20.【evanescent】



          †


 そのあと、私はまた鍵を借りてPsyの書斎へむかった。


 扉を緊張しながら開く。当然、がらん、とした空間があるに過ぎない。でも心のどこかで、おとが、まだ部屋の中にいるんじゃないかという気がしていた。あの時の拒絶と共に。


 部屋の中央に立ち、中をぐるっと見回してみる。それから音希がしていたように、ぱたんと床に腰を下ろして見た。でも、そんなことをしたって音希の心にはなれやしない。すれ違う気持ちが、冷たく私にし掛かってきただけだった。


 ――溜息がこぼれ落ちた。


 音希は、Psyの死を信じられないと言っていた。


 テレビの液晶を見る。暗い画面には、何も映っていない。歪んだ音希の顔も。微笑むPsyも。


 確かに音希の言うとおり、画面の中のPsyはまだ生きている。そして、私もまた画面の中のPsyしか知らない。私にとってのPsyは、永遠に液晶越しの存在だ。ディスクを挿入すれば、動画サイトにアクセスすれば、Psyは何時だって蘇る。でもそれは、やっぱりほんとうは、Psyそのものじゃない。


 しばらく、ぼんやりとしていた。


 唐突に背後から声がした。何と言ったのかは聞き取れなかった。誰かと思い振り返ると、そこにいたのはげつさんだった。最初のうち、彼はとても驚いた顔をしていたけれど、すぐに無言のまま扉を閉ざした。


 私は、また首を戻してぼんやりとした。そして、華月さんがPsyの名前を呼んだのだと気付いた。


 その後、扉の向こうで、タタラさんと華月さんが顔を合わせたことが気配でわかった。少しの間続いていたのは、さわさわとしたささやき声。それが何かの口論なのだとは気付いていた。わずかな冷たさをふくむ言葉の切れ味。タタラさんと華月さんの不仲には、何となく気付いていた。


 タタラさんから感じるのは、Psyに対する独占欲だ。多分、女性同士の友情からくる独占欲。


 正直にいうと、やっぱり私は、そこまで求められることを理解できない。盲目的といえるそんな感情を信頼しない。私自身はそんな感情を向けられても閉口するだけだと思った。強く思われたくなんかない。そんな重いものは、要らない。


 それに、己の感情におぼれることは、本当の相互理解コミュニケーションではないと思う。


 やがて、華月さんとタタラさんの間に片岡さんが加わった。華月さんと片岡さんの会話は、やっぱり霜が降りたように冷えている。内容から、今日の華月さんは別のスタジオで音希と音合わせをしていたことがわかった。だから顔を合わせなかったのか。


 三人はやがて口論を止め、ぼそぼそと話し込み始めた。


 彼等の関係は、決して断裂したものではないんだろう。互いに腹が割れている。真っ向から正直に向かい合っている。少しだけ疲れたような笑いが三人の間で起こった。私も何となく疲れた笑い方ができた。


 Psyも、こんなふうに部屋の中から彼等の様子をうかがったりしたんだろうか。


 Psyは、どう思っていたんだろう。

 それとも、こんな風に癒されたのだろうか。

 それとも孤独を感じていたのだろうか。


 仲間はずれのストリングベースみたいに。


 少なくとも、彼等の関係を見護りたいという感情なら理解できるかな、と思った。

 そんな取り止めもないことを、くだくだと考え続けているうちに、やがて扉の外から三人の気配が消えた。華月さんはブースの中に篭り、片岡さんとタタラさんは二人連れ立って外に出たらしい。


 本物の沈黙が室内で流れた。


 ――どれほどの間座り込んでいたのだろう。

 すっかり身体が冷え切ってしまった。


「あ、そうだ」


 思い出して、カバンを開く。中からファイルを取り出した。そう、前回ここに入った時にみたファイル、私、勝手に持ち出してたんだよね。……すいませんでした。怒られる前にちゃんとお返ししますね。


 内心で謝罪しつつ、ふと手の中のファイルに目を向けて、気付いた。


「――あれ?」


 なんだこれ。

 このポケットだけ、異様に厚みがあるな。


「こんなじゃなかったよな、もって出た時」


 指先で、その厚みの原因を抜き取った。封筒だ。封はされていない。表書きを見た。



『Last will For Ster』



「ラスト、ウィル……遺書?」


 手書きの文字で、表にはそう書き殴られていた。

 おかしいな。確かに、こんなの前は入ってなかった。

 指先で中身を引っ張り出し、広げる。

 そして、私の手は動きを止めた。


「エヴァンス……セント?」


 それは―――スコアだった。



『【evanescent】


 ここが、私の故郷ふるさと

 あなたがもう目にする事のない

 おきざりにした、かつての未来

 あれは、あなたの住む街

 冷たい流れに素足をひたしたこと

 夕べ、また夢に見た

 それが、つかの間の出逢いだったとしても


 私はまだ生きています

 あなたはまだ生きていますか?

 問うことすらできない場所に

 遠く離れたけれど


 愛されなくなったわけをさがして

 多くのものを捨てた

 そして捨てきれなかった

 この思いを怒りにするか

 それとも永久とわにするのか

 迷いつづけた日々の果てに

 まだあなたを思うことに気付く


 私はまだ生きています

 あなたはまだ生きていますか?

 聞きたいことがある

 私は、あなたを愛せていた……?


 何もくれなくていい

 思い出も捨てていい

 そこにいるあなたでいい


 私が、そうとは知らぬうちに

 あなたに贈ったものは

 あなたの中に根付き

 いつか芽を出すでしょう

 私の思いを吸い取って

 この距離を飛び越えて

 

 私はまだ生きています

 あなたはまだ生きていますか?


 私はまだ生きています

 あなたもまだ生きていますよ』



 私は、何度も何度も、その譜面を目で追い続けた。

 ト音記号のぐるりと巻きついたような形に、くらりと目舞いそうになる。

 ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 南洋系の観葉植物群だけが、試すように私を見下ろしていた。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る