5.青い炎

18.赤い十字架




 翌日。目が覚めたら朝日があたたかかったから、やっぱり学校のほうをサボって、マンションへ向かうことにした。


 戸締りを確認しながら、ちらりと背後に目をやる。


 その時の〈姫〉もまた、リビングの窓際にいた。哀しくなるくらい華奢きゃしゃな身体がまとうアオザイは、まるで白い風が絡んでるみたいに見える。そして、そんな身体に両腕を絡みつけたまま、彼女はぼんやりと視線を宙に漂わせている。そんな様子は、見た目そのまま、頼りない。


 溜息を吐きつつ、玄関に向かおうとしたその時、小さな溜息が聞こえた。


「……いつになったら、ちゃんと自分の脚で立てるようになるのかな」


 思わぬ言葉に、ふりかえった。

〈姫〉は、あいかわらず、頼りない姿勢のままだ。だけど、しずかに私を見ていた。突然の言葉に、心臓が鷲づかみにされる。


「――なに? それは、誰の話?」


 嫌なものが胸に、ごぽり、と沸く。


「私のことを言ってるの? 私を、責めてるの?」

「ちがう」


 〈姫〉は静かに首を横に振った。


「ねぇ、それ、私が自分と向き合ってないって、言いたいの?」


 〈姫〉は一度まばたくと、首を横にふった。


「そう思うのは、あなたがそう思っているからでしょう。言葉は、受け取った人間が、自分の持つ言葉で解釈するものなのだから」


 〈姫〉のその言葉は、淋しそうなのに、ひどく冷たかった。それは〈姫〉が言う通り、私がその言葉に拒否反応を示したからなんだろうか? 〈姫〉が言う通り、私が勝手に感じてるということか?


 でも、そんなものじゃないと思う。


「伝える気のない言葉なんて、垂れ流さないでよ。感情だだ漏れにしないで。責任感なさ過ぎだよ」

「あなただけの話じゃない」

「――それは、母さんのことを言ってるの? それともあなたの話? 私に何か言いたいの?」


 言ってから気付いた。


「――私に、何か話があるの?」


 〈姫〉の絹糸のような黒髪が、さらりと揺れた。立ち上がる。空気をすべるみたいにして、私に近付いてきた。そして〈姫〉は、そっと私の頬に指先で触れる。そのまま髪をいてあごに指先をはわせた。


 冷たかった。


 ふと疑念が湧く。――本当に、〈姫〉は生きてるんだろうか? と。


 思ってすぐに首を横に振った。それを言う資格は、私にはない。〈姫〉の指先が離れる。彼女の親指が一瞬、唇に触れた。乾いた感触がそこに残る。


 ゆらり、と〈姫〉の瞳の奥で陽炎のようなものが揺れた気がした。


 ――ふと、その視線に違和感を覚える。これは、〈姫〉は、こんな目をしていたろうか? 


 いや。

 そうだ。違う。


 今までとは違う。これまで〈姫〉がこれほどはっきりと私の姿をとらえていたことは、一度としてなかったはずだ。


 これは、

 一体――誰だ?



「もう全部、終わったんだよ。あれが『最後の手紙』。だから、ちゃんと受け取ってほしい。迷わないで、あなたを生きてほしい。最初で最後のお願いだから」



 突然の、聞きなれない低い声での言葉に、ざわりと肌が総毛立つ。


「――てがみ?」

「そう、伝えて」


 混乱する。もう、何を言っているのか、わからなかった。


「もういいから、やめて。待っててね〈姫〉。すぐに、帰ってくるから。ね」


 と、ゆらり、と。

 〈姫〉の眼差しがゆれた。



「――わからない」



「え?」


 そこでまた、〈姫〉の声はいつもの儚く高い音に戻った。眼差しもまた、いつもの曖昧あいまいなものに戻っている。私をはっきりとは見ない、いつもの〈姫〉のひとみに。


「待っていると、約束できるかわからない」

「〈姫〉……」

「わたしは、自分で動かなくては、ならなかった。――わかっていたのよ本当は。わたしは、もう、逃げてはいけなかったのに」


 はかない、笑顔だった。


 私は、逃げるように家を飛び出した。

 市バスに飛び乗ると、何人かの乗客に顔を見られた。頭頂部が薄くなりかけたサラリーマン。雑誌を広げていた大学生。百貨店での買い物から帰宅するところといった主婦。全身を黒一色でコーディネイトして赤い十字架のネックレスを下げた、サングラスの中性的な青年。他人の痛みに無頓着な少女達。――それらを見ないフリで、吊革にぶらさがる。何時ものとおりに揺られて、何時ものとおりに吊革に手のひらの皮が食い込んだ。


 痛くて、痛くて、私は誰の顔も見たくなくて、誰にも顔を見せたくなくて、もう、うつむくしかなかった。



 ただ視界の片隅で、赤い十字架クロスが揺れていた。




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