ゆっくりと、膝を折る。


 夜の墓所で、女がひとり身をかがめるその様子は、ひどく無防備に見えた。儚く華奢な身体は、純白のアオザイの衣ごと、またたくまに、風にさらわれてしまいそうだ。


 その静かなひとみは、何も語らない。



 ただ、だまって墓石の前へ、白い花を一輪添える。



 Psyは、音楽の中でしか生きられない子だった。


 音楽を通してでしか、世界を見ることができなかった。


 繊細な睫を伏せ、静かに溜息をつく。


 突風が襲い、白い衣がばたばたと騒ぐ。


 次の瞬間、手向けられた白い花は、風とともに闇の底に連れ去られて行った。





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