21.この世で一番哀しくて虚しいこと




           †


 家路に着いても、私はそのスコアを忘れることができなかった。いつもの乱暴な運転のバスにゆられて、私はまだ呆然としていた。全パートの音符の全て、記号の全て、歌詞の全て、とにかく全てが目に焼きついて離れない。


 ――あの歌を、一体どうやって表せばいいんだろうか。


 【5月15日の支配】は、まだ割とすんなり世界に入れた。あれは明らかに《WESTウェストGOゴー》のPsyサイが歌う歌で、裸のまま、ありのままの、彼女の作る歌そのものだとわかったから。


 だけど、あれは何かが違う。


 上手くは表現できないけど、なんだか、彼女が歌う歌じゃないように思えてならない。それに、なにか、があった。今までに見た他のスコアとは違う、果てしない違和感。


 気のせいかな。でもどうしてもそう思えてならない。


 歌詞だけ見てたら、しあわせな気持ちになれた。

 優しくされているのがわかって、「優しくしてあげたいんだよ」という優しい思いが伝わってきて、少しだけ暖かくなれた。


 ――でも、それに旋律がついたら、もう別物だった。


 優しくて強くて、もっともっと悲惨だった。

 こんな人間を知っている気がする。


(だれだったろ……)


 揺れの激しいバスに乗って、窓の外の夜景を見つめる。空いた座席はあったのだけれど、私は手摺りにつかまって立っていたかった。


 がくんっと揺れて、バスが駅前で停まった。


 バスを降りたとたん、ひどい寒気がして、私は思わず自分の肩を抱いた。早くウチに帰らなければと思っているのに身体がいうことを聞かない。〈姫〉がいるのに。帰らなきゃいけないのに。


 そう思う反面、心は逆のことを思っている。そう、逆。〈姫〉がいるから私はウチに帰れないんだ。〈姫〉は私が逃げていることを暴く。隠していることを暴く。そして、何よりあの歌だ。



 私はまだ生きています。

 あなたはまだ生きていますか?



 私は生きていると言える? あなたは……あなたは、あなたは。



 「あなた」。



 ママが私を「あなた」と呼ぶ。

 眠たげなリノリウムの廊下。オーガンジーのカーテン。真っ赤なカーネーション。白々しい廊下。め殺しの擦りガラス。懐かしいイメージ。淡い日の光。哀しいほどの眠気。誘い。私の、黒いソックスと焦げ茶のローファーをいた足。踏みしめているはずの脚。味気のないリノリウム製のタイルの染みが、ゆったりと笑いかけてくる。とろりと。両脚がリノリウム製のタイルに張り付く。


 両脚が、整備されたタイルの上に張り付いていた。


 ぷあん――と痛いほどのクラクションが鼓膜に突き刺さる。バスが発車して、一人取り残されて……。


 耳鳴りがする。

 ――そう、ぼおっとしていたのがいけなかった。どんっ! と誰かの肩が身体にぶつかって、私は思いっきりよろめいた。


「きゃあっ」


 ざっ、と音がして膝に痛みが走った。絶対擦り剥いた。そこで、やっと意識がはっきりとした。


「何だァ? 何ぼおっとしてんだよ⁉」


 頭の上から罵声を浴びせ掛けられて、心臓が凍りついた。……若い男の声。

「っ」


 顔を上げた先にいたのは、よく駅前でたむろしてる男の子達だった。眉間に皺よせて、ハデな髪型して、棒切れなんかを持ってる子達が五人。歩道の上でバイクを走らせたり、ゴミ撒き散らしたり、最近警察沙汰も起こして問題になってる子達だ。


 何てことだろう。何て失態だろう!

 金縛りにあったみたいに、私は動けなくなった。


「お前、人にぶつかっといて謝りもしねェのかぁー? よぉ。何様のつもりなんだよ」


 タイルの上に、私の身体は張り付いていた。

 耳鳴りが、ひどくなる。


「っ!」


 突然左胸が悲鳴をあげた。激痛に呼吸が妨げられる。息をすればするほど、この痛みは胸骨のすきまを縫って私を突き刺すのだと知っている。息ができない。動けない。


 どきん、どきん、どきん、どきん、――どくんっ、

(かみさま)


「立てよオラァ!」


 少し離れたところを、サラリーマンやOLが急ぎ足で通り過ぎてく。


 ――ああ、まるで、幻燈風景みたいだ。

 縁日で香具師やしが見せたのぞき穴の底の世界のように、その景色は遠過ぎた。


 そうだ。こんな時、周りに人間がいたって彼等は何の役にも立たない。彼等は助けてなんてくれない。私は、そのことを、この世で誰よりもよく知っている。今の子達は大変な家庭環境でとかなんとか、そんなふうにフォローするテレビのアナウンサー達なんか、私は大嫌いだ。自分が大変なのと、無関係な人に危害を加えることとは、絶対何にも関係ない!


「……っ」


 腕をきつくつかまれて引っ張り上げられて、腋の下で布が裂ける。ビッという音がした。胸を刺す痛みに相まって、その音は私を引き裂く。呼吸いきまでが引きつれて、ぎゅっと目を閉じた瞬間だった。


「お前等何やってんだ⁉」


 まさかの声が耳に飛び込んできた。

 顔を上げて、自分の目を疑った。

 そこにいたのは。


「ヨシヒト先輩――」

「なんだぁ? 何カッコつけてんだよ、おっさん!」

「粋がってんじゃねぇぞ、オラァ!」


 金髪の男の子が、ヨシヒト先輩の顔をねめ付ける。と、ヨシヒト先輩の顔が鬼みたいに歪んだ。


「誰がおっさんや! 俺はまだ大学生やアホンダラァ!」

「⁉」


 まさかの怒声に男の子達が一瞬ひるむ。その隙をヨシヒト先輩は見逃さなかった。


「こっち来い!」

「えっ」


 一瞬のことだった。


 私の身体はヨシヒト先輩に引きよせられて、一瞬宙を舞った。きつく引きよせられた腕。ふわりと薫った、なつかしいのに名前もわからない整髪量のにおい。


 それから、一瞬だけ抱え込まれた胸の温かさと、腕の力強さ。


 次の瞬間にはもう、私達は夜の闇の中を走り出していた。

 繋がれた指先の熱さ。流れて行く街灯。いつのまにか、胸の痛みは消えていた。


 背後から男の子達が追ってきているのがわかったけれど、それでも私達は走り続けた。走って、走って、完全な闇の中に二人で溶けてしまうまで走り続けた。


 永久に、走り続ければいいと思った。

 もう、このまま何もわからない世界に消えてしまいたかった。

 私を引きずって走り続けるこの人の、大きくて、指先にしこりが残る手だけを信じていれば、もう何も考えなくてもいいんだと思った。


 途中、何度か先輩が私の手を離した。それは路の脇に転がっていたドラム缶を転がすためだったり、追いついてきた奴を、殴って蹴り飛ばすためだったりした。私の手首をつかんだ奴は、顔面を蹴られて一瞬で伸されてしまったらしい。そしてまた手を繋いで走り出した。


 どれほどの時間駆けたのだろうか。


 私達を追う足音が遠くなったころ、たどりついた河原の土手を転がり落ちるようにして降りて、ふたり、水の流れの側にしゃがみこんだ。


「もっ、もうここまでくれば、大丈夫だろ……」

「っ……はあっ、はっ……!」


 全身が心臓になったみたいだった。

 私のだけじゃない。ヨシヒト先輩の心臓の音も伝わってきているんだ。ヨシヒト先輩は、まだ私の身体を抱きしめたままだった。


 さらさらと、水が流れる音がする。

 水のにおいと、汗と、整髪量のにおい。

 私達二人の、ぜいぜいと喉が悲鳴をあげる音。音に混じる血の味。

 そして気付いた。気付いてしまった。ここは〈姫〉と出逢った場所だ。


「――……。」


 もう何も考えたくない。


「妙? 大丈夫か?」


 ヨシヒト先輩が、私の顔を覗きこんできた。イヤだ、と思って、私は必死で顔をうつむけた。


「どうして――……」

「え?」


 かみさまは、どうして……。


「どうして、今助けるの?」

「みょう、……?」

「ど、して、あの時に助けてくれなかったの……? 今の私なんか、助けてくれなくったっていいのに……っ!」


 涙なんか流さない。泣きたくない。私は泣けないのに。

 唇を噛みしめて、私は先輩のシャツを握りしめた。 

 たまらなかった。


「あなた一体誰なの!? どうしてこんなに私を混乱させることばっかりするの⁉」

「妙……」


 必死に先輩を捕まえて叫んだ。このままでは私は溺れてしまう。この闇のような河にまぎれて、辛うじて存在している私は失われてしまう。


「ねぇ! どうして一番私を混乱させる時に現れるの⁉」


 そうだ。この人は何時も、私が過去の記憶をさらっている時に姿を見せる。いつも、いつも、じっと私の表情をうかがうような目で見てくる。


 私を、私自身を見ようとしてくる。


 その時ふと、ひとつの考えが脳裏を過ぎった。

 まさか、私は、前からこの人のことを知っている……? 


「多分――……」


 先輩は迷うようにひとみを歪めた。先輩は、哀れむように私を見下ろしている。縮れた髪が、整った目許が、そして呆れるほど綺麗な手が。


 先輩は私の手をつかみ、先輩のシャツから放させた。

 ああ、ほんとうに、この人は私自身を見ようとしていた。

 いや、見ているんだ。


「多分それは、お前が隠していることを、俺が知ってるからだ」

「――え」


 先輩は、静かに闇の彼方を見ている。


「何を、いってるの」 


 水の流れも、樹木も、空も、全てが闇になっている。全てが一つのものになって、ざわざわと音立てる黒い生き物になっている。


「私が隠してることって――」



 それは、一体のこと?

 〈姫〉のこと?

 それともママのこと?

 それとも。



「妙。この世で一番哀しくて虚しいことって、何か知ってるか?」

「一番哀しくて虚しいこと……?」

「読み始めてすぐトリックに気付いてしまった推理小説を読み進めることだよ。登場人物全てが滑稽こっけいに見えてならなくなる。こちとら、探偵役ってのは頭がいいもんなんだと信じているのに、どうしてお前は真相に気付かないんだって、な」

「――……。」


 何をいっているのだ、この人は。


「こっちはとっくに気付いてるかられて仕方ないのに、探偵はまるで、わざと真相だけを見逃しているかのように、導かれ得るミスリードを一々全部披露していくんだ。そうやって考察を進めて、終にクライマックスで真相にたどりつき、大仰に真相を解説する。――それを見届けるのは、ひどく虚しい作業だ」


 それは、一人だけ取り残されている虚しさなんだろうか。

 でも私は――敢えてその遠く離れた世界で安住していたい。もう何も見たくないし、見られたくない。だから。


「初めから答えを知っている探偵役ほど、存在価値のないものはないんだよ。――だから俺は、お前の言動全部が哀しいんだ」


 先輩の腕が私を抱え込む。

 その胸に再び落ちる瞬間。

 果てしない真っ暗な闇の中、赤い小さな十字架が一つだけ、ぽつん、と浮いていた。





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